2017年8月12日

私の渡航歴は今回のアルゼンチン以外には台湾しかない。台湾と日本の時差は一時間。正直あってないようなものだ。つまり、私は今初めて時差ボケというものに襲われている。


「あはは、眠そー。毎日きっちり生活してる人の方が時差ボケなりやすいって言うしなぁ」

「今すぐにでも寝れそう……。でももったいなくて寝てらんないよ」


ポカポカと暖かい太陽が照っている真っ昼間。時差ボケに加えて長時間の移動の疲れもまだ残っているため、今日は近場でのんびりしようとゆったりと行動している。都会から離れたこの辺りは、広い公園や畑も多く、緑豊かなとても生活しやすい土地だ。

街の案内を兼ねて散歩をしながら、日本ではあまり見ない雑貨に思わず足を止めたり、気になる店に立ち寄ってみたり。学生の時、たまに二人でフラフラと街を歩きながら過ごした放課後の記憶が蘇ってきて、なんだか懐かしくなった。


「食べれる?」

「うん、美味しいよ」

「良かった。結構こっちの味苦手って人もいるからさ」

「私基本好き嫌いないし、そんなグルメ舌でもないから。結構なんでも美味しく食べれちゃうんだー」

「それはすごく良いことだよ。そういえば学生の時さぁ、みんなが不味いって笑いながら食べてたお菓子、心は普通に食べてたよね」

「……そういう言い方されると好き嫌いが無いんじゃなくて、私が味音痴みたいになるじゃん」

「ははは、ごめんごめん」

「味に鈍いんじゃなくて、美味しいの範囲が広いだけ」


美味しいけれど、初めて見る食材が使われた馴染みのない味のする料理だ。それをぱくぱくと食べ進めながら、徹はこの国のこういう味を毎日のように食べているのか、と不思議に思った。今は異国のものだなぁと感じるこの味に、食材に、匂いに、私もいつかこれが普通だと言いながら、慣れる日が来るのだろうか。

一足先に食事を終えた徹に店員さんが話しかけてきた。笑顔で会話を進める彼らはとても仲が良さそうだ。私も一応語学の勉強はしてはいる。けれど、二人の会話の内容は聞き取れそうではあるのに実際にはほとんど聞き取れなくて悔しかった。

アルゼンチンの公用語だからとスペイン語を学んではいる。勉強しているその言葉と基本は同じなはずなのに、南米のここは訛りがとても強い。都会寄りの地域ならまだしもここは少し離れているし、この国独特の表現もたくさんある。元が同じ言語でもこうも違うのか。同じ日本語でも東北や沖縄の強い訛りや方言を使われると全く聞き取れないのと同じ感じがする。しっかりマスターするのは骨が折れそうだ。

いつも通り「ごちそうさまでした」と手を合わせると、徹と話していた店員がこっちを向いて「ゴチソサマデシタ!」と同じように手を合わせペコリとお辞儀をした。


「俺もよくここでやるから、面白がって真似するんだよね」

「そうなんだ」


近づいていたその人が「おいしかった?」と笑顔で聞いてくる。それはしっかりと聞き取ることができたので、おいしかったのでまた食べたいですと慣れない言語で返してみれば、店員さんは嬉しそうに笑みを深めた。陽気な彼はそれじゃあ楽しんで!と明るい笑顔で言って他のテーブルへと去っていく。


「あ〜、次からめちゃくちゃ揶揄われそう」

「そうなの?」

「心のこと紹介しろっていうから俺の彼女だからダメって言ったら、やっと連れてきたのかってあっちが盛り上がっちゃって」

「そんなこと言ってたの?」

「うん、さっき歩いてた時に話しかけてきた近所のおっちゃんも同じような感じだったよ」

「うーん、たしかに言われてみれば聞き取れた単語はそんな感じの言葉たちだった気もする。でもやっぱり勉強はしてても話し慣れてない言葉を現地の人から聞き取るって難しいなぁ」


もっと勉強しっかりしようと決意をすると、私の考えていることがわかったのか「こっちに来てから覚えたほうが早いかもね」と言って徹は笑った。


「そりゃ勉強して馴染んでおいたほうが覚えも早いだろうけどさ、無理矢理話さなきゃいけない環境になれば半年もあればある程度はしっかり話せるようになっちゃうから」

「本当に?」

「ほんとほんと。それに心は基礎はわかってるんだし、あとはこっちの発音とかそういうのに慣れればちゃんとすぐに聞き取れるようになると思うよ」

「そっか、頑張ろう」

「もう少し都会の方行けばまだ発音も何もかもわかりやすいんだけどねぇ」


俺もいつか海外には挑戦してみたいとは思ってたけど、まさかあんなに早くになるとは自分自身も思ってなかったから、日本にいる時から必死に勉強はしたけど最初はわからなくて困ったよ。と、彼は当時を思い出すように眉を下げた。それと同時に新しく店内に入ってきた人も知り合いだったらしく、「おおー!」なんて立ち上がって彼は親しげに挨拶を交わす。

言葉が交わせるかどうかというのは生活する上でかなり重要になってくる。彼もきっとたくさんの苦労をしたはずだ。一人で、私の知らないところで心が折れかけたことだってきっとあるはずで、それを乗り越えて今の彼らとのこの関係が成り立っているのだ。

軽い会話を終え、その人が席についたのを見届けると、彼がこっちを見ながら「最初は日常会話もしどろもどろだった俺でも今ではこうしてこっちにたくさん知り合いもできたし、常連として迎え入れてくれる店もできたよ」と笑顔を向けた。

私もいつか、こんな風にこの街の人達と会話を交わし、交流を深め、仲良く笑い合える日が来るのだろうか。だから大丈夫、とは彼は口には出さなかった。けれどそう言ってくれているのはちゃんとわかったので、彼の言葉に大きく頷いてみせた。


「いつか心をあの子達にも会わせたいなぁ」

「あの子達?誰?」

「前に言ったの覚えてる?お菓子あげたら懐かれたって言った小学生の女の子たち」

「あー!」

「生意気なんだけどさ、可愛いんだよね。俺のことよく馬鹿にしてくるけど。ほんと女の子はどこの国でもませてるよ」

「最後のは否定しないけど、揶揄われがちなのは徹の性格もあるんじゃないかな」

「え?それどういう意味?」

「ははっ」

「ちょっと?笑って誤魔化そうとしないでくんない!?」


私はこの場所ではとても浮いている気がする。別に悲観的になっているわけではない。客観的に見てきっと、いや、絶対に浮いていると思うのだ。徹も最初はそうだったに違いない。けれど今では立派にこの街に溶け込んでいる。寂しさも、正直ないとは言い切れない。けれどそれでも、彼がここに至るまでの見えない努力があったことをまた間近で感じられたことを嬉しく思った。

いつか私もこうして彼のように、この土地に違和感なく居られるようになりたい。


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