2020年9月4日・2

ざわざわと落ち着かない国際ターミナル。チェックインの手続きを一人待つこの時間が俺は一番嫌いだった。彼女とまたしばらく会えなくなる。その時間が迫っていることを一人噛み締めなくちゃならないからだ。

ここまでの長い月日を、俺たちは日本とアルゼンチンというほとんど真逆に位置する遠い遠い距離にいながら関係を続けてきた。もはやそれが当たり前であるかのようにも思えてしまっている。

早く一緒にいられる日が来ればいい。ずっとそう願っていたはずなのに、ついにその時が来たんだと思うとこれがなかなか緊張した。「俺のところへ来い」と言うことは、それはもうある意味プロポーズと同じだからだ。もちろんそれはまた別の話であって、今回の言葉にそのような意味合いは含まれていないけど。

ここまでして関係を続けてきたんだ。今更決意が揺らいでいるわけでも、何か不満があるわけでも、心とのそういう将来を望んでいないわけでもない。むしろそんな事を俺が考えていたとしたら流石に誰か殴って欲しい。無理矢理にでもアメリカに飛んで、岩ちゃんに頭下げてでもぶん殴ってもらいに自ら行ってやる。

心は俺の言葉を待っているんだろうというのには薄々気がついていたし、実際に話したいような雰囲気を出された夜もあった。しかし、俺はそれにも気がつかないフリをして躱してしまった。そして彼女はそれから全くそういう雰囲気を出さなくなった。自分から動こうとしてくれていたのに、俺がわかりやすく拒否をしたから。

逃げたように思われるかもしれない。彼女を悩ませてしまったと思う。寂しい思いをさせて、もしかしたら傷つけてしまったかもしれない。それでも、俺は、こんな時くらいこっちに格好つけさせて欲しいと、格好悪くも思ってしまったんだ。


「お父さん、お母さん、お話があるんですけど少しお時間頂いてもいいですか」

「なぁにそんなに畏まって」


今回、心の実家に帰ったのはただ久しぶりの顔見せというだけじゃなくて、実は明確な目的があった。心には何も言ってないから、彼女は何も知らないはずだ。俺が勝手に企んだだけ。彼女の両親と顔を合わせて話がしたかった。

心を連れて行く。その許可がしっかり欲しかったから。


「ついに心も海外に行っちゃうのかー」

「私たちも今度遊びに行っていい?」

「…………」

「どうした?」

「徹くん?」

「…………え、いや、あの」

「あぁ、うちの娘は日本からは出さんとか言っておいた方がよかった?」

「でもねぇ、今更な話よね。むしろ早く行けばいいのにって気持ちの方が強いわよ」

「俺たちもとっくに覚悟は決めてたし、君がいるなら何の不安も不満もないよ」


ニコニコと笑う二人に俺はしばらく言葉が出せなくなって、そんな俺を見てまた二人が笑っていた。心を大切にしているのは俺だけじゃない。むしろ、俺なんかよりもずっとずっと心のことを大切に想ってきた二人なんだ。彼女を傷つけたらこの人達まで傷つけることになる。生半可な気持ちでは決してないけれど、半端なことは絶対にできないと改めて強く思わされた。


「ありがとうございます」

「あらやだ。顔あげて。いいのよそんなに深く考えないで」

「アルゼンチンって何が有名?俺パスポート作るところから始めなきゃなんだけど」

「いつでも来てください!どこでも何でも案内します!」

「心強いわ〜」


心は、強い。すぐに倒れそうに見えるのに、どっしりと構えて深くまで根を張っている。それはきっとこの人たちの元にいたからなんだろうと思えた。「何してるの三人で」と不思議そうに顔を出したお風呂上がりの心に、彼女のお母さんは「何でもないわよ」と笑い、お父さんは「パスポートって五年と十年どっちのほうがいいと思う?」といきなり聞いて困惑させていた。その三人の姿を見て、当初から予定していた通りに今日、ここで俺は彼女に話を切り出すことを決めた。


