全部ふたり占め


バレーをした日から三日が経った九日。この三日間、以前と変わらぬ関係でいるはずの二人だが、全く同じでいられるわけもなかった。特に由佳の取り乱し方は、角名も思わず笑ってしまうほどだったのである。


「あ、ごめん」

「……っ」


バッという、漫画のような効果音が聞こえてきそうなほどに素早く手を引っ込める。その手を胸の前で抱えるようにして握りしめた由佳に、角名は「ちょっとやめてよその反応。傷つくじゃん」と言いながら揶揄うように笑った。


「だって、なんかこう……恥ずかしいじゃん!!」

「手が触れ合うことよりも、それを声を大にして相手に伝える方がよっぱど恥ずかしいんじゃないの?」

「それもそうなんだけど!」


ベタにベタを重ねたような食卓の一コマだ。醤油を取ろうとしたタイミングが被ってお互いの指先が触れ、恥ずかしがって手を引っ込める。昔から漫画やドラマで使われすぎたことで、もうそのようなシチュエーションで取り乱すようなストーリーは見かけなくなってきたほどだ。


「今までは普通に触ってきてたじゃん」

「その言い方なんか嫌だ」

「事実なんだから仕方ないだろ」


うっすら馬鹿にするようにそう言い放つ角名は、この程度で、という心の声を隠そうとはしない。それに悔しがり眉間に皺を寄せる由佳に、また角名は「冷めちゃうよ」と言って片側の口角をゆるりと上げた。

そして、その翌日の夜の出来事。


「眠いならもう部屋戻れば」

「もうちょっと……」


うつらうつらと船を漕ぐ由佳の肩を優しく揺すった角名は、見たいテレビも何もないはずのこの状況でどうして従わず反抗するのかと疑問に思いながら、今にも夢の世界へと旅立っていきそうな由佳の横に腰を下ろした。

パラパラと漫画をめくる。この間から読み続けている長編の漫画は、巻数が多すぎて未だに最新刊まで辿り着かない。


「……おい」


起きていることを諦めたのか、角名の腕に額を押し付け小さく丸まり始める。どんな体勢だよ。そう思いながら角名は「早く部屋行きな」と頭を押し返すが、由佳はびくともしないまま深い呼吸を繰り返していた。


「起きろって」

「ぅ〜〜……まだ」

「まだって何」

「もうちょっとだけ」

「これ以上いたら絶対ここで寝るでしょ。俺は運んでやらないからね」

「……でも、角名くんはまだ起きてるんでしょ?」


しょぼしょぼと声が小さくなっていき、次第に聞き取りにくくなる。ぐいぐいと押し付けられる額を、角名は少し力を込めて今度こそ無理やり押し返した。


「やだー!」

「子供か」

「だって角名くんが寝るまでは一緒にいたい……」


そうむにゃむにゃと弱々しく言って、すぐにすやすやと気持ち良さそうな寝息を立て始めた由佳に角名は盛大なため息を吐いた。

明らかに自分のこと好いていますという言動を四六時中浴びるこっちの身にもなれっての。しかしあのようなことを言われてしまった手前、角名はこれ以上強く出ることも出来ない。

あのベタなシチュエーションがまた悪かったんだろうけど、昨日は指先が少し触れただけであんなに狼狽えてたじゃん。この体勢は一体なんなの。幸せそうな顔をして眠る由佳の温もりを二の腕に感じながら、睡魔が襲いくるまで角名は内容がよく頭に入ってこない漫画のページをひたすら捲り続けた。

そしてまた次の日の朝――つまり、本日の朝。

日課となっている走り込みに行った角名が帰ってこないうちに降ってきてしまった雨に、由佳は慌てながらタオルを用意し、ケトルでお湯を沸かした。

まだまだ朝や夜も夏とそこまで大差のない気温が続いている。しかし雨に打たれてしまっては関係ない。確かに曇ってはいたが、雲の間に太陽が見えていたので雨は降らないだろうと思っていた。が、そんなことはなかった。天気予報が確認できないことにもやっと慣れてきたとはいえ、季節の狭間の変わりやすい天気が続くこの季節はやはり不便である。


