満ちて引いて


データの確認のために事務室を訪れていた。その帰りの出来事だ。休憩中らしいスタッフさん達がわいわいと話をしている。通りがかりに挨拶でもしようかと思った時、不意に聞こえてきた自分の名前に思わず足を止め、息を潜めた。


「銀島たちも付き合ってから結構経つよな。そろそろ決めてたりすんの」

「そろそろ?って何をですか?」

「結婚って意味っすよ。しっかりしてくださいよー」

「え、あぁ、あー。結婚……かー」

「何すかその感じ。結婚願望ないとか?」

「いや、そんなことはないけど……」

「あっちは結構意識しとるんちゃう?」

「はぁ、まぁ……多分」

「多分て。そういう気配察してて何もせん銀島もなかなかやるな」

「結婚願望ないわけやないってことは、戸田さんになんか問題でもあるんですか?まだそのタイミングとちゃうってだけ?」

「いろいろあるんですって」

「気になるわそんな言い方ー……はぐらかさんと教えて」

「もうええやないですか俺らのことは!そっとしといてくださいよ!」


ここからでは姿は見えないけど、何も聞いてないふりをして素通りすることもできなかった。彼らに私の存在がバレないうちにそそくさと急ぎ足で受付へ戻る。いつも通りの平静を保ちながら。

リストに名前やデータを打ち込みながらどうにかして仕事のことだけを考えた。肩に変な力が入っている。下唇を噛み締めて、画面だけを見つめた。カタカタと打ち込まれていく文字を必死で追う。いろいろあるって、なんだろう。察してたんだ。結婚願望はあるのに、私じゃダメなの?それともやっぱり彼としてはまだそういうタイミングではないとか?考えるな。考えるな。考えるな。

考えるな?そんなの、無理に決まってる。

タン、とエンターキーが乾いた大きな音を響かせた。俯きながらそのまま深く息を吸う。目を瞑ってゆっくりと長い息を吐いたところで、「あのー」と声がして急いで顔を上げた。


「お待たせしてしまい大変申し訳ございません、メンバーズカードはお持ちですか?」

「あ、はい」


嫌な騒ぎ方をする心臓に、震え出しそうになる手を無理やり動かして業務をこなした。 

今は深く考えるな。今は。まだ。

じゃあ、いつ?いつなら良いの?独りよがりのこの焦りは、いつ、どこで、誰にぶつけたらいいんだろう。

気がつけばあの日から二週間もの月日が経過していて、私は今日も彼の横を歩き共に帰宅していた。強い風が吹き荒ぶ。それに目を細めると、彼は私の肩を抱くように腕を回し「大丈夫ですか」と小さな声で囁いてくれる。


「うん、大丈夫。ありがとう」

「それはよかった。今日もそっち行って良え?」

「……今日は、結くんの部屋に行きたいな」


だめ?そう言って首を傾げれば、彼は「そんなに綺麗でもないけど、汚くも、ないと思う」と少し緊張した面持ちで答えた。

結くんの部屋が汚かったことは私が知っているうちで一回しかない。その一回は熱はないけど珍しく少し体調を崩し気味だと言っていた期間があって、その時に心配になって押しかけた時だった。とは言っても言うほどでもなく、散らかっているというくらいで、実際は散乱していた衣類をまとめてしまえば元通りの状態にすぐに戻る程度だったけど。

あまりそういう類を置かなそうなのに、彼の部屋には大切そうに一枚の写真が常に立てかけられていた。稲荷崎高校男子バレーボール部と書かれたそれには僅かに幼い顔つきの彼がいる。その横には今でも現役のプロ選手として活躍しているらしい三人の選手のサインが入ったボールが置かれていて、私は彼の部屋へと足を運ぶ度にその一角を眺めている。


「毎回毎回そんなに見られると流石に恥ずかしくなるわ」

「そう?なんか、いいなぁと思って」

「何がですか?」


写真に写る、私の知らない結くん。朝から晩まで部活に打ち込んでいて、女の子と付き合うとかそんな暇なかったわと以前言っていた。当時の実際の彼のことは何も知らない。けど、たぶん今目の前にいる彼と中身は変わっていないんだと思える。


「もっと早く出会いたかったな」


もっと早く生まれたかった、とは、思わない。私は私で今までそれなりに楽しく生きてきた。やり直したいことなんてたくさんある。結婚したいという感情はもちろん常にあった二十代前半。彼氏を作っては振られ絶望に暮れたけど、でもそれでも今までの人生に後悔はしていない。

結くんに出会えた今が一番素敵な恋ができていると思う。だからこそ、もっと早く生まれたかったではなく、出会いたかった。

二十代前半の苦い記憶たちが頭の中をぐるぐる駆ける。それなりにうまくいっていて仲が良くても、結婚したいという意思を見せると相手は少しずつ引いていった。重い、まだそんなこと考えられない、勝手に決められても。そんな言葉を残して去ってしまう。こっちもガツガツしていたと思うから私は悪くないなんてことは決してないと思う。それでも彼らは私の心に小さなトラウマを知らないうちに植え付けていった。だから今になって当時の彼らのことをとても思い出すのだ。