「思った以上に時間かかっちゃった、ごめんね」


空港の隅のベンチに二人で腰掛ける。人が少ないここは俺たちのお気に入りの場所だ。心は心なしかいつもの別れの日よりも静かで、そして一緒に過ごしてきたからわかる程度だけれどほんの少しだけ挙動不審だった。


「心、そんなに寂しそうな顔されると、どうしていいかわからなくなっちゃうな」


彼女は隠しきれないくらいに寂しそうな顔をしていて、そして僅かに不安そうだった。寂しそうな表情は今までに何度も見てきた。その時はきっと俺も同じ表情をしていたんだろう。しばらく会えないのがわかっているんだ。明確な次も俺たちはなかった。けれど心が不安そうな顔を見せたこともなかった。やるべきことと、目標を見据えていたから。そして明確な次がなくったって俺のことを信用してくれていたから。

心のやりたいことを成し遂げるまで、俺が待ってあげていたと思っている人が多いけど、何度も言うけどそうは思ってない。彼女が胸を張って俺と一緒にいられるようにと考えた上で実行してくれている。心のためでもあり、そして俺のためでもあるんだ。彼女のわがままなんかじゃない。どちらかといえば俺のわがままだ。

俺が、じゃなくて、俺に、心が付き合ってくれている。

きっと心は日本に残ると自分から言い出したんだからと、自ら俺に行ってもいいかと聞くことはしないんだろうなということはある程度予想はしていた。思ったことは何でも言うというルールを提案したのは彼女だ。だけどきっとこれに関しては、こうして彼女は自分の中で解決させようとするんだろう。俺にもタイミングがある。お互いに納得できる瞬間が訪れた時に一緒になれればそれでいい。なんて、そんなことを思うんだろう。


「ね、心」

「ん?」

「……こっち来ない?って言ったら、怒る?」


でもね心。俺は、わかってると思うけど結構自分勝手なんだ。今ここで無理矢理にでも連れ去ってやってもいいくらいだと思ってんだよ。チャンスとタイミングが訪れたら、迷わず捕まえてしまわないと、それらはすぐにどこかへ逃げてしまうことも知っている。

アルゼンチンに行くことを告げたあの日、俺は心について来いとは言わなかった。彼女を巻き込んじゃいけないと思ったから。

俺はどうやっても彼女よりもバレーを追いかけてしまう。他の何かをバレーボール以上に優先させることは出来ない。やれるところまでやってやる。余所見はしない。それに関しては心でさえもきっと覆せないし追い越せない。こんなにも自分勝手な人生を歩んできた。そして、これからも、俺はこの生き方を続けていこうとしている。

これだけでもうんと身勝手な人生なのに、もう一つだけ、更なる我儘を言わせて欲しい。

心のために人生を変えることもできない。自分のやりたいことをして、自分の道をひたすら歩く。だけど俺は、自分勝手な俺の人生に心を巻き込んでしまいたい。変えることはできないけど、無理やり引き摺り込んでやることは出来る。


「怒らない、けど」

「けど?」

「混乱してる。嬉しくて」


俺に捕らえられてしまった心がか細い声でそう言った。俺のこの考えを知ったら彼女はどう思うだろう。やばいやつに捕まったと焦るだろうか。今更だと笑い飛ばして、覚悟の上で自ら飛び込んでくるのだろうか。なんとなく後者な気がする。でももしかしたらそれは俺の願望かもしれない。

一緒に歩む。けれど、それは常にじゃない。ボールが俺の目の前にある時は、心のことはきっと忘れてしまうだろう。そんな冷たい男でも良いと言うのなら、この手を取ってついて来て欲しい。俺のことを見ていて欲しい。


「心、この前仕事で目標にしてたことが出来たって嬉しがってたじゃん」

「うん」

「俺的にはもうこのタイミングしかないと思ったんだけど、どうかな」


心が柔らかく目を細めると同時に一筋の涙が頬を伝った。出来るだけ優しく抱きしめる。肩が彼女の涙で濡れていくのがわかった。その春の陽射しのようなほのかなあたたかさが、ここに心が確かに居るのだということを俺に教えてくれる。


