走り出した理由をまだ知らない


昨日までの荒れた天候など忘れ去ってしまったかのように、痛いほどの日光を地上まで届けてくれている。台風一過とはよく言ったものだ。本当に嘘みたいに雲一つなく晴れているのが、もはや恨めしさを通り越して清々しくも感じる。

角名はいつもなら早くても朝の九時ごろに起床する。早くてもだ。しかし今日は七時に起きた。珍しく目が覚めてしまったわけではなく、自分の意思でこの時間に起きた。

しかし実はいつもこの時間に起きている。適当にいつも通りTLを更新して時間を確認した後、まだ眠れると二度寝をするのだ。なので起床時間は遅い。

リビングに降りてみると、まだ暗いままで明かりは付いていなかった。コップ一杯の水を体に流し込み室内を見渡す。角名以外に誰もここに来た形跡はなかった。昨日の夜のままだ。由佳はいつもこのくらいの時間には起きているが、昨日あんなことがあったのだからゆっくり寝ていてもおかしくはない。

広々としたリビングでグッと伸びをするように体を動かし、固まっていた筋肉を優しくほぐし目覚めさせる。朝だけれどこんなに晴れていたら外はすでに倒れそうなほどに暑いだろうが、それでも計画は取りやめることはなく角名は外に向かった。ランニング日和、と言うには少々暑すぎるが、少しでも体を動かすことを何よりも優先させる。

一時間ほど走っただろうか。ゆっくりとしたジョグで全身を整えたあと、帰宅した角名は「ただいま」とまずリビングへ顔を出した。しかしそこに由佳の姿はない。まだ寝ているのかと驚きながら軽くシャワーを浴び、それでも起きてこない由佳に、相当疲れてたんだなと申し訳なく思いながら、静かなリビングで朝の時間を一人過ごす。

昼も間近になった十一時。それでも起きてこない由佳に流石の角名も心配になる。ゆっくりと階段を登って由佳の部屋の前に佇んでみるが、中からは何も物音がしない。コンコンとやや大きめのノックをすると、少しの時間を置いた後に扉の向こうから由佳が何かを発した音がした。


「入るよ。今の声なに?……守月さん?」

「おはよう角名くん」

「声ガラガラじゃん。顔も真っ赤だし……もしかして熱ある?」

「うん、でも多分すぐ治ると思う。さっき解熱剤飲んだらだいぶ良くなったし」

「嘘だ」


どこかポヤポヤとした表情の由佳は普段よりもゆったりと言葉を紡ぐ。りんごを吸い込んだように赤く染まった頬からして、きっと相当の熱があるだろう。


「昨日体冷やしたからだよな。ごめん」

「角名くんのせいじゃないよ」

「こういう時ってどうすればいいの。医者……はいないし、薬……はもう飲んだんだもんな」

「狼狽えてる角名くん初めて見る」

「なんでそんなに呑気なわけ?あーほら笑うと咳出るから」


ゴホゴホと咳き込んだ由佳の背中をさするように数回撫でたあと、はっとした表情で角名はその手を離した。ありがとうとふやけたような緩い笑顔を向ける由佳に、「前に妹にこうしたことあって、つい」と、しなくても良い言い訳をしてしまう。


「優しいお兄ちゃんなんだね」

「ガキの頃の話だよ。今は妹もすげー生意気だし。こんなことしたら珍しがって明日は槍が降るって騒がれる。失礼なやつ」

「でも私からしたら角名くんはそういうことしそうな優しい人だよ?」


ケラケラと笑う由佳にため息をついて、角名は「熱下がんないよ」と無理矢理肩を押して横たわらせる。この話はもう終わりということだ。角名はいつも照れると話題を変えようとするなぁとやはり呑気に考えながら、由佳は抵抗することなく布団を被った。


―――――――――――――――


「調子どう?」

「だいぶ良いよ。ウイルス性じゃないのわかってるし、多分明日にはパッと治ると思う」

「でもまだ熱高いでしょ」

「まぁ、うん」


角名が手に持っているトレイの上には、湯気の立つ熱々のうどん鉢が置かれていた。こんなものしか作れなくてごめんと謝る角名に「全然平気だよ、ありがとう」と言って由佳がそれを受け取る。

