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パイレーツ・オブ・カリビアンシリーズも最後の公開を果たした。出会った当初よりもうんと大きくなった背中に寄りかかり、静かに目を瞑る。ナマエのその行動に合わせ、角名が少し背中を丸めた。

スポーツマンとしては比較的細いと思われがちな角名でも、こうして実際にくっつくと思わぬ筋肉量を感じられ、しっかりとした体型なのがよくわかる。大きく腕を回し、ぎゅっとしがみつくようにして肩甲骨のあたりに顔を埋める。腹の前に回ったナマエの小さく柔らかい手のひらを、角名は愛でるようにゆっくりと撫でた。

二年目の新人としては異例の活躍を続けているナマエと、次の春からチームへと所属することが決まった角名。お互いにお互いの成長や活躍を噛み締め、これからの未来に期待することができる順風満帆な日々だ。

ただ一つの不安要素は、どうしても距離が離れてしまうことだった。ナマエはもちろんまだこのままこの会社で仕事を続けていく。しかし角名の所属となるチームは静岡に本拠地がある。つまり、角名はこの春から東京で暮らすことはできない。

静岡と東京は、遠距離の類の中では比較的近い方だと思う。新幹線に乗れば一時間半ですぐに会いに行ける。お互いの真ん中で落ち合えば、そこまで時間も距離もかからない。

とはいえ今まで通りとは絶対に行かないだろう。普通の学生とは違い、これまでも時間の縛りも練習も厳しかった角名だが、それでも学生の身分であった。しかしもうそうではなくなる。お互いに社会人ともなれば自由は利かなくなっていくだろうし、プロのスポーツ選手となる角名は、普通の社会人よりもうんと時間も自由も少なくなってしまうだろう。


「なるべく会いにいくね」

「俺も、連絡もするし定期的にこっちには来るよ」

「無理しないでね」

「それはお互い様じゃん」


角名もナマエも、無理をしたらどうなってしまうのかは既に経験済みだ。それでも多少の無理は覚悟の上でやっていかなければならないのが遠距離というものでもある。未知な未来への心配は尽きない。


「静岡かぁ……旅行だと思うとそんなに遠くないって思うけど、倫太郎がそこにいっちゃうってなると、やっぱ遠いなぁって思っちゃうよ」

「確かに近いけど、気軽には会えないしな」


振り向いた角名にナマエが顔をあげる。角名がフッと吹き出すように静かに笑ったのを見て、ナマエは自分がそんなにも今寂しそうな表情をしてしまっているのかということを自覚した。


「なんかさ……いや、いいや。ははは」

「……何それ。ちょっとちゃんと教えてよ倫太郎」

「怒るだろうからやめとく」

「えー?逆に気になるんだけど!」


肩を震わせ、再び隠れるように前を向いた角名を覗き込むようにナマエが乗り出し体重をかけた。そんなナマエから顔を背けるようにして角名が逃げるように俯く。その堪えきれないような笑みを浮かべる様子にナマエはまた口を尖らせる。

何も面白いことなどしていないし、おかしいことは言っていないはずなのに、何がそんなに笑えるのだろう。むしろ寂しさから笑いとは反対の感情が湧いているというのに。そう思いながら、ナマエは「りんたろー」と少し低い声で名前を呼ぶ。


「ははは」

「ねぇー、なに?寂しがっちゃだめ?倫太郎は寂しくないの?」

「違う違う、そうじゃなくて、ふっ」

「もー」


ぷくっとナマエが頬を膨らませたのがわかった。その表情を確認するべく角名がもう一度後ろを振り向く。案の定拗ねるように目を細め唇を尖らせているナマエを確認して、角名はそのまま体勢を変えナマエを抱え込むようにして膝に下ろした。

向かい合ってもなお、ナマエは納得がいかないように頬を膨らませ続けている。それを見た角名はもう一度小さく笑った。可愛い。

ナマエに気軽に会えなくなってしまうかもしれないことは、自分自身も寂しさはある。それは本当のことだ。しかし、それを彼女もしっかりと感じていてくれていて、かつこんなにも全力で訴えかけるように感情を表に出してくれる、それを愛おしく思ってしまった。

可愛いな、ともう一度思ったところでナマエが角名の胸元に顔を埋めた。そして背中に思いっきり腕を回し、子供のようにしがみつく。

しばらく会えなくなることなんて今までにもあった。社会人と学生という立場の違いとか、お互いに少し忙しい環境に身を置いているために、次に会えるのは一ヶ月後だという事も多々あった。それでもいつでも無理やり会おうと思えば会える場所にいるのだという安心感はどこかにあったのだ。電車に乗れば、無理矢理タクシーに乗ってしまえば。思い切った行動が出来ない距離にいるわけではなかった。