「角名くん!」

「濡れた」

「濡れてるどころじゃないよ!拭いて拭いて!」


バケツをひっくり返したような激しさではないにしろ、この短時間で威力が増し、外にはもう少しばかり水溜りもでき始めている。降り始めた段階で既に家の付近まで戻ってきていたため、全身ずぶ濡れとまではいかないものの、しっかりと雨に打たれてしまった角名は服や髪から水を滴らせるほどにはびっしょりと濡れてしまっていた。


「シャワーするでしょ?」

「拭いて着替えればいいかなって」

「え、ダメだよ風邪引くよ」

「守月さんじゃないんだから大丈夫だと思うけど」


少し皮肉っぽい言い方をする角名に、「もう」と由佳が口を尖らせる。ゴシゴシと頭を拭いた角名が、乱れた髪の毛を整えるようにかきあげてみせた。

もう一ヶ月常に共にいるのだ。毎日風呂上がりの角名を見ているために由佳も過度に動じることはない。それでもその仕草を長く直視することは出来ず、角名からタオルを受け取るようにしてバレないように視線を外す。


「でもやっぱりシャワーするよ」

「うん。寒い?」

「別に」


リビングの手前に位置する風呂場に向かって歩き出す角名の後ろをついていく。振り返った角名は、「守月さんみたいに風邪引いたら大変だし」なんてまたおちょくるように楽し気に言い、「俺が風邪引いたら由佳さん大変でしょ」と続けてもう一度前を向いた。


「大変というか、心配するよ」

「心配されるのは困るから一応体は温めとく」

「うん」

「あと少ししか二人でいれる日数ないのに、寝込んじゃったら勿体無いでしょ」

「え、角名く――っいったぁ……!」

「……なにしてんの」


風呂場の扉の前までやってきて立ち止まり振り向いた角名に、由佳はそのまま勢いよくぶつかった。由佳の頭の位置的に、角名の胸に激突することになる。角名くん硬いと文句を言い鼻を押さえる由佳に、「俺が悪いの?」と笑いながら角名が扉に手をかけた。


「何もなくても俺が寝るまで一緒にいたいって駄々こねられてるんだから、たとえ風邪引いても守月さんは俺の側から離れないでしょ」


何もかもを見透かしたようなその言い方に、角名独特の空気感が滲み出る。


「そんなことされたら俺を心配する守月さんよりも、俺の方が守月さんに移さないか心配になる」


違う部屋に行くように言わないのだろうか。追い出しはしないのだろうか。そんな状態でも同じ空間にいることを許してくれるのだろうか。そう思いながらも、しかしそれを聞いて肯定でもされてしまったら、それこそ早鐘を打ち始めた心臓がついに破裂してしまうのではないかと不安になり由佳は口を閉じた。


「……ちゃんと温まってね。でも早く出てきて」

「はいはい」


出会った頃のどこか冷たそうな雰囲気など感じさせないような、角名らしい控えめな笑みを見せて風呂場へと消えた。

同じ家の中にいるのに。この期間はずっと一緒にいられるのに。それでも、眠る直前まで、どちらかが風邪を引いてしまったとしても、なるべく多くの時間を同じ場所で共にしたい。だから早く出てきてほしい。自分の抱くそのわがままな感情を、角名はきちんと理解した上でああ言って笑ったのだろう。

じわじわと溢れてくる羞恥心とほんのり染まる頬を隠すように、いつもよりも瞬きの回数を多くして、由佳はそそくさとリビングに戻った。

この胸の高鳴りを覆い隠すようにと、地面に落ちてはセンチメンタルな気分を煽る音を立てる雨は、まだもうしばらくの間止むことはないだろう。




 

- ナノ -