Hell is other people.

学生時代、好きな子がいた。でも残念ながらもう名前は覚えてない。顔はよく覚えてる。はにかんだ姿が可愛らしくて、柔らかな髪の毛を左右に揺らしながら彼氏の話をとても幸せそうに話す子だった。


「角名くん、聞いて」

「また彼氏の話?」

「うん。もう惚気はいいからって言ってみんな聞いてくれないの」


あのね、と、人の多い教室で俺たちの話を盗み聞きする奴なんていやしないのに少し声を小さくして口元を手で隠す。ほんのり色付いた頬。彼氏のことを思い出しているのか僅かに伏せられた長いまつ毛が揺れて、たまに俺の反応を確認するべく目を合わせる時に上目遣いになるその仕草が愛らしかった。


「角名くんは私の話飽きずに聞いてくれて嬉しい」

「楽しいからね。それに、一途に好きな人の話する女の子、可愛いと思うし」

「そんなこと言ってくれるの角名くんだけだよ」


好きだった。何よりも大切だと話す彼氏がいるその子が。俺はその子のその恋心に惹かれていた。誰かを一途に想う純粋な気持ち。それを信じさせてくれる。俺の前で幸せそうに心に決めた俺とは違う男の話をする、そんな彼女のことが好きだった。


「……角名くん。あのね、私の話を聞いて欲しいの」

「いいよ。また彼氏の話?」

「うん」


いつもニコニコしながら幸せそうにしているのに、なんだか表情が険しかった。そういえば彼女がこうやって声をかけてくるのは久しぶりのことだなと思いながら、俺の前の席の椅子を後ろに向け座る彼女の伏せられた顔をじっと見つめる。

誰もいない教室。暗い雨の日だった。


「彼氏とね、別れた」


小さな小さな声だったのに、まるで鐘の音を耳元で鳴らされたかのように大きく鼓膜を揺らした。伏せる彼女の顔を覗き込むようにして大丈夫かと声をかける。あんなに好きだったのに、振られたのならとても辛いんだろう。一途に思ってもやはり相手が応えてくれなきゃ意味がないし、本当に恋って残酷だよなと小さくため息を吐きながら「好きって難しいね」と声をかける。

あんなにも純粋で綺麗な恋心を汚すなんて、その相手はどうかしてると思いながら顔を上げた彼女の表情を確認する。すると、彼女は相変わらず気まずそうにしてはいるものの傷ついている様子はなく、何かの決意を固めたような様子で角名くんと俺の名前を一度呼んだ。


「それでね、もう一つ話があるんだけど」

「……何?」


一度短く息を吸い込んで吐く。目を閉じて、彼女は静かに口を開いた。窓を叩いていた雨の音がノイズが掛かるように消え去っていく。その不快な感覚の中、鼓膜は彼女の放つ音しか捉えることはしなかった。色の乗ったぷっくりとした唇がゆっくり動く。可愛らしいその口で、彼女は信じられないような言葉を放った。


「角名くんのことが好きになっちゃったの」


顔を赤らめて上目遣いでこちらを見る。何を期待しているのか、彼女はもう一度甘い声で俺の名前を呼んだ。


「……どういうこと」

「もちろん彼氏のことは好きだったんだけど、でも、角名くんに色々話を聞いてもらったりしてるうちに、私に本当に必要なのは角名くんなんじゃないかって思い始めたの」


もじもじと恥ずかしそうに言葉を紡ぐ彼女のことをもう可愛いとは思えなかった。目の前のこの女は一体何を言ってるんだろう。理解したくないけど理解しなきゃならない。ガツンと殴られたような衝撃を受けてズキズキと頭が痛んできた。

あんなにも綺麗だと思っていた彼女の心は、全く綺麗なものなんかじゃなかった。信じられると思っていたそれは俺を容易く裏切った。一番最悪な形で。

最初から彼女の心が汚かったのか、それとも初めは綺麗だったけれどいつの間にか汚れてしまったのかはわからない。けれど一つだけ確かなことは、彼女のその心は今とても汚く、そしてそうしてしまったのは他の誰でもない俺自身であるということだ。

あんなに俺に楽しそうに、そして幸せそうに自身の恋の話をしながらも内心では俺に惹かれていたと言う。偽りの感情を聞かされていたらしいその時間も俺は彼女のその気持ちを信じていたのに。怒りに燃える体が一瞬カッと熱くなって、そして急速冷凍されるみたいにすぐに冷えていった。

