静かだ。とても静か。窓の外からの音は閉ざされ、隣の住民もいるのかいないのかわからないくらいに静まり返った朝。わずかな光がカーテンの隙間から差し込み仄明るく空間を照らしている。真っ暗では無いのがまた妙に怪しげな雰囲気を漂わせていた。
隣を確認すれば大きな背中が目に入る。私よりもうんと広いそこにそっと指を添えた。華奢なように見えて全然そんなではない彼の鍛えられた筋肉は、冷たいようでいてほんの少しだけ温かかった。
「起きてる?」
声をかけても返事はない。ゆっくりと手のひら全体を這わせてみれば、かすかに動いた彼の体は次第にゆっくりと動作を大きくし、のろのろと体勢を変えこちらを向いた。
「おはよう」
「……うん」
おはように対して「うん」という返事は如何なものか。まだまだ完全には夢の中から出ては来れないらしい彼のシュッとした輪郭に手のひらを添える。切長の瞳がゆったりと瞬きを繰り返して、朦朧としているだろう意識の中で辛うじて私のことを捉えた。
「ナマエ」
フラフラと伸ばされた手のひらがようやく私を探し当て、存在を確認するように体のラインをなぞりながら背中へと回る。
「今何時」
「八時」
自分から聞いてきたくせに答えても反応はせず、黙ったまま深い呼吸を続けている。起きるのかこのまままた眠りにつくのか、なにもわからないままに私は彼に包まれて、流されるように同じように背中へと腕を回し、意外にも肉付きの良い硬い感触を確かめるのだった。
「…………好き」
思わず口をついて出たその言葉のほとんどは吐息となって儚く消えていったが、僅かに残ったそれらが耳で捉えられる音となった。曖昧でも彼の耳にはしっかりと届いたらしく、そのたったの二文字が微睡みの中にいたはずの彼の意識を瞬く間に浮上させる。
眠たげな瞬きを繰り返していた瞳は途端に鋭利さを取り戻した。その圧に負けずにふふっと笑いながらもう一度「好き」と、今度はしっかりと部屋の中にも響く形で言葉にする。グッと口を結んだ彼は、私をその目に映しながら固唾を呑み、私の言葉の続きを待った。
「ごめんいきなり。びっくりした?」
「……うん」
「はは、そうだよね」
腕を伸ばして傍に置いていたスマホを手にする。画面に表示された日付を見て彼が力の抜けたようなため息を吐いた。
「急に言われると心臓に悪い」
「エイプリルフール」
嘘なの?そう言って眉を顰めて笑った彼のその質問には答えないまま、「お腹すいた」と言ってゆっくりと起き上がった。散らばった服をかき集めながら、そういえばこれ食べに行きたいと思ってたんだと手に持ったままのスマホ画面を表示させ、再び彼の元へと戻る。その前に服着なよと笑った彼は、現在の時間を確認した後大きく伸びをして「良いじゃん。行こうか」とすぐに準備を開始した。
「最近クロワッサンにハマってるんだよねー」
「この前はベーグルとか言ってたじゃん」
「うん。この前まではそうだった」
「好きなものコロコロ変わるよね」
「いろんなものに手出した方が楽しいし」
「そういうもの?」
「そーだよ」
ここも美味しそうかも。なんて最寄駅のモーニングを探しながら彼にその写真を見せたら、どこでも良いから早く服着なと呆れたように笑われてしまた。
カーテンを開いた窓の外には満期の桜が風に揺られている。お花見しながら外で食べるのも良いなぁ。そう独り言のように呟けば、彼は「ナマエの好きにしたらいいよ」と言って、もう一度柔らかく笑った。