天国には程遠い


そして翌八月十日。角名は朝から自転車に跨っていた。地元にいるときは度々乗っていたが、兵庫に来てからは全く乗っていない。その久しい感覚に若干の不安を抱きながらも、太陽が登り切る前に済ませようと勢いよくペダルを踏んだ。

おばちゃん、勝手に使っちゃってごめん。絶対に返すから今だけ借りるよ。その自転車の持ち主に心の中で謝って、スマホが提示するルートをひたすら突き進む。

一方その頃神戸の街の一角で不安げにスマホの画面を見つめる一人の女子高生がいた。周りの人々が皆動きを止める中、彼女はソワソワと忙しなく視線を彷徨わせている。スマホを胸に掲げ勢いよく立ち上がり、座る。そのままはぁーと深く息を吐き、吸い込むと同時に再びバッという効果音が浮かび上がりそうなほどに素早く立ち上がった。

待ち合わせの場所はわかりやすく駅前にしたが、とても人が多い。人が多いと言っても全員動かないため、ここに角名が到着すればすぐに誰だか解るのだが、由佳の心配事はそれではなかった。

ああ、ヤバい。ついつい何も考えずに会いたいだなんて言っちゃって、本当に会えることになったけど、私何にも考えてなかった。最初は久ぶりに動いている誰かと会えるとか話ができるとか素直に喜んでたけど、もしも角名くんがイメージとは違ってすごく怖い人だったらどうしよう。ネットでは簡単に性格も何もかも偽れるから信頼し過ぎちゃダメって小学生の時から学校でも言われ続けてたのに。

この状況下で冷静になりきれる人間はかなり少ないとは思うが、それにしてもこの考えに至るのが遅い。自分意外にも人がいる。ただそれだけで喜びに満ちて心を預けられてしまいがちこの環境では、いつも通りなんてことの方が難しいかもしれないが、いざ会えることになった途端に由佳の中にも不安が募ってきてしまった。


『もうすぐつきそう。今この辺』


ダイレクトメールに送られてきた文章と現在地のスクリーンショットに目を通す。思ったより全然早い時間で角名はここへと近づいていた。人が動かないんじゃ車も何もかも動かない。すなわち信号なんてあってないようなものだ。さらに由佳はまだ知らないが角名は全国レベルの強豪運動部のレギュラーである。体力も人一倍あった。ノンストップで漕ぎ続ければ検索で示される予定時刻よりも早い到着になることはわかってはいたが、予想外に早い到着に先ほどからバクバクと高鳴っていた左胸が苦しいくらいに悲鳴をあげ始めた。

由佳は頭を抱えながら、早る心臓をどうにか静めようとしゃがみ込んだ。

角名くんがどんな人であろうと、今現在確認できる限りでは彼しか動ける人は見つかってない。いろんなワードで日々SNSの検索をしてみているけど角名くんのあのアカウントしか引っ掛からなかった。お母さんもお父さんもお兄ちゃんも友達たちも、確認できる限り全ての人が動きを止めてしまっていた。そこにいるのに目も合わず、会話もできない。訳もわからないままこの孤独と戦って、限界が来そうになった時に見つけたあのアカウント。私の希望だった。そしてこれまでの一週間、姿は見えないけれど何度もやりとりをして確実に心は軽くなっていたのだ。現れる相手がどんな人でも、その事実は決して変わることはない。

由佳が大きく息を吸って吐いたと同時に、カシャンと遠くで音がした。風や葉の揺れる音ではなく、とても人工的な音だ。律儀に駅前の駐輪場に自転車を止めた角名がキョロキョロと辺りを見回していた。

ゆっくりと立ち上がる。動きを止めた人々の中、唯一動いた由佳の存在に距離がありながらも角名は素早く気が付いた。そして、二人の視線が絡み合う。どんなに誰かの目の前に立っても焦点が自分自身に合うことがなかったこの半月間。見つめた相手がしっかりと自分を見つめ返してくれる。久しぶりのその感覚に、由佳も角名も僅かに心が震えたのだった。


「――角名くん!?」

「守月さん」


声がする。自分以外の他人の声。自分の名前を呼ぶ声が。

たった一人取り残されたと思っていたこの世界で、一週間前他の誰かも同じ境遇にいることを知った。そして、ついに今日、二人になったのだ。まだ出会って三十秒も経ってない。お互いの名前を一度呼んだだけ。それでも、自分以外の声が響き渡り、地面を蹴り、こちらに向かってくる風が吹く。その事実がとてつもない安心と希望と勇気に変わるのだ。

ここまで長時間自転車を漕ぎ続けた角名は、若干息を上げながらももう一度由佳の名前を呟いた。由佳は走って角名の元へと駆け寄って、その背の高さに少し驚いたようにしながらも「初めまして」と微笑んだ。先程までの不安なんてものは、もうこの時点で由佳の心の中には存在していなかった。




 

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