One of these days is none of these days.

なんとなく、その日はやけにナマエが素直に甘えてくるなと思っていた。

とは言っても彼女は日頃からあっさりとしているため他の人から見ればそれくらいが普通だと言われてしまう程度かもしれない。それでも俺にとってはそれがとても珍しく、らしくもなくいつも以上に気分が高揚した。

ナマエは俺のことを受け入れてくれているようでどこか壁がある。それを崩すためにいろんな手を使って出来る限り自分なりに優しくしてみてるつもりなのに、その壁は消えるどころかどんどん厚さを増すのみで、近頃はそれに少し不満さえ抱き始めていた。

熱く火照った体を二人並べてベッドへと沈めて、気だるい体を動かし彼女の肩までシーツをあげる。普段ならばこの時点でもうウトウトとし始めているはずの彼女が、今日は眠そうな素振りすら見せずにそっと体を自ら寄せて抱きついてきた。本当に珍しい。何かあったのだろうかと少し心配になってしまうほど。「寒いの?」といつもと同じ言葉を投げかける。首を振ってそれを否定した彼女は、やはりいつもとは雰囲気が違うように思えてなんだか違和感がすごかった。

体を彼女の方へと向けて、すり寄ってくる小さな体を壊さないようにと包み込む。触れる温度の高い肌は少しだけ湿っていて、まだ抜けきらない余韻がどことなく空気に色をつけた。

彼女の頭の頂点へと唇を寄せる。ピッタリとくっつき俺の胸元へと顔を埋めていたナマエが僅かに反応を示して少しだけ空間が空いた。その隙を逃さないように素早く顔を上げさせて、血色の良い柔らかな唇に自分のものを押しつける。いつも首元へと回してくれるはずの腕は俺の背中から動く気配がなかった。無理矢理抱き上げるようにキスがし易いようにナマエを移動させる。先ほどの色濃い余韻が再び舞い戻ってくるのを感じて、わざとらしくリップ音を響かせ何度もそれを繰り返した。


「角名」


あんなにぶつけ合ったはずなのに再び湧き出てきた昂りを隠そうともせずに唇に乗せ続ける。少し呼吸の乱れたナマエが、角度を変えるために僅かに離れた隙を狙って俺との間に掌で壁を作った。薄くて、柔らかくて、俺よりも白く綺麗な壁。邪魔なそれは崩れることなく、息の上がった彼女自ら築き上げられる。


「……角名、」


ゆっくりとその手を下ろしながら、もう一度小さな声で彼女が俺の名前を呼んだ。どこか掠れたその声が部屋中を満たす。たった一言呼ばれるだけなのに、それに僅かな安心感を感じてしまう俺はどうかしている。


「なに?」

「あの、さ」


口籠る彼女は何かを言い淀んでいるようで、その続きの言葉はなかなか紡がれる様子はない。辛抱強く待ってみるが、彼女は俺を見上げながら固く口を結んでしまってしばらくそれが解かれることはなかった。結局そのまま一向に口を開かない彼女に俺の方が折れて、どうしたのとこっちから声をかける。ナマエの瞳が不安定に揺れる所は今まで一度だって見たことがなくて、落ち着かせるようにと片手で頬を撫でた。

もう一度小さく「あのね」と呟いて、彼女は俺の目をしっかりと見た後にゆっくりと口を動かし始めた。出てきた言葉は予想していたものではなかった。何かに悩んでいるのなら、何かしらの力になってあげられたらいいなと珍しくそんなことを考えていたのに。東京に転勤することになるかもしれない。その言葉をこの耳が捉えた時、なるべく彼女に寄り添えるようにと柔らかく暖まっていたはずの心臓は、シーソーが軋むような歪な音を立ててギギッと硬く冷たくなった。


「そうなんだ」

「……それだけ?」

「いつ行くの?かもしれないってことは、行かない可能性もあるってこと?」


彼女が言うにはまだ本格的な決定ではないらしく、断ればこの話は無しになって、志願すれば確実に、このまま何も言わなければきっと行くことになるらしい。それを黙って聞いていれば、彼女は気まずそうに言葉を止めて俺の方をもう一度見た。


「どうするかまだ迷ってるけど、このままじゃ行くことになるのかな」

「ナマエの今後のこと考えたら、行ったほうがいいんじゃないとは思うけど」

「……でも、あっちに行っちゃったら、角名とはもう会えなくなるね」


彼女の言葉にどう答えるべきか。そうだねと返すべきなのか寂しくなるねと言うべきなのか。考えているうちにわからなくなって誤魔化すように彼女の頭を抱え込んだ。彼女の張っていた肩から力が抜ける。それとは反対に俺の力は強くなった。


「ねぇ、角名」


顔を上げたナマエの瞳が揺れる。その中に映る自分の表情がやけに冷たく見えた。映すな、こんな姿。何、と短く返事をする。もう一度「ねぇ」とどこか震える声で呟いた彼女が、続きの言葉を紡ごうと唇を動かした時、その音を封じ込めるようにして自分のそれで蓋をした。

彼女が俺の胸を押して抵抗を試みるも無理矢理押さえつけそのまま唇を押し当てる。音にならない空気を吐いた。肩で息をする彼女を落ち着けるように、飴細工のように繊細な細い体を引き寄せて、耳元でそっと囁いた。


「おやすみ」


しばらくして、抱え込んだままの彼女が目を閉じたのがわかる。掛け直したシーツの擦れる音がやけに大きくこだまする。おやすみなんて言ったくせに全然眠れそうになくて、そのまま目を閉じることもなく彼女を抱え込みながらひたすら真っ白なシーツへと視線を落とした。

煮えたぎるように心の中がむしゃくしゃした。頭の中がかき回されるようにコントロール不能になる。知らぬ間に表情が歪んで、顎が痛くなるくらいに歯を食いしばっていた。

音のない部屋。満たされていたはずの水槽から少しずつ水が漏れ出ていくような、虚しさと寂しさに支配される。彼女は行ってしまうのだ。そう遠くない、遠い遠い場所に。

ナマエは、そんな簡単に俺から離れて行くのか。自分勝手すぎることは百も承知だけれど、そのことにとてつもなく腹が立って仕方がなかった。
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