夜明けの波打ち際で誓う永遠


結くん。私がそう呼んだせいでその場にいた人たちが一斉に振り返りこちらを見た。毎日毎日送ってくれるから、きっと今日もそうだろうと思って彼の様子を伺ったのだけど、私が名前で呼んだせいでまた注目を浴びてしまった。


「なになに、銀島と戸田より戻したん?!」

「いや、そういうわけじゃないです」

「紛らわしいな!」


がっくりと項垂れたリアクションの大きい相手は、「やけに銀島が元気やからそういうことかと思っとったのに」と言いながらもう一度深く椅子に腰掛けた。俺らは俺らのペースでやっとるんやから、変に口出しせんでくださいよーと茶化すように自ら言った結くんが荷物を持って立ち上がる。行こ。そう声をかけられそれに素直に頷いた。

こんなやりとりが一週間ほど続いた。そして、今日も。

二人揃って夜道を歩きながらなんでもない会話を交わして、そしていつも別れる大通りまでやってきた。手を振って笑顔でさようなら。まるで仲の良い友達みたいな関係。別れてからも仲が良いカップルなんて本当に存在するのかと疑わしいけど、実際に存在するっていうんだから驚きだ。でも私たちは、それに近いだけでそこには属せていない。

確かに私たちは別れた。けれど完全に切れてはいないのだ。この間のやりとりのおかげで再び私たちの気持ちは繋がったと思う。でもあそこで全てを元通りにとはしなかった。

そのまま何事もなかったように元に戻ったら、私はまた彼の優しさに流されて甘えてしまうと思ったから。もうすでに周りから見れば呆れられるくらいに甘えているんだろうけれど。


「あ、の……伊吹さん」

「なに?」


今日は火曜日。以前ならここで家に行ってもいいかと聞かれていたと思う。視線をキョロキョロと左右に彷徨わせた結くんはソワソワと落ち着かない様子で、いつになく緊張感が漂っている。


「飯とか、食べに行きませんか」


先週の休日、彼が本音を打ち明けてくれた後に私もまた色々と考えた。私にとっての彼はどんな存在なのか。ずっと結婚に拘ってきた。そしてその結果ああなってしまった。そのまま本当に彼と離れ離れになってしまったとして、彼以外の誰かと一緒になる道を歩むことを果たして私は選ぶことができたのか。

たくさん考えて、自分なりに結論を出した。結くんに言われてからこうして考え出すなんて都合の良いやつだと思われても仕方がない。でも、それでもこうして思考を閉ざしていた私に対し、諦めずに追いかけ続けてきてくれた結くんに、今からでもしっかりと向き合いたいって思ったんだ。


「私の家くる?」

「――え!?え、と、行きたいです、けど、俺らまだ一応別れたまんまやし、流石に家に上がり込むのは」

「結くんなら無理矢理乱暴なことはしないと信じてのお誘いなんだけど」

「乱暴なことなんて絶対せんわ!!」


声を大きくした結くんがハッとした表情をして口を閉ざす。外だとしにくい話とか、たくさんあるでしょ。そう言った私に頷いた彼が嬉しそうに口角をあげて私の横へと並んだ。


「付き合ってない男家にあげるとか俺以外には絶対したらあかんで」

「しないよ。結くんしか呼ぶ予定これからもないし」


もうすでに答えを伝えていると言っても過言ではない私の言葉に、彼はさらに嬉しそうに表情を緩める。

どんな状況でも私のことを考えてくれていて、いつだってそばにいてくれる。彼が私のことを蔑ろにした瞬間なんて今までに一度もなかった。きっと結くん以外の男性にも、こんな風に優しくて相手を思いやれる素敵な人はたくさんいるはずだ。でも、彼以外にこんなにも私のことを想ってくれる人はこの先現れるのだろうか。こんなに好きだと思えて、好きだと思ってくれる人は、きっとこの先現れない。絶対、現れない。

