瞬間センチメンタル



「わり、遅れた」


慌てた様子で駆けてきた瀬見が息を切らしながら片手を上げた。受験生の私たちは部活がなくなったからといって全ての時間がフリーになるなんてことは無く、私なんかは引退してからの方が忙しい毎日だった。


「なんか制服以外の格好で会うの久しぶりだな」

「ホントにね。久しぶりに瀬見の私服みたらなんか感動しちゃった」

「それはどういう意味の感動?」

「そういう意味だよ」


二人並んで歩き出す。新しい年が始まってから十時間。「そういえば言い忘れてた、今年もよろしく」と、彼に言われて私も返した。年越しの瞬間はお互い家で過ごしたけれどずっと通話していたからすっかり挨拶していた気になっていて、その変な感覚に思わず笑いが出る。

初詣に行く人でごった返した道を人の流れに沿ってゆっくりと歩く。時々他の人にぶつかられてよろける私を見て鈍臭いなと笑った瀬見が、肩に手を回し私を引き寄せ「もっとこっち来てて」と指先を絡めた。長い階段を登って、長蛇の列に並んで順番を待つ。賽銭を投げしっかりと手を合わせ目を瞑った。願い事は、特になかった。今のこの状態に満足していたから。これ以上の何かを望むことはしなかったのだ。

日が暮れてさらに気温が下がっても、二人で新年を祝い続ける街をふらふらと歩いた。充電し忘れたと言っていた彼のプレーヤーは早々に使い物にならなくなって、今は私ので彼のものに入っていたのと同じ曲を聴いている。結んだ指先と、お互いの耳に装着したイヤホンを離さないようにくっつきながらゆっくりと歩いた。右耳からはお正月ソングと道行く人の笑い声。左耳のイヤホンからはあの曲が、私と瀬見を繋いでいる。


「澤」

「ん?」


名前を呼ばれ彼の方を向けば、それと同時にキスが降ってくる。一瞬の出来事で本当に唇がくっついたのかどうかわからないくらいに短いものだった。温もりが仄かに残ることで確かに重なり合ったのだとわかる。

人が少なくなった街の隅っこで、それでも誰もいないわけじゃないのに、その時の私たちには私たち以外の人間なんか存在していないのではないかなんて思えるくらいにお互いの姿しか認識できなかった。

若さゆえの大胆な行動。何も怖くなんてなかった。未だこちらを見下ろし続ける彼の冷たい頬を両手で包み、そっと引き寄せ唇を合わせる。冷え切った体温が本来の温度を取り戻していった。ふつふつと湧いてくる熱を何度も何度も共有する。顔を動かすたびに繋がったままのイヤホンが僅かに揺れた。

私たちの横を何人もの人が通り過ぎる。誰かに見られていたとしてもこちらからは見えていないから何も気にならなかった。ただここにいる彼の体温を寒空の下感じることができれば、ただそれだけで良かったのだ。

若かった頃の感覚は時が経つたびに失われていく。いや、失ったわけではないのか。今でも持ち続けているのだけど、時間をかけていろんな経験と考えを重ねていくにつれその感覚を隠してしまうような慎重さが出てきてしまうのだ。大人になることは臆病になることと誰かが言っていた。あの頃は自分たち以外の何もかもが気にならなかった。でも今は、感情だけではどうにもならない常識や責任や知識や経験もあるしリスクや失敗の想像もつく。そんな風にいちいち理由をつけてしまってなかなか一歩を踏み出せない。

時計の針が進む。刻一刻と。喫茶店の大きな鳩時計が軽快な音を鳴らして時刻を告げた。午後六時。瀬見に告げられた時間だ。



ボーッとその場で何も考えずにただ過ごしていたら、テーブルの上に置いていたスマホが大きな音を立てた。滅多に鳴らないので油断していてマナーモードにするのを忘れてしまっていたそれを慌てて手に取って、周囲に人がいないことを確認して小声で電話をとる。「すみません、ただ今出先でして」。そう言った途端に電話先の人物が大きな声で「何で電話取ってるんですかー!」と信じられないというような叫び声を上げた。


「え、なに、愛ちゃん!?」

「何じゃないですよ!何してるんですか先輩!」

「ちょっと、ごめん私今喫茶店にいて、待って今出るから」

「喫茶店!?あの人といるなら電話には出ないだろうと思って試しにかけてみたら……出るって何ですか!今一人ですか!?」

「ちょっと、声大きい。漏れるから」


コートとバッグと伝票を掴んで急いでレジへと向かう。すぐに会計を終えて扉を出ると同時に再度耳にスマホを当てると、彼女はさらに大きな声で「あの人とは会ったんですか!?」と焦ったように聞いてきた。


「会ってないよ」

「何で!今どこですか!?」

「今は……言われた場所から徒歩十五分くらい離れてる喫茶店」

「連絡は!?」

「……してないよ」


沈黙が訪れる。コートを羽織っていないとこの時間帯の仙台は一瞬で体の芯から体温を根こそぎ奪い去っていく。それから何も言わなくなった彼女に断って通話を切ろうとした時、電話の向こうの彼女が静かに息を吸い込んだのがわかった。


「先輩は、あの人のことが好きなんですか」

「…………」

「好きだったら今からでも行った方が良いと思います。絶対。でも、もしも先輩にそういう気がないのなら、こんだけ言っておいて何ですけど帰った方がいいと思います」


ボソボソと、先程の勢いはどこに行ってしまったのかと心配になるくらいに声を小さくした彼女はそのまま言葉を続ける。


「先輩はもし自分がその人に対して何も思ってなかったらわざわざああやって声をかけたりしますか?こうして口でだけで場所と時間を伝えて。きっとあの人は先輩に賭けてるんだと思います。先輩が来てくれるのを信じて待ってる。来なかったら、もうきっと相手も先輩のことなんとも思わなくなると思います。チャンスは一回だけですよ」


もしかしたら純粋に相手は先輩と一緒に話したいだけなのかもしれないですけど!でももしあの人が先輩に対して他の感情を抱いていたとしたら、これが本当に最後ですよ!私にはわかります!そう叫んだ彼女はもう一度私の名前を呼んで問いかけた。

行くか、行かないか。

瀬見のことが今でも忘れられない。このまま彼にまた会えば、彼の気持ちがどうであれ私はもう戻れないほどにきっと彼のことを好きになる。それが怖くてなかなか前に進めない。

自分の中にある感情に、時間をかけて何枚もの布を被せたくさんの理由を背負わせた。好きだと一言伝えることがこんなにも怖くなるほど、会いにいくだけがこんなにも困難に感じられるほど。一枚一枚その布を捲っていった時、姿を現す感情は恐怖でも何でもなく、ただ純粋に、もう一度瀬見に会って話したいという素直な気持ちと、あの時と変わらず光り続ける小さな恋心だった。


「先輩!」


力強い彼女の声に背中を押されて一歩踏み出した。私が歩き出したことに気づいた彼女がほっとしたような声を出して、「頑張ってください。本当に何にもなかったらまた合コンセッティングしますんで!」と明るく言ってそのまま通話を切った。

もう約束の時間はとうに過ぎている。急いで向かったとしてもここからまだ十分はかかるだろう。指定されたライブハウスに着く頃にはきっと十九時を回ってしまう。無意識に段々と足が速くなって、気がついたら駆け出していた。

もうとっくに瀬見はいないかもしれない。普通ならいないと思う。それでも、とにかく今は向かうしかない。




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