にじいろの呪文


八月の終わりといえどもまだまだ暑い日は続いている。しかし、猛暑日と呼ばれるまでの気温にはもうなかなかならない。それでも空には立派な入道雲が、今日も二人の真上に大きな島を作るように浮かんでいる。


「こんなに夏ー!って感じなのに、蝉の声ひとつしないのはいつまで経っても不思議なもんだねー」

「蝉ってうるさいだけだし、鳴き声聞くだけで暑いしいいじゃん」

「でもひぐらしとかは涼しげな感じしない?」

「そう?うるさいだけでしょ」


角名くん情緒ない。そう言ってぷくっと膨らませた由佳の風船のような頬を、叩き割るようにパンっと角名が両手で挟む。痛いという主張をスルーして、角名はスタスタと歩きだした。


「無視すんなー!!」

「――うわ、は!?」

「はははっ、びっくりしてる」

「何してんだよ」

「あそこまで連れてって」

「はぁ?わけわかんねーし降りてよ」


角名も何かしら由佳に言われるのだろうとは予想してスルーしたが、まさか背中に飛び乗られるとは思ってもみなかった。

重いとは感じないが、馬鹿じゃねぇのとは思っている。呆れたような顔をする角名にもめげずに、由佳はさらにしっかりと腕を回し離れない意思を見せた。


「暑い」

「俺の方が確実に暑いんだけど」

「……」

「無視すんな」


はぁとわざとらしく聞かせるような大きなため息を吐いて、角名は由佳が示した地点まで歩いた。そこまでくるとやっと満足したのか由佳は嬉しそうに背中を離れる。軽くなった背中と、ふわっと吹き込む風に僅かな涼しさを感じた。


「守月さんって最初はもっと大人しくて手がかからないんだと思ってた」

「手がかかるって何」

「わがままで突拍子ないってこと」

「えー」

「俺の妹もそんな感じ」

「じゃあ角名くんとは相性いいかも」

「絶対無い。俺妹と喧嘩ばっかだし」


いつも気怠げに丸められている背中をより丸めながら、角名は過去にあった妹との数々の口喧嘩をした日々を思い出す。

守月さんは確かに末っ子という感じはするけど、それでも妹よりだいぶ大人しい。大人しいというよりも、育ちが良いと言うのが正しいのかもしれない。あと口が悪くない。すぐに手も出ない。そんな、実際に妹に聞かれでもしたらそれこそ大喧嘩になりそうなことを考えながら、木陰で涼みながらしゃがみ込み、何やら地面に指で落書きをしている由佳のことを見下ろした。いや、ほんと何してんの、ガキかよ。


「これ角名くん」

「下手くそ」

「そんなことない。結構似てると思う」

「それが似てるって言うなら俺に対して超失礼」


あろうことか角名の似顔絵だという。その絵の横に平仮名で"すなくん"と付け足した由佳に、角名は「文字で説明する絵とか論外じゃん」とまた少し揶揄い気味に笑った。

由佳がまた言い返そうと角名の顔を見上げた時、鼻先に何かが当たる。その正体に気がつくよりも早く、思わず角名も素早く空を見上げてしまうくらいに急に、バケツをひっくり返したような激しい雨がバタバタと地面を叩きつけるように降り出した。


「え、すごい!ゲリラ豪雨!」

「いいから、早くこっち」


開けた場所にいたために雨宿りができる場所が近くになかった。広場を出てすぐに見つけた一軒家の玄関のひさしの下になんとか収まる。

この間のように全身どろどろになる程の濡れようではないにせよ、たった数十秒打たれただけでそれなりにびっしょりと濡れてしまっている。角名は水の滴る前髪を軽く絞るように整え、濡れた髪の毛を一つにまとめるようにゴムで結く由佳に視線をやった。


「大丈夫?」

「うん、びっくりしたね」

「また風邪引かないでよ」


角名の言葉にへーきへーきなんて暢気な受け答えをした由佳だが、そのすぐ後にくしゅんと一つくしゃみをする。あまりの説得力の無さに角名は顔を顰め、全然平気じゃないじゃんと怒ったような声を出した。


「でも寒くないし」

「うそ」


試しに触れた由佳の腕は、この前と同じくらいに冷えている。冷たいまではいかないまでも、濡れた状態のままでは体温もなかなか上がらないだろう。


「角名くんの手があったかいだけだよ」


由佳の頬に一滴の水が落ちた。由佳の前髪からではなく、角名のそれから落ちたものだ。

おそらく築年数が古いだろう一般的な一軒家なので、その軒先はだいぶ狭く、身を寄せ合わなければ収まれない。横降りになるほどの風ではないので降り込んでこないのが唯一の救いだろう。

もう一度由佳の顔に水滴が落ちた。とっさに目を瞑った由佳が、僅かにふらつき角名の腕を掴む。


「冷たい」

「……ごめん」


なんとなく気まずくなって、由佳から視線を外し角名は空を見上げた。


「ねぇ角名くん、虹出るかなぁ」


どんよりとした雨雲に覆われてはいるものの、少し遠くを見れば綺麗な青空が見える。おそらくこの雲が過ぎ去れば雨が上がると同時にまた晴れるだろう。「出るんじゃない」とそう言って、角名はもう一度自身の毛先に溜まった水分を絞るようにした。

だんだんと薄くなっていくグレー。大きな塊のような雲が過ぎ去ってからは、やはり嘘みたいに空が晴れてきた。塗り直す用の日焼け止めは持ってきていないと嘆く由佳に、どうせ元に戻るんならもういっそのこと限界まで焼いてみればと角名が言う。


「それいいかも」

「いいのかよ」


呑気な由佳に角名が笑う。この状況になってすぐ、止まったまま炎天下に晒され続けた人々の日焼け具合を観察してやろうと写真を撮った覚えがある。結局元に戻るためそれは意味の無い一枚となってしまったが、なんとなく消すのは躊躇われ、まだ角名のカメラロールの中にあった。

完全に雨が上がったのを見て由佳が虹を探そうと駆け出した。大人びている面もしっかりとあるくせに、どうも子供っぽさが垣間見られる由佳の後ろ姿に「転ばないでよ」と角名が声をかける。


「転ばないよ」

「どうだか」

「小学生じゃないんだから」

「さっき地面に落書きしてたのは誰」


呆れたように放った角名の言葉は、由佳の「あ、虹!」という大きな声にかき消される。本当に子供みたいだと思いながら、楽しそうに指をさし空を見上げる由佳の後ろ姿を、角名は七色に輝くアーチと共に一枚の写真に収めた。


「虹撮った!?」

「撮ったよ」

「見せて……って私まで写ってんじゃんこれ」

「ダメだった?」

「いいけどね。あ、じゃあ私も角名くん撮らせてよ」

「それはちょっと」

「なんで」

「俺は撮る専門なんで」

「ずるい。じゃあ一緒に写ろう」

「話聞いてる?」


青空に架かる大きな虹をバックに、笑顔の由佳とどこか嫌そうな顔をした角名がスマホの画面に映し出される。お互いしっとりと髪の毛が濡れ、いつもより若干幼い見た目になっていたが、その姿でさえも思い出だと由佳は満足そうに笑った。

八月二十八日。今夜は下弦の月の日だ。




 

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