2017年8月17日

閑静な住宅街。この時間ともなると自分たちで何か音を発さない限り部屋の中は静まり返る。

視界いっぱいに広がる彼の大きな胸板に額を押し付け、大きな背中に腕を回した。ピッタリとくっついて息を吸い込んで止める。彼の匂いが肺全体を満たし、染み渡るように身体中に広がっていく。

触れたそこから混ざり合って離れなくなってしまいそうだと思った。そんなことはあり得ないけど、本当にそうなってしまえばいいのに。


「心?」


心配そうな声で私の名前を呼んだ。ふわっと優しく頭を撫でた彼の手のひらの体温が心地良い。少しだけ顔を上げて、視線を彼に向ける。徹の瞳も同じようにこちらを向いていた。心、そうもう一度小さく名前を呼ばれてキュッと胸が締め付けられた。嬉しさからではなく、寂しさからだ。


「どうかした?」

「ううん」


私の肩を掴んで少し距離を取った彼は、不安そうに頬から首、肩と体のラインをなぞっていく。肌を滑るその指先の感触が鼻の奥をつんとさせた。

徹は優しい。いつだって。それがすごく嬉しい。そして、最後の夜は特に優しい。それが少し切ない。


「徹」


離れているときは言葉にしなきゃ自分の気持ちは相手に伝わりにくい。声色やカメラ越しの表情でわかる部分もあるけれど、全てを把握することは難しいだろう。こうして本人が目の前にいるなら気持ちは言葉にしなくても良いなんて、そんなことは決してないけど、言葉にしなくても伝わる感情も存在することは確かだ。

すり寄った私をそっと抱いて、彼は優しく頭の頂点に口付けた。少し痛いくらいの力が込められる。徹自らここにいることを自覚させてくれているようにも感じるそれが、また私の目頭を熱くさせた。

彼は言葉でも行動でも目一杯の想いを丁寧に大切に届けてくれる。私もいつだって精一杯の感情を余すことなく彼に伝えたいと思っているけれど、彼のようにうまくその全てを伝えきれていないような気がして何だかもどかしかった。

徹が伝えてくれる言葉も、届けてくれる感情も、触れる肌の感触も、感じたその全てを些細なことまで一切忘れたくないし、忘れるつもりもない。


「徹」

「なに」


ちゃんとここにいるよ。そう言い聞かせてくれているような、とてもあたたかい声だった。

嬉しくて、嬉しくて、泣きたくなるくらいなのに、優しくされるほどにどんどん離れたくないという思いが増して、とてつもなく苦しくなって、やっぱり泣きたくなってしまう。

背中に回した腕に精一杯の力を込めた。彼をいつまでもこの腕の中に閉じ込めておきたいと思った。そんなことは出来ないとわかっているし、自由に大空へと枝を伸ばし続ける彼を閉じ込めたいだなんていつもは絶対に思わないけれど、それでも今だけは願ってしまった。

私の気持ちを察したのか、私では到底出せないくらいの強い力で締め付けるように彼が応えた。そのまま唇を重ねられる。先ほどまでのひたすらに優しいものではなく、少し荒々しいものだった。

乱される。何もかも。息が出来ないくらいに苦しい。思考も感覚も全てが彼で染まって、それを少し怖いと思うと同時にこれ以上にないほどに幸せだとも感じた。痛いくらいに求められて、狂おしいほどに求めてしまう。幸福で満たされると同時に悲しくもなるこの複雑な感情を、振り解こうとしても出来なかった。


「……徹、ごめん」

「どうして謝るの」

「なんか、今日は我慢できない」

「いいよ。そんなものしないで」


いつも以上に寂しい想いが溢れ出てきてしまって、ついに涙が流れた。こんな風に泣いてしまっては困らせてしまうだけなのに。それでも徹は小さく笑いながら親指で涙を掬って、まだポロポロと零れ続けているにも関わらず唇を寄せた。


「俺だってほんとは泣きたいくらいだよ」


静かにそう囁いて、ゆっくりと覆い被さってきた徹はそっと私の頬に手を置いてもう一度涙を拭った。


「徹がすごい優しくしてくれるから、どんどん苦しくなる」

「うーん、それは難しい問題だなぁ。でも優しくしない選択肢以外は選べないもん。仕方ないよ」

「好きって気持ち、溢れて止まらなくなって苦しいの」

「……っと、あぶな。あんなこと言ったのに今の一瞬で優しく出来なくなるところだった」


軽く笑った彼が焦ったようにフゥと息を吐いて、柔らかなキスを丁寧に一度した。真剣な表情で私のことを見下ろす彼と視線が合う。ゆらゆらと揺れる視界の中で徹の姿だけがはっきりと見えた。


「さっき散々好きって伝えたと思うんだけどさ、まだまだ足りないんじゃないかとも思ってたんだよね。余すことなく全部伝えるから、一滴も溢さず受け取ってよ」


笑った徹が動き出すと同時に部屋の温度が上昇した気がした。静寂が切り裂かれ、部屋にはお互いの呼吸音と布の擦れる音が響く。五感のすべてを使って徹のことを感じたいと思った。染み込ませるなんてそんなんじゃ足りない。絶対に消えない痕を刻みつけたい。

彼と過ごす最後の夜。この日だけはどうしても、心が少し弱くなる。


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