2021年8月3日

「うーっす」なんて間延びした声を発し、開かれたドアから顔を出した花巻くんは、「どうぞ上がって」と相変わらずのヘラッとした笑みを溢しながら私を招き入れた。


「高杉さん、お疲れ様です。お久しぶりっす」

「あれ、金田一くん!?久しぶり〜」

「やべ、そういえば高杉に金田一も誘ったって言ってなかったわ」

「え、言ってなかったんですか」

「いいよいいよ。みんなで見よ」


はいよと渡されたコップを受け取って、それに口をつけながら時計を確認する。試合開始まではまだ少し時間があった。放送されている競技はメダルを賭け白熱した一戦を繰り広げていて、テレビからはその興奮がありありと伝わってくる。それを「うおー、すげぇなこの試合」と笑って見ていた花巻くんが、バレー以外の競技見てる?なんて会わなかったこれまでの期間のことなど全く感じさせぬいつも通りの自然なフレンドリーさで話しかけてきた。


「俺は夜くらいしか基本見れないんすけど、家いる時は何かしら見てるかもです」

「私は結構見てるよ。一日中バレー配信してるから片手間にだけど。今は昼間も家にいるからさ」

「そうだ、仲間じゃん。暇仲間」

「引越し準備とかあってグダグダは出来ないけどね」

「おーい俺もずっとグダグダしてるわけじゃないからね?立派に転職活動中でーす」


ケラケラと笑いながら軽いノリで場を和ませるその姿も変わってない。花巻くんは周りの雰囲気やその場の空気を読むのにとても長けている。

学生の頃は徹と付き合う前からずっと仲が良かったし、卒業してからもお互い上京組だったから定期的に会っていた。大学生の時に彼に彼女ができたと報告を受けてからは流石に会う頻度も減ったけど、それでも連絡は取ったりたまにご飯に行ったりはしていた。

花巻くんが職場の関係でゴタゴタしていると疲れた顔を見せ始めたのは二年前頃だろうか。最後に見た彼は今よりもっと辛そうだったけど、そこから会うこともなく、しばらくして連絡すらも取れなくなり心配していたけれど、今のこの姿を見る限り元気そうでよかった。この間今日の詳細を決める連絡を取り合っていた時に仕事を辞めたと聞いた時は驚いたけど、彼が決めたことなのでそこには特に何も触れようとは思わない。


「俺の話はとりあえず置いといて。高杉はやーっと及川のとこに行けんのな」

「うん。すごく待たせちゃった」

「長かったよなぁ。まじで。尊敬するわ」

「高杉さんもっスけど、及川さんもよく耐えましたよね」

「本当になー」


テーブルに頬杖をつきながら花巻くんがピッとテレビの画面を変えた。タブレットとテレビが繋がれているらしく、ネット配信しかない今日の徹の試合もこの大きな画面で見ることができるらしい。

まだ誰もいない会場にはざわつく観客たちが映し出されている。もうそろそろ選手たちが入場してくるだろうという期待感がこちらにもビシビシと伝わってきた。


「ま、俺は及川が最終的に高杉のことを選んだのは自然な流れだったと思うね」

「え?」

「そうなんですか?」

「あいつって高杉みたいなやつに弱そうじゃん?」


会場が暗くなって選手が入場してきた。その中に徹の姿を見つけて、金田一くんが嬉しそうにその姿を写真に収めている。花巻くんが動画でテレビ画面と金田一くん、そして私をぐるりと撮った。


「高杉はよく及川に愛想尽かさないね」

「尽かすようなこと何もされてないよ」

「そう答えられるのがスゲーって話。たぶんあいつもそう言うでしょ。この距離でこの長期間過ごしてもお互いそう言える関係築くってなかなか普通には難しいっしょ。やっぱ及川が高杉を選んだ理由わかるわ」


テレビに目を向けた花巻くんに合わせて私も視線を動かす。「高杉って脆そうに見えてめっちゃ強いじゃん?」と言葉を続けた彼は、画面の中の徹を穏やかな表情で見つめていた。彼のこの薄らと上がった口角と、緩く細められた柔らかな瞳を見るのはなんだか懐かしい。


「及川はその逆だかんな、ゴリラなくせにたまにまじでダメダメ」


そう言って試合開始と共に放たれた徹のサーブに、「相変わらず容赦ねーな一発目から!コエー!」と声をあげて嬉しそうに笑い、視線だけで私の方を見る。


「まぁ今はだいぶあいつも精神的に安定してるっぽいけどネ」


ニヤッと笑った花巻くんは「あーあ、最初は俺が一番高杉と仲良かったはずなのになー」なんて言ってもう一度テレビの方へと視線を向けた。金田一くんが一点一点にしっかり一喜一憂しているのを面白そうに動画に収め始める。


「明後日の試合高杉は現地組だっけ?」

「うん、二人は?」

「俺は練習の後普通に家で見る予定です」

「俺は宮城で集まれる奴ら集めて見るわ」

「いいなぁ、それはそれで楽しそうだ」

「現地よりこっち選んだらさすがに今の及川も泣いちゃうよ」

「日本戦のプレミアチケットじゃないすか!チケットあるのめっちゃ羨ましいですよ」

「うん!でもそうなるためには今夜の試合日本チームに勝ち上がってもらわなきゃだけど」

「そりゃそうだ。今日の試合次第のくせに俺らもう日本戦って決めつけてんの」


ウケるわ、と二人が楽しそうに手を叩きながら笑う。勝負はいつだって最後まで結果が読めない。どちらが勝ちどちらが負けるかなんて、最後の最後の瞬間までわからないのだ。

予選とは違って決勝トーナメントは負けたらそこで終わりだ。つまり、今夜の試合で日本が負けてしまったら明後日の対戦相手は日本ではなくなってしまう。

まだ始まってもいない今夜の日本戦のことで盛り上がっているけれど、二人は気づいているのだろうか。今行われているこの徹の試合も、最後の最後まで勝敗は分からないのだ。けれど二人はなんの違和感も疑問も無くアルゼンチンが勝つと確信していて、そして明後日、今夜勝ち上がってきたどちらかの国と対戦することを信じている。

彼の仲間と後輩が笑顔で彼を見守っている。そんな光景を私も写真に撮ってみた。

画面越しで笑う徹は今の仲間と共にコートの中を駆け巡る。汗を流して、真剣な表情で、的確に相手の動きを読んで、丁寧にボールを放つ。伸び伸びと楽しそうに。そして獰猛にボールを追いかけ続ける。

その姿は今の水色のユニフォームではなく、白地にペールグリーンのラインが入ったユニフォームを身に纏っていたあの頃から何も変わってはいなかった。

金田一くんがいて、花巻くんがいたあの体育館。今も昔も、彼は同じコートに立つ仲間に対しての尊敬と信頼と安心の意識を一切変えることはない。

自分が選手として大切にされていたことを自覚している彼らは、こうしてお互いに別の道へと進み、コートを離れても別の場所へ立っているとしても、あの時と変わらず彼のことを大切にしてくれるんだろう。

目に見えない場所に太い根を生やし、深く繋がり続ける彼ら独特のこの信頼関係が、少し羨ましくなると共に唯一無二のものとして存在し続けている事実に、私は今日も胸が熱くなるのだ。


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