「でもすぐには無理でしょ?仕事の都合とかさ、準備とか。これからの時期は俺も凄く忙しくなるし。……だから、一年後」

「来年の夏、か」

「うん」


次に会えるのさえいつだかわからない。その不安を取っ払って、終わりの見えなかった俺たちのこの長い関係に終止符を。まだ確定なわけでは決してない。確かな約束ではないかもしれないけど、でも俺は来年の夏、またこの地に必ず戻ってくる。そう誓ってみせる。

心の彼氏としてではなく、一人のバレーボール選手として。

「そろそろ行かなきゃ」と腰を上げた。いつだって別れというのは辛いもので、それは今回だって同じことだ。終わりが見えたからってあと一年もある。短いようでとても長い。でも、きっとあっという間だよ。

出国ロビーは気を抜いたらはぐれてしまいそうなほどに人が溢れていた。繋いだ手のひらに力を込める。俺を見上げる心に静かにキスを落とした。ここでまた会おうという誓いのキスだ。


「……プロのバレーボーラーがこんなに目立つ場所で、ダメでしょ」

「大丈夫、俺は日本じゃ無名だから」

「そうかもしれないけど……」


口ではそんなことを言っているけど、彼女の瞳はまた潤み、頬は嬉しそうに緩められていた。すごく、可愛い。でもここで直接伝えてしまうと心はそれこそ照れて離れていってしまうかもしれないから、そうされる前に強く抱きしめて、もう一度キスをしてやった。


「夏が過ぎたらもうここでこういうこと出来なくなるね」


日本では人の集まる場所でこういうことをしていると目立つ。今俺たちのことを興味深そうにただ見ている奴らの中にも、来年俺を認識してくれる人が現れるのかな。なんて考えて、少し意地悪く笑った。


「来年の夏、絶対日本に行くから。その時もう一回ちゃんと迎えに行く」


ここで騒がれるようになるにはそれ相応の結果と実力がなくてはならない。この土地に来るのがゴールではない。見据えるのは、ずっとその先。


「全員倒して、そんで心を連れて帰る」

「ヒーローなのか悪役なのかわからないね」

「どっちにもなってみせるよ、俺は全部欲しい」


本当に我儘なんだよ、俺。強欲というかなんというか。自分勝手で理想が高くて、這ってでも何してでも絶対掴み取ってやる。

バレーも、心も、一切妥協しない。今までもこれからも俺は俺で、そんな俺を見てくれている心のことを俺は一生かけて大切にする。

もう一度二人でぎゅっとキツく体を寄せあって、そして名残惜しく思いながらゆっくりと離した。じゃあね、またね。といつも通り最低限の別れの言葉を交わす。もしかしたらこの場所でこうして手を振り合うのもこれが最後になるのかもしれない。そう思うと少しだけ感慨深くもなる。

大きく手を振りながらゲートへと向かえば、同じように心も振り返してくれた。別れの瞬間にこんなにも心の底から笑顔になれた時は今まであったかな。寂しさに潰されそうになって、無理やり二人でそれを隠していたと思う。まだ一年も残されてるっていうのに心が軽いなんて本当におかしな話だ。


『俺たちの最後の遠距離恋愛、ちょう楽しもーね!』


送ったメッセージへの返信には、ただ一言、『ここで待ってる』とだけ書いてあった。特に絵文字も何もなく、追加のスタンプが送られてくることもない。それが彼女っぽいなってちょっと笑った。終わりの見えなかった道のりにゴールが出来る。そしてそこが、俺と心の新たなスタート地点にもなるんだ。

迫り来る2021年。長くて短いこの一年で、一体何がどこまで変わるんだろう。俺の大きな一つの節目となる瞬間が確実に訪れる。確かなことは、その瞬間を心は今と変わらず見ていてくれるはずだということ。


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