入相の鐘も無し


日が暮れるまで静かに海を眺めていた二人が我に返った時には、すでに太陽が傾き始めていた。蒸した真夏の空気。どこか頭がぼーっとする。

この状況で熱中症にでもなってみろ、病院に行ったって医者も誰もいないんだぞ。角名は慌てて由佳の肩を叩き、涼しい場所を探して歩き出した。


「今何時だ。帰れんのかな俺」

「今……あ、十八時二十分だって」

「帰れるっちゃ、帰れるか」


にしてもあんなところにずっと突っ立っていたからか少しだけ頭が痛い。見つけた自動販売機で買ったペットボトルを勢いよく飲み干して近くのゴミ箱へと投げ入れた。

今からまた長時間自転車を漕ぐのは正直だるい。無理をしすぎても危険だし、しばらく休んで、道を知らないこと以外は危険はもはや無いのだからいっそのこと涼しい夜中に帰るのでもいいのかもしれない。


「角名くん、うち泊まる?」

「……は?」


角名が考えていたことを由佳に伝えようとして隣を向いたはずが、それより先にとんでもない提案をされたせいで全てが吹き飛び変な声が出た。

何言ってんの。心の中で冷静にツッコミを入れるが、呆れて言葉は出ない。気まずそうに視線を逸らした由佳が「ぁ、迷惑、だったかな。ごめん。でも、疲れてると思うしゆっくりしてったほうがいいんじゃないかと思って」と早口に捲し立てる。


「いくらなんでも、少し冷静になりなよ」


小さなため息をつきながら角名は言った。


「……ごめん」


由佳は俯きながら小さく謝った。

困る。いくら同じ状況に陥っているのが俺しかいないとしたってそこまで頼られては。そうは思っても、角名も実際に何かがあったとしたら頼れるのは自分とこの目の前の女の子しかいない。その現実にもう一度ため息を吐いた。

本当に困ってしまう。目の前のこの子にではなく、どうしたら正解なのかが全くわからないこの状況全てに。


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私は一体何を言っているんだろう。ずっと心細かった。寂しさに押しつぶされそうになっていた。だから、自分以外の誰かとこうして話して、同じ境遇に立っているのだと、仲間を見つけられたのだと酷く安心しきっていた。そして、同時にまた怖くなってしまったのだ。一度会ってしまったからこそ、また誰もいない、いや、確実にそこに居ることは分かっているのに孤独なこの世界で再び一人になってしまうのかと。

きっと角名が帰ったとしてもこの状況であるため二人はやりとりを続けるだろう。しかし、やはり動いている人物を目の前にした時の安心感はそれとは比べ物にならない。

危険なことだというのは重々承知だ。角名が言うようにもっと冷静になって考えた方が良いことは由佳にもわかる。今日初めて顔を見たばかりの相手にこんな言葉をかけるなんていくらなんでも普段なら絶対にしない。下唇を噛んだ。ぎゅっと握った拳が少し震えているのは、自身の発言に後悔しているからなのか、角名に気まずさを感じているからなのか、また一人になってしまうことへの恐怖なのか、その全てであるのか由佳にもわからなかった。

海辺からは離れたものの、まだほのかに潮の匂いがする。坂道を風が駆け抜けていって、日が暮れる直前のぬるい空気が二人を柔く包んだ。


「……守月さんの家、部屋何個ある」

「えっ」

「実家って言ってたでしょ」

「え、あの」

「誰も見てないこの状況で、誰のストップもかからないこの環境で、男と二人きりでここにいること自体が既に危険なことだってわかってるよね。いくら一人が嫌だからって、俺がもし気が変わって守月さんのこと押さえ込んだら、守月さん一人じゃ絶対に勝てない」

「……そう、だよね」

「でも、それでも、今この状況でバラバラになるよりはすぐに会える距離にいた方が良いと俺も思う」

「……」

「口ではどうとでも言えるから意味ないかもしれないけど、守月さんに乱暴なことはしない。それだけは誓うよ。でもこう言って油断させて騙す奴もいるわけだから、俺を信じるかどうかの最終決定は守月さん自身がして」


