ほらあなたにとって大事な人ほど



澤はもう歌わねーの?そう聞いて来た瀬見は、さみーと言いながら私を引き寄せベッドの上から引き摺り下ろした毛布を纏う。瀬見と毛布に包まれた私は、彼に背中を預けながら目の前の少し飽きてきた映画から視線を外すことなく「多分もう歌わないかな」とゆっくり答えた。お腹の前に回されている腕を抱え込む。背中を丸めて私の首筋に顔を寄せた彼にくすぐったいと笑いなら、予想していた通りに物語が進んでいく映画の画面から視線を外した。


「なんか、もったいねーな」

「そう?」

「お前歌うの好きじゃん」

「好きだけどバンドとかはもういいかな。音楽は好きだけど、聴くだけ」

「なんだよ、せっかくギターとかやってみようかなーとか思ったのに」

「え?瀬見が?」

「なんでちょっと笑ってんだお前」


こら、と言いながら頭をごつんとぶつけてくる瀬見に笑いながらごめんと返す。前のめりに体重をかけられて少し前に買い替えたばかりのフカフカのラグの上に二人して転がった。退屈でありきたりなラストに向けて進む映画はただのBGMに成り果てて、私たちの時間をチープに彩ってくれた。



全てが終わった会場内はやはり身内の人が多いのか出ていく人は少なく、そしてバンドのメンバーたちもステージを降りその輪の中で交流をしている。一人それを眺めながらどうしていいかわからず、とりあえずドリンクを引き換えようと扉を出たところで肩を叩かれた。振り返ったそこには瀬見がいて、ちょっといいかなんて声がかけられる。

会場の奥の関係者しか立ち入れない場所へと進んでいく瀬見の後ろを少しの気まずさを感じながらついていく。足を止めた彼が振り返ってしっかりと目が合った。


「……来てくれてありがとな」

「でも全然間に合わなくて、ごめん」

「いいよそんなの」


来てくれただけで十分だし。そうゆっくりと話し出した瀬見が真剣な瞳でこちらを見る。息が詰まるような感覚がした。


「今バンドしてんだ。それも今日解散しちまったけどさ。コピーばっかで、このバンドではオリジナルの曲は作らないけど結構楽しくやってたよ。澤が学生の時好きだった社会人バンドみたいに、プロ目指すわけでもない趣味の延長みたいなもんだったけど」

「うん」

「ギター、ちゃんと弾けるようになったんだぜ」

「うん。見てたよ。すごいじゃん、何も弾けなかったのに」


あの頃と比べんなよなんて瀬見が笑う。懐かしい表情だった。あの頃より大人びた瀬見が私の目の前にいて笑っている。それが何だか不思議で、知っているようで知らない人なのが少しだけ寂しかった。


「澤はさ、俺のことは綺麗な過去にしたいって言ってたじゃん」

「うん」

「何で?」


じっとこちらを見る彼の表情は見たこともないくらい真剣だった。少しの沈黙が流れる。合わせていた目線を外して俯き、地面を見つめながら手のひらを握りしめる。

私は瀬見のことが好きだった。でも、手放してしまった。そしてその後に瀬見は私にとって唯一無二だったことに気がついた。気づいたときにはもう遅くて、一度手放してしまっただけに自分から再びその手を取りに行くことはできなかった。何度新しい恋をしようとしたって、誰と一緒にいたって瀬見とのあの時間たちを超えることなんてなかった。瀬見は私にとってのかけがえのない存在で、そして同時に取り戻すことができない眩しい光だった。

私のうまくまとまりきらない言葉を最後まできちんと聞いてくれた瀬見が、こっち向けよと小さく呟く。静かに顔を上げた。先ほどの表情のままの彼が私のことをしっかりと見ていた。


「……俺は、後悔した」


あの時私たちはお互いに特に話し合うこともせず流れで別れを選んだ。明確な理由もなく、ただお互いにそう思ってるんだろうという決めつけで。その結果がこれだ。瀬見はそのことを口にして、そして私の左手を取った。


「俺も、お前のこと忘れられなかった。他の誰といたって澤と比べてダメになって。でも会いにいく勇気なくてさ。ギター弾きながら、あの頃のこといつも思い出してたよ」


俺のこと、今ここでちゃんと過去にしたいってこと?と、そう私に聞いたあの結婚式の日の彼の言葉が頭に浮かんでくる。過去にしたかった。それは今更気持ちを燃え上がらせることであの眩い思い出たちをただの気まずい昔話にしたくなかったから。十代の思い出として箱の中に大事にしまって、そして傷を付けずに取っておく。そのために瀬見との接触は避けたかったのだ。

瀬見は私の言葉にその気持ちもわかるよと頷いた後、でも俺はやっぱり目の前にいるお前のこと見たらそんなことどうでもよくなったと私の手を取った。

電話の向こうの彼女が必死に私に伝えてくれて良かった。あのままあそこにいたら、瀬見のこの気持ちを知ることもなく私は一人勝手に塞ぎ込んで思い出達を小さな箱の中に無理やり押し詰めていたかもしれない。

普通の私がきらきらと輝いた世界を見るには彼が必要なのだ。彼自身が光り輝いているのではなくて、私が影なのではなくて、彼といることで私の世界が煌めいて見える。臆病な心も彼といることでどこかに隠されてしまった。さっきまでうじうじと悩み立ち止まっていたはずなのに、今の私は何でも出来たあの頃みたいに体が軽くて、何枚もの布を被せていたはずの心も剥き出しのまま彼へと手渡せる。


「瀬見」


私は今でも瀬見のことが忘れられない。そう口にすると同時に引き寄せられ、懐かしい匂いで肺の中が満たされる。彼のこの温かさが好きだった。何も変わっていないそれは、私の記憶に傷をつけるとこなくふわりと包み込んでくれる。


「もう終わらせなければ俺たちのその思い出もずっと綺麗なままだ」


絞り出されたその言葉に熱いものが込み上げてくる。背中に回された腕は締め付けるような力強さがあるのに決して痛くはない。彼の胸元へと沈めた顔を上げて視線を合わせた。

何だか十代の頃に戻ってしまったみたいな感じがして気恥ずかしくて、それを誤魔化すように二人で笑った。




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