結婚とか、周りの目とか、自分の中の堅苦しい拘りとか、そんなものよりもまず彼が一番に大切なのだ。私はなんでこんなにも簡単で大事なことに気がつけなかったのかと不思議になる。彼の気持ちはしっかりと伝わっていたはずなのに、私はその手前でごちゃごちゃとした思考にがんじがらめにされていて上手く応えられていなかった。

優しくて、真っ直ぐ過ぎるくらい真っ直ぐで、いつだって正直。ご飯を食べ終わって、それでも落ち着かない様子の結くんが「こんなに伊吹さんの家で緊張すんの二年ぶりや」なんて上擦った声で言い出すからまた笑ってしまった。


「笑わんといて。ほんま、あかんて、揶揄っとるやろ」

「そんなことないよ、なんだか懐かしいなぁと思って」

「うわぁー嫌やー、楽しんどるこの人」

「初めて私の家に呼んだ時さぁ、結くん緊張しすぎて上手く喋れなくて唇噛んで出血したよね」

「……俺の人生で一二を争う失態やったなあれは」

「あはは」

「はよ忘れてください」


結くん用の食器も何もかも、一ヶ月が経っても捨てずにとってある。もちろん彼の服やら置いてあるものも、配置も変えずにそのまんま。

最初はただ流されるように付き合い出したはずなのに、いつの間にか彼は私の中に当たり前に存在する大切な人になって、そして私もそれを当たり前のように受け入れてた。

会話が止まって空気の流れが変わる。それを悟ったのか、彼もこちらを見ながら呼吸を整えるようにゆっくりと息を吐いた。


「私は結くんも知ってるように誰かと結婚して家庭を築くのが夢で、そのせいで一人で焦って何度も失敗してきた。結くんにも同じことを繰り返そうとして……もしも結くんの次の誰かに出会ったら、私はその人とその夢を叶えることになるのかなって、考えてみたの」


ポツポツと話す私の言葉を聞き逃さないように真剣に聞いてくれる結くんが「うん」と小さく頷く。


「その人と結婚することも家庭を築くことも出来るかもしれないけど、なんか違うの。本当に心の底から幸せだって思えるのかわからなかった。私の夢って一人で叶えられるものじゃないってことに今まで気がついてなかったの。私の横にいるのはやっぱり結くんがいいって思った。幸せになるなら結くんとじゃなきゃ嫌。私も結くんにそう思ってもらいたい。そう思ってもらえるような存在になりたい」


結くんに言われたから、また流されてこの考えを導き出せただけだと、そう思われてしまうかもしれないけど。

付け足したその言葉に彼はしっかりと首を振った。見つめ合った私たちの間により一層濃い緊張感が漂う。でも怖くはなかった。冷たいんじゃなくて、あたたかい。そんな心地の良い緊張感。


「伊吹さんの気持ちはちゃんと伝わってきてます。だから、とってつけたようになんて曲がった受け取り方はせんよ。俺はその言葉が聞きたかっただけです。俺がいいって、素直にそう思って欲しかったんです」


眉を下げながら口角を上げた。柔らかな笑み。あったかくて太陽みたいに明るい彼は、時々こうして慈愛に満ちた表情を浮かべる。全てを包み込んで肯定する、優しい木漏れ日みたいな。


「俺は鈍感とかよく言われてきた。今でもたまに言われる。でも伊吹さんにはその鈍感さを発揮してくれんかった。あーもうこんなん気がつきたくなかったー、気がつかなかったらそのまま結婚の話もなにももっと出来たのにーってへこんだりもした。でも伊吹さんのことになると嫌でも気づいてしまうんよ」


僅かに眉を顰めて話す彼の言葉を、今度は私が聞き逃さないように真剣に聞く番だ。自分なりに言葉を選びながらゆっくり話してくれる彼の目をしっかりと見つめる。


「俺はたぶん伊吹さんが想像しとるよりも伊吹さんのことが好きなんです。そんなこと言うとそれこそ伊吹さんが俺に思ってくれてたように重いとか面倒臭いとか言われるかなって思って、人並みの頻度でしか好きとか言ったことないから伊吹さんは知らんかもしれんけど。ほんまは毎秒好きって言いたいくらいなんです」