実際に結くんの友人たちには結婚している人も少なくはないという。もちろん二十代ともなれば、いつしてても全然おかしくはない年齢で、違和感なんて何も感じない。二十歳そこそこで家庭を持つ人たちはいくらでもいる。それでも私がその意思を見せたら離れていった彼らは結くんとさほど年齢が変わらなかった。だからこそこんなにも引っかかるのだ。


「もっと早く、俺やって出会いたかったし、そう思ってくれるのは嬉しいです」


珍しく僅かに低い声を出した結くんは若干俯きながら言葉を続ける。この部屋の空気に一気に緊張が走った気がした。


「……伊吹さんは、勝手すぎる」


悔しそうに顔を歪め、絞り出すようにそう呟いた彼は、ハッとした顔をして「ダメや、今のなし。ほんまごめん、忘れてください」と慌てたように私に背を向けた。なんて返していいかわからなくて私はその背中を見つめたままその場から動けない。結くんは「なんか飲みます?いつも通りコーヒーで良え?」と、私とは目を合わせずにそう言ってキッチンへと消えていった。

努めていつも通りでいてくれようとするから、こっちも何も言えないまま夜が深まってしまった。ジムを挟んで私の家とは反対方向にあるここは、すぐ近くに比較的栄えている駅はあるものの夜は静かだ。なんでもない、とは思っていても、いつもよりスキンシップが少ない。この時間は大概寄り添いながらテレビを見たりそれぞれ好きなことをしたりしてるけど、今日は人一人分のスペースが私たちの間に空いたまま。

先にシャワーしてくるね。そう言って立ち上がった私に「どうぞ」とだけ言って彼はもう一度手元の雑誌に視線を戻した。

伊吹さんは勝手すぎる。さっきの結くんの言葉が頭をよぎる。勝手、だと思う。本当に。一人で焦って一人で抱え込んでいるのがきっと彼にも伝わっているんだろう。それならもういっそのこと打ち明けてしまおうか。ぶつからないと答えが出ないなら、覚悟を決めるしかない。

とは言ってもそんな簡単にいくことはなく、気がつけば昨日は終わりを告げ、そして今日も気がつけば正午をとうに過ぎている。今は二人で外食を済ませたところだ。彼の家の冷蔵庫には食品がそこまで常備されていなかったから、どうせ買い出しに外に出るならいっそどこかで食べてしまおうというわけだった。


「結くんとこういう所くるの久しぶりな気がする」

「ほんまになぁ。旅行とか行った時しか喫茶店とかあんま入らんし」


手元のコーヒーに口をつけ、甘さのないそれを堪能する。結くんはふぅと息を吐きながら肩の力を抜いて背もたれに背中を預けた。


「そういえば何時に出るの?」

「んー、四時半くらいでええんちゃうかな。今日は集まんの兵庫やなくて大阪なんよ」

「じゃあまだ時間平気そうだね」

「おん、全然余裕ですわ。伊吹さんは?今日は自分とこ帰る?」

「うーん、そうだね。今日はこのまま戻ろうかな」


結くんは今日は高校の同級生と久しぶりに集まるらしい。プロのバレー選手だったりお店を経営していたり、それぞれ忙しい中で全員が集まれるのは貴重なことで、数日前からとても楽しそうにしていた。

夕方まで一緒にゆっくりして、結くんはそのまま出かけていった。自宅へとついて鍵を探す。が、一向に見つからない。どこにやったっけと焦りながらカバンの中身をひっくり返す勢いで探していると、職場のハンドバッグに入れっぱなしにしてしまった可能性が高いことを思い出した。

休みを取っている日ならまだしも、今日は定休日だからきっと誰もいないし開いてないだろう。ため息を吐きながらスマホを起動する。トーク画面に表示されるのは結くんの名前。ごめん、職場に自宅の鍵忘れちゃったみたいで、今日もそっちに泊まらせてもらうね。それだけ打ち込んで彼の家へとまた足を進めた。

結局、今日もまた言い出せなかった。もう一度今度は大きな息を吐く。どんよりと体が重い。一人になった途端に暗くなってしまう。考えなきゃならないけど、でも考えすぎるのも良くないだろう。今日はシャワーを浴びてもうそのまま寝てしまおう。

転覆を心配しながら、船の端にしがみついてその場に留まり続けている。どこかしらの岸を目指さずその場所に居続ける方が、よっぱどいつか波に飲まれて転覆してしまう確率が高いというのに。

沈む気持ちを引きずるように歩いた。この問いの正解は、一人では導き出せない。




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