2017年8月10日

眩しい太陽がジリジリと肌を焼く。酷暑と呼ばれる今年の夏は、動けばすぐにでも汗が吹き出してくるほどの厳しい暑さだった。

早めに空港へと着き、熱った体を落ち着かせる。パスポート、お金、スマホ、これだけは絶対持っていないといけないという荷物の確認を最後にもう一度して、チェックインと共にキャリーを預けた。機内に持ち込む手荷物用の大きなカバンの中には、先ほど確認したものにプラスして乗り換え時に着替えるための衣類が入っていた。荷物を預ける直前にキャリーから引っ張り出した上着も忘れずに持つ。

ドキドキしながら出国審査を抜けて、パスポートに押された出国スタンプを記念として写真で撮っておく。免税店では早速狙っていた化粧品を数点購入した。いつもよりかなり安く手に入ったそれを手に、嬉しい気持ちでアプリを開く。

『無事に飛行機乗れそうだよ』

たった一文の短いメッセージと一緒に添付した先ほど撮ったパスポートの写真にはすぐに既読がついた。あっちはまだ朝日も登らない時間のはずなのに。返事が送られてくることはない。けれど代わりにすぐに通話画面へと切り替わった。


『もしもし、大丈夫そう!?』

「大丈夫。でもまだ機内にもいないよ」

『機内でも荷物取られることあるから気をつけてね!?もちろんトランスファーでも!』

「うん。もう何回も言われたよそれ」

『何回でも言うの!心配だから!!』


別に海外旅行が初めてというわけじゃなんだけどな。とは言っても、唯一行ったことがあるのは大学の友達と卒業旅行として行った台湾だけだからなんとも言えない。日本からも近いし、飛行機は四時間程度。沖縄に行くのとさほど変わらないくらいで、もちろん乗り換えもない。街並みや言葉も日本と馴染み深く、現地には日本語を話せる人も多い。

だとしても徹は流石に心配のしすぎだと思うけど。


『とりあえず、アメリカ着いたら一回連絡入れてね。すぐに返信できるかはわからないけど、絶対だからね』

「うん、わかった」

『絶対だからね!』

「わかったって」


飛行機の乗り換えや長時間のフライトは初めてで、私もそれに関しては緊張や不安もある。けれど私よりもハラハラしている徹の声を聞いていると嫌でも冷静になってしまう。

何日も前に彼が教えてくれたトランスファーの方法や、その間の時間の潰し方のおすすめ、長時間の機内での過ごし方をまとめてくれたメッセージをもう一度読み返す。何度も経験しているからこそわかる徹なりの工夫。ありがたいけれど、流石にそれはわかるよと突っ込んでしまいたくなるようなことまで細かく細かく書かれたそれに、呆れながらも愛しさを感じて自然と口角が上がった。

飛行機に乗り込むギリギリまで続いた通話を切って、CAさんの案内通りに進んでいく。自分の席の隣には親子連れの小さな女の子が乗っていて、離陸に少し怯えている姿が可愛くて私の緊張もほぐれた。徹に言われた通りに機内では定期的に席を立って体を伸ばす。ドリンクを取りに行く時には荷物の確認をするのも忘れない。

スマホでアルゼンチンの現在時刻を確認しながらそれに合わせて睡眠をとった。日本時間ではまだまだ眠るような時間ではないし、機内なこともありなかなか深い眠りにつけないのが悔しいけれど、この段階から少しずつ体を慣れさせ始めないと後がきついのだ。

気がつけばアメリカへと着く直前で、隣の女の子に肩を揺すられ起こされた。機内放送では着陸準備の説明がされている。教えてくれてありがとうとお礼を言うと、それに気がついた母親がすみませんと謝って来たが私はむしろ助かったので全然大丈夫だ。

窓の外に広がっていたのは日本とは全然違う雰囲気が漂う異国の地だった。台湾はどこか懐かしさを感じさせるような、異国ではあっても日本となんとなく馴染む街並みだったけれど、ここは本当に何もかもが違う。街でもないし、はっきり言って空と空港の建物くらいしか見えないのにそれを強く感じた。

入国はしないとはいえ初めてのアメリカ。売っているものや食べ物がどれも派手で、全てをカメラに収めたくなる。アルゼンチン行きの次に乗る便の遅延情報などを定期的に確認して、面白いものを見つけるたびに徹にその写真を送りつけながら数時間のトランジットを楽しんだ。

