飛鳥さんはよく「本当に今大事なものがなにか君が気づいたら、すぐに言ってくれていいからね」と、俺に言った。



02



何も身に纏っていない今の状態では、クーラーをガンガンにかけた室内は涼しいを通り越して少し寒い。ベタベタと汗ばんでいる気怠い体を落ち着かせるように、二人してゴロンとベッドに寝転がる。


「スポーツマンの腕だね」


スルスルと俺の腕を滑っていく白くて細い指は、指先に到達するとそのまま風のようにするりと離れていく。


「春高か、私の高校もなんか盛り上がってたな」

「強かったんですか?」

「別にそんなことないけど、でも応援には行ったよ」


ふわりふわりと笑いながら、俺の腕をすり抜けるようにして体を起こす。落ち着いた声色で、先程までの余韻なんて感じさせない。スッと通り過ぎていくようにサラリとした飛鳥さんの瞳がこちらを向いた。


「一静くんは、本当に、好きなんだね」

「なにをですか」

「部活」

「…………まぁ」

「良いことだよ」

「そうですかね」

「うん、ずっと大切にしなね」


流れるようにベッドから降りて、飲み物を取りに冷蔵庫へと向かう彼女を、目線だけで追ってそのまま動かずにいると「そろそろ帰る時間でしょー」と間延びした穏やかな声が俺を呼んだ。

いつも通りに支度を済ませて玄関へと向かう。後をついてきた彼女が、珍しく背伸びをして俺の頭を撫でた。少しだけ切なそうに微笑みながら、静かにこちらを見るその瞳は何を考え、どんな気持ちを抱えているんだろう。

それをすぐに口に出して本人に聞けばいいのに。いつも俺は今みたいにずっとそうすることを怠ってきた。飛鳥さんは大人だから、あまり突っ込んで聞いてはいけないなんて相手のせいにしながら。本当は俺が子供に見られるのがただ怖くて、自分のこともうまくわかっていないことが伝わるのが怖くて、呆れられるのが怖かった。そこまでわかっているのに。


「一静くん」


そっと踵を上げて、撫でていた手を首に回して俺の頭を引き寄せた飛鳥さんはそのままふわりと軽いキスをした。すぐにゆっくりと離れて、鼻の先が触れるくらいの至近距離で目が合う。どこか憂いを帯びたような目は、やっぱり何を考えているのか、その心の内を読ませてはくれない。

その瞳を見たくなくてもう一度口をつけた。逃げている。そう指摘されてしまったら何も言い返せない。先ほどまでの熱も外の暑さも感じさせない、部屋の空気と同じようにひんやりとした唇が切なかった。


「私ね、就職決まったの」

「本当ですか。おめでとうございます」

「うん。関東の会社」


凛とした涼しさを感じさせるような飛鳥さんの独特な声が鼓膜を揺さぶる。相変わらず穏やかに笑みを浮かべる彼女は、まるでこの結末を以前からずっとわかっていたかのように自然と口に出した。


「だからね、別れよっか」


はい。自然と口から出た。口にしてからじんわりと言葉にできない冷たい感情が心の中に溢れてくる。それでもやっぱり嫌ですとも、別のやり方がありますとも言えなかった。優しく目を細めた飛鳥さんが口角を上げた。これが今までに見た中で一番綺麗な表情だと思うだなんて少し泣けてくる。飛鳥さんの瞳に映った俺の顔は情けない表情をしていた。

もちろん嫌いではなかった。無関心でもなかった。ちゃんと好きだった。だけれど、思ってしまった。遠距離になってまでも続けられるほど熱くなれているのかと。高校は卒業するとはいえ学生と社会人。時間だけじゃなく金銭的な問題もある。それを考えている時点でもう俺たちの行き着く結末なんて目に見えていた。

どうしてだか悲しくはなかった。それでも少しだけ寂しかった。なんとでもないと言うように、風に攫われるように指の間をすり抜けて、ふわりと離れていこうとする飛鳥さんも、そんな彼女を捕まえておくことさえできない俺にも。

引き止めることもせず、引き止められることもなく、俺たちは離れた。静かで、落ち着いていて、後ろ髪を引くことも、引かれることもない最後だった。

最後にもう一度ポンと俺の頭を飛鳥さんが優しく撫でた。その手のひらだけはとても温かかった。その温もりが少しだけ名残惜しく感じて、また心が涼しくなった。


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