いくら好きだと口で言っていたって人の心は簡単に移り変わる。彼女も、ついさっきまで彼女のことを好きだと思っていたのにもうそうとは思えない俺も。

目に見えないものを信じるなんてやっぱり愚かだ。恋や愛という言葉に絶望すら感じた。全身が凍りつくように冷たくなって動かなくなる。いつかその感情も無くなるのに「ずっと」とか「永遠に」とか「いつまでも」とか都合のいい言葉で塗り固め囁かれる嘘の言葉を、騙されていることに気が付かずに信頼して、そして裏切られる。そんなものに自分自身の全てを委ねるなんてことはやっぱり出来そうにないと俺はその時改めて思った。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


ナマエは数いる同期の中でも古森以外で唯一気の合う人物だった。異性だけど些細な事の考え方が似ているというか、テンションの浮き沈みだとか会話のテンポとか、とにかく相性が良かった。

友人として良い関係を築いていた俺たちにある変化が訪れたのは入社してから一年が過ぎた頃。この一年でお互いのことを知り尽くした俺たちは気軽になんでも話せる仲で、その日も飯に行こうと二人で待ち合わせをしていた。

向かった店は俺の家の近所の小さな料理屋だった。この間見つけたこの店の話をしたらナマエが興味を持って、じゃあ今日はそこに行こうという事になったのだが御飯時にもかかわらずシャッターは閉まっており店前には臨時休業の張り紙が貼られていた。落胆した俺たちは他の店を探すこともせずもう俺の家でゆっくりしようということになって、買い込んだ安い食品で適当に食事を作っていつも通りくだらない話をしつつグダグダとした夜を過ごした。

ナマエとは今までに片手で数えるくらいにはいた女友達とも少し違う、本当に不思議な関係を築いていた。こんな風に自分の家に他人を上げる事なんて滅多にしない俺が、なんの躊躇いもなく「じゃあ俺の家来る?」と自ら持ちかけた。古森も含め三人で集まることもあるけど二人で集まるのももう数回目どころの話ではない。今更二人だからといって何を思う訳でもないのに、その日だけは妙に気持ちが浮き足立ってどこか落ち着かなかった。

きっかけはナマエの一言だった。角名って欲無さそう。彼女が笑いながらそう言った途端に、なぜか糸が切れたようにそれまでの理由のない緊張感が弾け飛んでいった気がした。

そういう行為をする時、俺はもう出会ったその時からそれを想定して近づいていく。最低だと言われるかもしれないけど。でも何事もなかったかのように近づいていただきますだなんてことをするよりは、俺はあんたとはそういう関係になりたいのだとしっかり悟らせておく方が親切だと思わないか。もちろん、そういう関係になるのはそれに自ら乗ってきた子とだけだ。

ナマエにはそんな気持ちで近づいたんじゃないのに。その時の俺はナマエのたったそれだけの言葉で思考も理性も全て吹き飛んだようになって、気が付いたら「あるよ」と言いながらソファに腰掛け隣で寛いでいた彼女の肩を掴んでいた。

一瞬戸惑ったように揺れたナマエの瞳がゆっくりと俺の視線に重なる。見つめ合うこと数秒。彼女が小さな声で俺の名前を呼んだのを確認して、少し冗談混じりに聞こえるように、でも個人的にはかなり真剣に「試してみる?」なんて持ちかけたのが全ての始まりだった。

短く頷いたナマエはそこからは何も言葉を発さずに俺のことを受け入れた。俺もナマエもひたすらお互いを求め続けて、そして全てが終わった後には特にダラダラすることもなくすぐに布団に潜った。というよりも単純にナマエが終わったらすぐに寝こけてしまうタイプだったという方が正しいのかもしれないけど。

とにかく驚くほどあっさりとしていた。何から何まで。友達としてもそのサバサバとした関係性が気に入っていたけど、そういう行為を重ねても俺たちは変わることがなかった。

ただの友達から所謂セックスフレンドと呼ばれるものへと関係が変わったことは確かだが、彼女に対しての態度も、彼女の俺に対しての態度も変わることはなかった。愛だの恋だのそんな感情は無しに一緒に居れて、そして大切にできる。

彼女は俺にとって現時点での唯一だったのだ。
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