あの海より深く愛してみせるよ
早朝のここにはまだ誰もおらず、太陽さえも姿を見せてはいなかった。
薄暗闇に覆われている世界。ザザンと静かな音が響く。潮風が髪を揺らして視界を僅かに遮った。
「寒くないですか」
「全然。でも指先は少しだけ冷えるかも」
そっと握られた手のひらからじんわりとあたたかさが広がっていく。薄暗い視界でも結くんの姿はしっかりと確認できた。
「あと十分くらいかな」
「少しずつ明るくはなっとるしなぁ」
砂浜に腰を下ろした彼の横に同じように座った。繋いでいた手を離して彼が肩を引き寄せる。斜め上を見上げると視線だけでこちらを向いた彼と目があった。まだ水平線から太陽は顔を覗かせていないにも関わらず、彼が言う通り確かに少しずつ明るくなってきている。
「無計画でここまできたけど、日の出見た後はどうする?」
「何も考えとらん。見たら決めよ……なんやその顔」
「結くんって、色々計画立ててそうで結構無計画に突っ走るよね」
「伊吹さんは無計画に突っ走りそうなのにやりたいことは明確で、でも先の事わからなくなると不安そうにしますよね」
ニヤッと揶揄うように口角を上げた彼に口を尖らせると、コツンと頭をぶつけられた。私もやり返すように彼の肩に額をぶつけて、そのままそこに頭を預ける。私の肩を抱いていた手のひらが後頭部に移動してさらに強く引き寄せられた。丸まるように下を向いた私の耳元に口を寄せて、「なんでそっち向くん」と笑いながら彼が囁く。
「良い雰囲気になってるような気がしたから?」
「ならこっち向いてくださいよ」
「ハハッ」
「こら、笑ってんな」
目の前の海しか私たちのことを見ていない。このやりとりは波音に消されてどこにも届きはしないだろう。身を寄せ合って肩を並べる私たちの元に僅かな光が届いた。朱いそれは屈折することなく真っ直ぐに私たちを照らして、ほのかな熱を肌の表面に置いていく。
「おー、きたきた」
「綺麗」
青い海が赤く染まる。キラキラと輝いた海面は天然のミラーボールみたいだ。
「……結婚に、理想を抱いて憧れてたのは俺も一緒なんです」
「そうなの?」
「もう震えるほど最高な結婚式を四回も見てきたんで」
小さく笑いながら彼がそう言って私の方を向いた。結くんの髪の毛も朝日を浴びて海面のように輝いている。その眩しさに目を細めた。
そのままゆっくりと瞼を下ろした。視界が真っ暗になって何も見えなくなる代わりに、導くような優しいキスが降ってくる。周りが見えなくなったとしても彼は私を置いていかない。私も彼を置いていきたくない。角度を変えてもう一度強く押し付け合う。唇から伝わる熱と、触れた指先から伝わる感情と、波の音が全身を駆け巡っていった。
「……好きです」
「うん」
「照れたな」
「……だって」
「好き」
「わかったよ」
「毎秒でも言いたいって言ったやろ」
「だけど……」
「だけど何?」
「っ……私も、好き」
「なんやそれ」
だけどから繋がらんやんと言って笑う結くんの肩を軽く叩いた。いてっ、と大袈裟なリアクションを取った結くんはまた私の肩を抱いて前を向く。さっきよりもさらに少し大きく顔を覗かせた太陽が、私たちだけではなくこの空の下の全てのものを包み込むように柔らかな光で照らす。
「結くんはさ、本当に私のこと好きだよね」
「自惚れてるんとちゃう?」
「…………」
「嘘やて。伊吹さんが呆れ返るくらい、めちゃくちゃに好きですよ」
「ええ?」
「でもあんま言い過ぎると、伊吹さん今度はそんなに好きになってもらえる要素どこにあんのやろ〜とか言ってウジウジしだしそうだから黙っとこ」
「……なんか今日の結くんちょっと意地悪」
「今まで俺のこと見とらんかった仕返し」
ガキくさいか。そう言って困ったように肩を震わせて謝ってきた結くんは、私の背中に両腕を回してふぅと息を吐く。彼の胸に額を埋めて私もそっと息を吐いた。
聞こえてくる波の音が鼓膜に大きく響く。一定の間隔で押し寄せては引いていくその音が心地良い。
私はいつもそれを心地の良いものと捉えられていなかった。波打ち際に立っている私には陸と海を早く選べと急かすだけの音に聞こえて、沖に出ても、白い波は私をどこだかわからない場所に連れて行ってしまう危ない存在でしかなかった。
どこかに辿り着きたいのに、どこに辿り着けばいいのかもわからなくて、流されて流れされて、立ち止まりながらもふらふらとどこかに行こうとする。
私は流されやすいと彼は言った。いつだってそうだった。人の意見とか世間の目とか、よく知りもしない勝手に作り上げた主張や思考に囚われて、風が吹いた方向にぷかぷかと流される。