「え……」

「……引いた?」

「違うよ、引くわけない。ただ……そんなこと言われるとは思ってなくて、ちょっと恥ずかしくて」

「良かった、照れとるだけか」

「ちょっと」

「伊吹さんのこと好きすぎて、伊吹さんの気持ちもちゃんと知ってんのに、俺がいいって言葉が聞けないのに勝手に拗ねて、子供みたいに受け入れらんなかった」

「ううん、当たり前だよそんなの。これは私が悪いよ」

「どっちも思い切って素直になりきれなかったのがあかんねん。俺こそすまん」

「全面的に私の方が悪いと思うけど、でも、そう言ってくれてありがとう。私も、本当にごめんなさい」


テーブルの上でぎゅっと握りしめた拳を解くように彼が私の手を包む。仲直りや、なんて、そんな可愛い話題ではないのに嬉しそうにそう言った彼に自然と力の抜けた笑みを浮かべた。


「伊吹さんの焦りもなにも全部無くなるし、ちゃんと好きでいてくれとるんやからもう結婚しよって言い出してしまおうかなってなることもめっちゃあった」

「めっちゃ?」

「伊吹さんのこと好きって思うたび、もう細かいことはええやん自分って思っては毎回我慢してたんですよ」

「…………」

「でもそれじゃ伊吹さんの夢を利用してるみたいにも思えて、それは嫌やったし」

「結くんは責任感が強いから、私がもしそのままプロポーズに頷いてたらずっと抱え込んじゃってたかもね。そうならなくて良かった。我慢してくれてありがとう」

「……俺ほんまによう頑張った」


私の手を握りながらテーブルに顔を伏せた彼がゆっくりと脱力する。向かい合わせに座っているからこの距離がもどかしい。

目の前にいる結くんのことが、私はちゃんと心の底から好きだと思える。だから、結婚したい。この人と叶えたい。この人じゃなきゃ、いやだ。

結くんと呼んだ私の声に顔を上げた彼が体を起こした。触れていた手を離して彼の横へと移動する。今まではいろんなものが私たちの間を隔てていた。けれどもう塗り固められた思考も、いらない心配も、不安も、責任感も、なにも存在しない。

手を伸ばせば結くんだけに触れられる。愛しいという感情以外、なにも指先に乗せなくていい。


「……伊吹さんが言いたい?俺が言っても良い?」

「そうやって聞くのはずるい……私が言う」


今の伊吹さんならそう言うかなと思って。そう言って結くんは楽しそうに頬を緩めて大きく笑った。

空気が変わる。緊張感がどこかへ吹き飛んでいって、雲の切れ間から顔を覗かせた太陽から真っ直ぐに穏やかな日差しが降り注ぐ。全てを優しく溶かすようなあたたかな彼のことを、自分の勝手さで手放したくはない。

でも、私はいつも、こんな聞き方しか出来ないから。


「心の底から大切だと思える人と幸せな結婚をして素敵な家庭を築きたい。それが私の夢。でももう結くん以外の人を心の底から好きになることなんてできない。だから、結くんじゃないと私の夢は叶えられないみたい。叶えてくれる?」

「……ずるいなぁ」

「責任感の強い結くんだからあえてこういう言い方するの。私がずるいこと、知ってるでしょ」

「よく知ってます。自分から言うって言いながら、俺に言わせるところも、ずるくて伊吹さんらしくて良えよ」


熱い手のひらが私のそれと合わさった。指先が少しだけずれて、お互いがお互いを離さないようにしっかりと絡め合う。繋がれた手をもう解かないように、どんな荒波にも負けないように、強く強く握りしめた。


「伊吹さんの夢は責任持って俺が叶えたる。だから、結婚してください」


飾らない言葉で、飾らない感情で、真っ直ぐ素直に私の元へとあたたかさを届けてくれる。結くんと同じ表情をした。溢れ出す愛しいという感情に、上限なんてものはない。




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