由佳の家でなくとも近くにいる方法はいくらでもある。誰も動いてないのだから勝手に家やホテルを借りたって怒られたりはしないのだ。しかし、いくら誰も見ていないとは言え勝手に誰かの家に侵入することはどうにも角名には出来なかった。例えそこがホテルだとしても。いくら普通から外れた世界だろうが、少しでも通常の感覚を失ってしまったら、それこそそこから全てが終わっていくんじゃないかと角名は考えていた。

そして、由佳も。食べ物だけはどうにもならないから近所のスーパーで日持ちするものを購入していた。購入するといっても、もちろんレジを打つことはできない。なのでその分の金額を置いてきていた。それでも無断でとっていくようで申し訳なく思ってしまう。しかし、悪いことをしているみたいだというこの感覚が無くなってしまうことの方が、由佳にとってうんと恐ろしいことだと思っていた。


「さっきは嫌な言い方したかもしれないけど、これからも軽く考えちゃダメだよ」


由佳の家に向かう途中、角名が由佳にそう言った。このような言葉をかけてくれる人は悪い人ではないと、そう言ったらきっとそういうところが危ないと忠告しているのだとまた怒られてしまう気がしたので由佳は黙って頷いたが、心の中では角名に対してかなり信頼を抱いていた。


―――――――――――――――


「ここ、私の家」

「……でかいな」


角名が考える私立の女子校に通う人のイメージは育ちが良さそうというものだったが、それは全くの偏見である。漫画やらドラマやらでそういう設定が多いというだけだから、みんながみんなそうではない事ももちろん知っているし、育ちが良さそうだからなんだという話なのでその類のことは角名は由佳には一切言っていなかった。

しかし外観のみからでも由佳は一般的な家庭よりも裕福であることが窺えた。角名が感じていた由佳のどこか騙されやすそうというか、人が良さそうで漬け込まれやすそうだという、このたった数時間で角名が得た印象はやはり間違ってはいないかもしれない。もちろんそれだってこういう家庭だからそうと決まるわけではないのだが。

そんなことを考えながら角名は案内された通りに由佳の家の中へと足を踏み入れた。外観のみではなく、内部も一般的な家庭よりもやはり裕福そうだった。


「お兄ちゃんの部屋が空いてるから、そこを勝手に使っていいよ。一人暮らししてるから荷物少ないけどベッドとかはあるし、置いてある服とかも着ちゃって大丈夫。多少物の配置とか変わってもあの人絶対気がつかないと思うし過ごしやすいようにしてね」

「ありがたいけど、配置変えるのはさすがにダメでしょ」


クツクツと喉を鳴らした角名に気がついた由佳がハッとしながら振り返る。どうしたの。そう言った角名はもう普段通りの表情に戻っていた。


「角名くん今笑った!?」

「……あー、まぁ」

「もう一回笑って。見たい」

「笑えって言って無理矢理見る笑顔の何がいいの」


言葉だけを見ると突き放すような言い方だが、揶揄われているのだろうという以上の嫌味は感じさせない言い方。由佳はこの短時間で角名の大体の性格を把握しつつ、考えが読みきれなくて、そしてそこがまた面白いと感じているようだった。


「……角名くんってどうやったら笑うの?」

「何その質問。結構普通に笑うよ」

「嘘だ〜」


眉を顰めた由佳に角名も同じ表情で返す。私の当面の目標は角名くんを大爆笑させることだなんて言いながら、由佳は角名に笑いかけ、そしてまた前を向いて階段を登り始めた。

こんな状況下に置かれているにも関わらず掲げられた呑気な目標に角名は口角を上げる。笑い声は出さない。ここはお母さんとお父さんの部屋だから、入っちゃダメね。そう言ってまた廊下を進んでいく由佳は、後ろで角名が穏やかな表情をしていることには気がついていなかった。




 

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