「言ってもこの程度の距離だし、俺たちならやって行けるとは思ってるけど、それでも離れたくはないな」

「……倫太郎もそう思う?」

「当たり前じゃん」


電車やタクシーで無理やり会いに行ける距離では確かになくなるかもしれないが、海外に飛ぶわけではない。北海道や沖縄でもない。たかが新幹線で一時間半の距離だ。本格的な遠距離恋愛をしているカップルからは、もしかしたらその程度と怒られてしまうかもしれない。


「いつか倫太郎が海外移籍とかしちゃったらどうしよ……」

「気が早すぎ。大丈夫だからそれは」

「わかんないじゃん!」

「何でそこでムキになるの」

「移籍はなくても海外遠征とかには行くでしょ?」

「代表とかにならない限りほぼ行かねぇから」


呆れが混じったような角名の返しに、もう一度ナマエが頬を膨らませる。


「まぁでも、遠征なら数週間とか一ヶ月で帰ってくるか」

「そうそう。起こるかどうかわからない未来を心配してもね」

「三ヶ月会えないのがリアルな限界だよ。毎日だって会いたいのに」

「なにそれ。可愛いけど逆に三ヶ月は耐えられるんだ?」

「……嘘。倫太郎が強くなるために頑張ってるのは嬉しいから、たぶんいくらでも耐えられるよ」


柔らかなナマエの髪の毛を梳くように角名が撫でた。指先に絡みつく一本一本さえも愛おしい。そんな彼女に、会いたい時に会えないのは辛いものがある。ナマエはしっかりとした目標を掲げ進んでいくことができるけれど、それでも無敵なんかじゃない。結構考え悩んだりする場面も多く見てきたし、余裕がなくなるとわかりやすく崩れたりもする。離れていればいるだけその時にすぐに支えにいけない。かもしれない、ではなく、確実に。それが角名にとっては、寂しいよりもずっと怖かった。

ナマエが自分の支えであることは間違いないが、それでもバレーに彼女は関係ない。だからナマエにとっての俺もそうだと思う。自分が何かをする事で彼女の目標が近づくことはないけれど、それでも、やはり彼氏として、好きな人が誰かを必要とする場面ですぐに駆けつけられない可能性が出てくることは、寂しいというよりも怖いのだ。だからこそなるべく離れたくないと思う。

一回り小さな背中に腕を回した。角名は後頭部に一つキスを落として、ナマエの名前を呼ぶ。

困ったことがあればいつでもすぐに呼んでほしい。何かがあったら迷わず自分を頼ってほしい。我慢なんてせずに会いたいでも何でも本音で伝えてきて欲しい。そう言いたいけれど、いざその時が訪れた場合に、絶対に自分がそれを叶えられるかと聞かれると、この先は難しい状況にいる可能性の方が高い。約束はできないから、簡単に口に出せない。

他人に対してドライな自覚がある角名だからこそ、自分もこんなにも人並みに相手のことを想えるのだということに自分で驚いていた。

彼氏とは、彼女とはどう在るべきだ、なんてことに縛られたり囚われたりすることは無いが、一丁前に好きな人の中ではこう在りたいという感情が芽生えている。その為に生まれるもどかしさを抱えながら、願わくば離れている間に彼女にそのような現実がのし掛からないようにと角名は祈った。


「倫太郎、何かあったらすぐ飛んでくから言ってね」

「……そんなこと簡単に約束しちゃっていいの?」

「いいんだよ。口に出さなきゃできることもできないから」


寂しさに押しつぶされて角名との関係が崩れてしまうなんてことは、きっとここまでの年月を共に過ごしたのだからあるはずがない。ナマエはそう思っている。そんな簡単には揺らがない想いと関係を築いてきた自覚と自信があるのだ。

しかし、怖くないはずがなかった。ナマエだって。角名のもう見慣れた部屋着を握りしめるように僅かに力を込めた。

自分が相手の夢を邪魔することになるのがお互いに一番怖いのだと思う。己のわがままのせいで困らせてしまうかもしれない。角名に限ってはそれはないかもしれないが。しかし角名側が崩れる可能性だって無いわけではないのだ。経験がないからあり得ないとは言い切れない。

その時自分がどんな行動に出れる立場にあるのか、状況でいることができるか、わからないのだ。離れることで、定期的には会えないことで申し訳なく思う精神的な負荷をかける可能性も高い。スケジュールの無理な調整で身体的負担をかけることもあるかもしれない。相手の集中力を削る原因に自分がなりたくはない。自分のそれに相手がなってほしくもない。

やはり、まだ見ぬゾーンへ足を踏み出すことはそれなりに覚悟がいる。理想を語ることは簡単だけれど、現実はいつだって厳しいのだ。上を目指せば目指すほどに険しくなる。

倫太郎と一緒にいるために、自分はどうすればいいのか。お互い目標に向かって進み続けるためには、今、そしてこの先なにを選択していけば良いのだろうか。ナマエはゆっくりと息を吐き、そして静かに目を閉じた。

最善を見極め選んでいくのだ。お互いが納得する形で。過去も、今も、これからも。
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