私の辿り着きたい岸はどこにあるんだろう。何もわからないまま地図を広げても目的地がないと進む方角も定められない。どこに行けば結くんに会える?彼の腕の中にはどっちに進めば飛び込める?それだけを頭の中で考えてただ飛び込んでも、目の前に上陸できる場所がないから海底に沈むだけだ。どんどん光が消えて暗くなって、体も重くなって酸素もなくて、冷たい海の底に体を横たわらせることしかできない。
流されてばかりでただ沈んでいく私は、ずっと手を差し伸べてくれていた結くんの存在に気がついていなかった。
結くんは、岸にはいない。どこを探しても、いない。彼はいつだって真上に居て、私のことを照らしてくれる。波に流されどこだかわからない場所に着いたって彼は必ずそこにいるのだ。彼の照らす方に行けばいい。地図なんていらない。彼の光が示す方へ。その向こうに彼がいる。
「……最初はさ、このまま断り続けても変わりそうにないから、とりあえず一回付き合った方が諦めてくれるのかなって思って、結くんの告白受け入れたの」
「気づいてましたよ」
「それでさ、しばらくしたらやっぱ別れようって言おうと思ってたのに、結くん、私のこと本当に好きでたまらないって態度で接してくるから、なんか、可哀想だから振るのはもう少し先にしようかなって。それを何回も繰り返した」
「それも、気づいてましたよ」
「……結くんが言ったように、私流されやすいの、すごく。ああこの子私の事こんなに好きなんだって思ったら、いつの間にか私も気になってきちゃって、大事にされてるんだって思ったら大事になってきちゃって、こんなにもずっと好きで居続けてくれるんだって思ったら、好きになってた」
流されて流されて好きになったけど、今はちゃんと私の意思で結くんの横に立っているからね。そう伝えたら、それもちゃんと気付いてますよと言って結くんが短く笑った。
海の底にもしっかりと届く、雲の切れ間から屈折する事なく真っ直ぐに降り注ぐ光。視界がパッと明るくなって、暗くて冷たい行き場のない場所だと思っていたそこも見渡してみればさまざまな魚の泳ぐ綺麗な場所だった。近くにあるのに気がつかなかった大切なことを、彼はいつも教えてくれる。
「俺がこれからもずっと好きって伝え続けたら、伊吹さんも俺のことずっと好きでいてくれるってことですよね」
「わかんない。もう流されないから」
「嘘や、絶対嘘」
揶揄うように笑う結くんに視線を合わせる。薄く微笑んだ彼が私の顔に影を作った。
こうやってたまに作る静かな笑みが好きだ。慈愛に満ち溢れた表情が好きだ。いつもの明るくて周りを照らすような笑顔も好きだ。責任感があって熱いのに、初心で肝心なところで決めきれなかったりするところが好きだ。
「……なぁ」
唇が触れ合う寸前で動きを止めた彼が小さな声で聞いてくる。
「この後どこいく?」
「えっ、今?……えー、このあたり何があったっけ、ちょっと待って検索してみる――っ」
「なんでこの状況で俺の言ったことに素直に流されとんの」
素早く一瞬のキスを落として、スマホを取り出そうと片手を彼の背中から離した私を咎めるように結くんが眉を顰めた。そして「普通そんなん後で良えって言うところやろ」と吹き出すように笑った彼から、言葉以上の感情がぐいぐい押し寄せてくる。
どうやっても避けられない日光みたいに私を目掛けて飛んでくる。ぽかぽかを通り越して、肌の表面が火傷しそうなくらいだ。
至近距離で視線を絡め、唇を合わせて繋ぎ止めた。もう怖くない。波に身を任せることに恐怖はない。そこが陸だって海だって、真上にいる彼はどこからでも見えるんだからどっちに行ったっていい。
「やっぱ伊吹さん、これから先も俺のこと好きやで」
「……そうだね」
結くんの愉快そうな声と一緒にザザンと一際大きな波の音が聞こえた。これは私をどこかに連れて行ってしまう危険なものなんかじゃない。私を結くんのところに押し流して連れて行ってくれる心地の良いものだ。
潮の香りのする風が優しく頬を撫でた。彼の大きな腕とあたたかい日光に包まれて、トクトクと波のように一定のリズムを刻む鼓動が教えてくれる。言葉にしてくれている何倍もの感情が彼の中に秘められていると。
躊躇うことなくしっかりと身を委ねた。私を支える腕に力がこもる。大海原で船に揺られるような気持ちの良さを感じながら、ゆっくりゆっくり目を閉じた。
私はこれからも、彼と共に航海を続けていく。開いた地図はまだ真っ白だけれど、これから二人で幸せを描き足していけば良い。
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