寮生活なので一通りの家事はある程度できるが、料理となると話は別で、実家で作っていた程度の軽食のような簡単なものしかできない。うどんを茹でたりの料理とも呼べないかもしれないレベルだが、それでも今日みたいな日にはそんなものでもできて良かったと角名も内心ほっと息をついた。


「美味しい。角名くんが作ったからだー」

「湯でただけだよ」

「それでもいいの」

「期待値低くない?」

「そんなことないよ、角名くんこれ作ってる時私のこと考えてたでしょ?だから美味しいの」

「……恥ずかしげもなく自分からよくそんなことが言えるよね」


なんか調子狂うと角名はベッドの淵に座りながら由佳が食べ切るのを待つ。時刻は夜の八時。角名は先ほど一足先に夕飯をリビングで食べてきた。由佳が綺麗に完食したのを見届け、トレイを受け取り少し離れた床へ置く。


「熱何度」

「どのくらいでしょう」

「そういうめんどくさいのは良いから」

「わ、ひどーい」


ピピッと音を鳴らした体温計を見て、ひとまずこの体温ならこれ以上拗らせることはほぼないだろうと安心した。今悪化したら医者も何もいないのだから、それこそ元の世界に戻る前に終わってしまう。

朝よりもだいぶ由佳の表情も軽やかだった。まだ少しぼぅっとした様子ではあるが、若干舌足らずなあの子供みたいな話し方はなく、頬も赤みはさしてはいるがそれほどでもない。

指先まで体温の高そうな血色の良い手のひらを見つめる。角名のものよりも一回りも二周りも小さな手のひら。薄くピンクがかったそれにそっと触れた。同時に由佳がビクッとわずかな反応を示す。


「あ、え、ごめん。何してんだろ」

「全然大丈夫だけど……これも妹さんにしてた?」

「……あー、うん、だからつい」


嘘だ。こんなこと妹にするわけないじゃん。角名の心の声はもちろん由佳には届かない。守月さんも何納得してんの、おかしいだろ普通に。未だ触れたままの手を振り解かない由佳に若干の苛立ちすら覚える。

気がついたら手が触れていた。角名の意思に反して。今日は早く寝なよという角名の言葉に素直に従うように由佳は横になった。肩まで布団を被って、トレイを持ち上げた角名の様子を顔だけ出して見つめる。ジッと見られていることに多少の気まずさを感じ、角名がそのまま出て行こうとした直前に、由佳が「角名くん」と小さな声で名前を呼んだ。


「お願いがあるの」

「何?」


ドア横にあるタンスにトレイを置いた角名が由佳の元に戻る。熱で潤んだ瞳が角名を捉えて離さない。


「私の熱が下がったら、また一緒にバレーしよう」

「……それが、お願い?」

「うん」

「じゃあ早急に熱下げなよ。さっさとしないと満月になるよ」

「そんな一ヶ月も熱出さないよ」

「わかんないじゃん。守月さん、何が起きるか予想つかないし」


セットされていない、無造作に散らばる前髪をかき分け額に手のひらを乗せた。ひんやりとした角名のそれが気持ち良いのか、由佳はゆっくりと目を細める。触れたそこは通常の体温よりもだいぶ熱い。その温かさに心地良さを感じるくらいに。


「これも妹さんにしてたの?」

「……うん」

「良いお兄ちゃんだね」

「そんなことないって」

「私も小さい時お兄ちゃんによくしてもらってた」

「そうなんだ」

「私お兄ちゃんのこと大好きなの。だから、きっと角名くんの妹もそう思ってくれてると思う」

「俺の妹と守月さんじゃだいぶタイプが違うから、どうかな」

「でも角名くんが優しいことに変わりはないでしょ?」

「だから、俺はそんなに優しい人間じゃないって」


そっと手のひらを離した。由佳が満足そうに口角をあげる。角名は小さな声で「おやすみ」と囁いて、崩れた由佳の前髪を整えた後に部屋を出ていく。


「……あんなこと言ってるけど、やっぱり優しいよなぁ」


やはり熱があるからだろうか、すぐに睡魔に襲われた由佳は、もう一度ふふっと小さな笑みをこぼした後、ゆっくりと夢の世界へと誘われていった。

昨夜まで見えなかった月は、満月の姿から三分の一ほど欠けた状態で、澄み切った空の上から静かに二人を見下ろしていた。




 

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