甘い蜃気楼


流れていく街の風景をぼーっと目で追いながら、車内にかかるラジオが流す懐かしい曲を聴いていた。

それに合わせてふんふんと鼻歌を歌う結くんはずいぶん楽しそうで、信号待ちの間ハンドルに添えた指先でリズムを刻む。この曲好きやったなぁ。懐かしそうにそう言った彼の言葉に、窓の外へとやっていた視線を車内に戻して、「私もよく聴いてた」と返した。


「小学生の時授業中にでっかい声でこれ歌った友達が先生にめっちゃ怒られとった」

「あはは」


小学生。その言葉を聞いて「私も高校生の時によく聴いてた」とは言わなくて良かったと胸を撫で下ろした。別にどう頑張っても埋まることのない年齢差に劣等感を感じているわけではない。けれどこうして圧倒的な差を見せつけられると意識してしまう。最近はこんなことを考えてばかりだ。

駐車場に綺麗に停車した車を降りて、二人揃って店内に足を踏み入れる。平日の午前中でも家族連れの客が多い。ゆっくり店内を回りたい気持ちはあるけど、そうすると予定していたもの以外も買ってしまいそうだから、流し見程度で目的の売り場へと向かった。


「これなんてどうかな」

「ええんちゃう?使いやすそう」

「部屋の雰囲気にも合いそうだよね」


ネットで候補を絞っていたのですんなりと決まった。現在使っているものよりも一回り大きめのローテーブル。俺持ちます、と結くんはいつだって率先して荷物を運んでくれる。絶対に重いのに彼は軽々と片手で担ぎ込んだ。

駐車場へと向かうほんの少しの間だけだけど、彼の空いたもう片方の手に自分の指先を絡めた。私の顔を覗き込みながらハハッと嬉しそうな声を出して握り返してくれる。あたたかな手のひらの体温が心地良い。


「車とかも、ありがとね」

「俺がついて来たくて来てるだけやし」


帰りの車内でもラジオから懐かしい歌がかかっていた。大学生の時によくカラオケで友達たちと歌っていた曲だ。結くんは、中学生の時にこれを聴いていたんだろうか。

駐車場に車が停められシートベルトを外した。そのまま降りようとした私の肩を結くんがそっと掴む。何かあるのかと横を向いた瞬間、待ち構えていたように自然な流れでキスをされ、驚いて目を開くと、彼はそのまま少しだけ角度を変えてもう一度強く唇を押し付けてきた。そして目を瞑る間もなくすぐに離れていく。


「……もうすぐそこ家なのに、我慢できんかった」


申し訳なさそうにそう言った彼に胸の奥が大きく波打った。車を降りようとする彼の腕を掴んで、勢いよく引き寄せる。運転席まで身を乗り出し先程の彼と同じようにキスをした。結くんはまさか私からもされるなんて思ってはいなかったのか、目を見開いたまま口をぱくぱくとさせ何か言いたそうにしている。


「結くんのせいで私も部屋まで我慢できなくなっちゃった」


瞬きを繰り返す彼の頬を両手で掴んで引き寄せ、もう一度唇を重ね合わせた。下唇を甘く噛んで表面を舐め上げる。彼の様子を窺うように薄目を開ければ至近距離で視線が絡み合った。されるがままに私のことを戸惑いがちに受け入れる。いつまで経ってもこういう時は動きが少しだけぎこちなくなる所も可愛らしい。

ゆっくりゆっくり唇を離し少しずつ距離を取ろうとすると、素早く後頭部に手のひらが回され、今度は彼が助手席へと身を乗り出すようにしてまた立場が逆転する。そのまま真っ直ぐすぎる熱い視線が少しずつ距離を縮め返して再度鼻の先が触れ合った時、その視線を避けるように私は横を向いた。


「これ以上はここじゃだめ」

「……ずるいわそんなん」


ムッとした様子の彼を置いて車から降りた。後部座席に置いた買ったばかりのテーブルを引き摺り出すと、結くんもやってきてそのままそれを奪い取られ、ついでに私の腕も掴み上げられる。

引っ張られるように階段を上がり廊下を駆け抜け、気がつけばもう家の中にいた。慌てて靴を脱いで、未だ掴まれ続けたままの手首の先を見上げる。こっちを見ない結くんは足元に少しだけ乱暴に、でもしっかりと丁寧にテーブルの入った段ボールを置いて、そしてその上に雑に車の鍵を落とすように投げた。


「伊吹さん」


名前を呼び返す暇さえ与えてくれない。素早くて力強い彼に抱きしめられ唇を封じ込められる。何度も何度も離れてはくっついてを繰り返しながらズリズリと体を押され、気がつけば後ろにあったベッドにそのまま倒されていた。

欲に忠実なギラギラと燃える瞳に見下ろされた時の、背中を這っていくゾクゾクとする感覚がたまらない。


「あそこじゃだめってさっき言われました。ならここならええってことやろ」


返事を息ごと飲み込まれ、言葉とともに思考も止まった。彼はこんなにも私を求めてくれる。それが素直に嬉しい。同意を示すように彼の首元に腕を回した。まだ日が高い時間帯。平日の閑静な住宅街の一角にあるこのアパートの両隣は、この時間は多分誰もいない。静かで自然の光に溢れたこの空間で、結くんの持て余された体力の全てを受け止める。

予想外に彼のことを好きになってしまった当初はそりゃもう全てに無我夢中で、きっとどうにかなるだろうとか、その時が来たらちゃんと考えればいいだなんて思ってた。

未来地図をくるくると丸めて、開かないように紐で結んでそのまま船を漕ぎ出した。考えることを後回しにしてきた結果、やっと広げた未来地図はあの頃と変わらず白紙のまま。沖の真ん中でそれを手に持ちポツンと一人、どこを目指して進めば良いのかわからなくなってしまっている。

今になってこんなにも身勝手に焦り出し、意味のないことに落ち込んで、不安に駆られながら彼のことを受け入れている。それに申し訳なさを感じていた。

後悔、したくない。彼の勢いに流されて告白を受け入れてしまったことも、彼のことを好きになったことも。今までの私と結くんの気持ちも時間も、一つも否定したくないのに。

もっと初めからちゃんと考えてれば。そう考えてしまう自分が嫌だ。でももっとちゃんと考えてたら、こうして彼と私の航路が交わることもなかったのかもしれない。それも嫌だ。

好きだけでは突っ走れない自分の性格が嫌だ。なのに好きだけでここまで来てしまった。だからこそ今更こんなにも思い悩んでいる。

好きになってくれて、好きになって、好きで、好きでいてくれて。

幸せそうに微笑む私は、友人や親族に祝福されながらまっすぐな道を一歩ずつゆっくりと歩く。その先で私のことを待ってくれている人の隣に並んで、将来を誓うのだ。公園で遊び疲れた体を休ませようとシートに広げたお弁当を囲んで、こぼさないようにと注意しながら小さな手のひらにおにぎりを一つ持たせる。大きな口を開けて齧り付くその子の元気な様子に、顔を向かい合わせ将来を誓い合ったその人と笑いあうのだ。

理想の未来はこんなにも鮮明に思い描けるのに。理想は理想のまま。その幻の中で私の横に立つ相手の顔は、いつも光で消されて上手く見えない。


「っ伊吹さん」

「結く、ん」

「俺のこと、もっとちゃんと見てください」


頭の中がチカチカと光を放つ。思考回路に蓋をされる。悪いのはクヨクヨと考え続けている私だ。彼の指先が私の肌に触れるたびに彼のことを愛しく思うのに、私は何に対してこんなにも恐れているんだろう。




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