日本からアメリカへの飛行時間とほとんど変わらない二回目のフライト。途中トランジットで時間が空いてはいるとはいえ、流石に二十時間以上飛行機に乗っているとなると体はもうバキバキだ。

機内アナウンスが鳴り響く。ベルトをつけて、少し倒していたシートを起こし折り畳みテーブルを元に戻した。着陸態勢に入った飛行機はとても揺れる。それに多少の怖さはあるものの、窓の外に見える見知らぬ街並みに気を取られそれどころではなかった。日本とは違う色とりどりの建物が眼下に広がっている。あと数分で降り立てるであろうその土地に想いを馳せた。


『着いた!?』

「うん、これから入国審査だからまだ時間はかかりそうだけど、でもそんなに混んではないみたい」


慣れない表記の案内に従って歩きながら徹に電話をかけた。ワンコールにも満たない時間で素早く繋がったそこからは、随分とほっとしたような声が飛んでくる。きっとこういう質問をされるからこう答えてねと、また心配そうに細かく教えてくれるその様子に笑いながら、もうすぐ順番だからと一度通話を切った。入国審査では先ほど徹が教えてくてたものとほとんど同じ質問をされた。無事にアルゼンチンへの入国の許可も降りて、流れてきた自分の荷物を受けとり、ゲートへと向かう。

ついに来た。この国に。

このゲートを潜れば彼に会える。と、思いたいが残念ながらそうはいかない。同じアルゼンチン国内でもサンファン州に行くにはここからまた飛行機を乗り継がなくてはならないのだ。すぐに手続きをして次なる搭乗ゲートへと歩みを進める。次の便まではアメリカでのトランスファーのようにゆったりできる時間があるわけではない。多少焦りながら、乗り場を間違えないようにと何度も表示を確認しながら早足で歩いた。

すぐに飛行機に乗り込んで、窓からの景色を写真に納め、それを見慣れた名前のトーク画面へと送信した。写真には向こうに見える他の飛行機しか写ってないつまらないものだったけれど、その返信は『最後まで油断しないでね!?俺ももうすぐ出る!』という文章とともにたくさんの絵文字がついた騒がしく浮かれたものだった。

先程の土地を発って二時間弱。ついに目的の地へと辿り着いた。着陸してすぐに電話をかける。またすぐに繋がったそこからは、先ほどと全く同じように『着いた!?』と大きな声が飛んできた。


「着いたよ。荷物取ってすぐに向かうね」

『わかった。待ってる』


今回は入国審査がないからそのまま通話は繋いだままにした。今ここを通り過ぎた、もう少しで荷物が出てくる、荷物を受け取った。そんな風に細かく報告をしながら一歩一歩足を進める。徹のテンションがいつも以上に高いから冷静になっていた部分はあるが、私も気分が舞い上がっていた。

まだ空港内なので外の景色は見れていないが、空気がすでに日本とは全く違うことがわかる。ザワザワとする周りの人々の雰囲気に飲まれ、ドキドキと高鳴る胸の鼓動をなんとか抑えながら、ステップを踏むように軽い足取りで最後の扉を潜った。


「心!!」

「徹!!」


スマホを押し当てた右耳から聞こえる機械越しの声。それと同じものをクリアな形で左耳も捉えた。一直線に駆けてきた彼はそのまま飛びつくように勢いよく抱きしめてくる。電話はまだ繋がったまま、お互いのスマホの通話画面は一秒ずつ時を刻む。良かった無事で、なんて、彼がまるで初めてのお使いに出た我が子にかけるような、心の底から安堵したような声を出すからついつい笑ってしまった。

寒くない?との質問に、先ほどまではワクワクが大きすぎてあまり感じていなかった気温差をやっと自覚する。八月といっても南半球のここは日本とは季節が真逆なのだ。冬といっても日本のそれと比べるとだいぶ暖かいけれど、それでも酷暑だった日本から急にこの気温まで下がるとなると暖かいとはとても思えないほど寒かった。アメリカを発つ前に着替えはしたし、まだ屋内だから今はそれほど冷えてはいないけど、きっと外に出ればもっと寒さを感じるだろう。

私のキャリーを引いてくれている手と反対の手のひらを差し出され、それに自分の手のひらを重ねた。満足そうに微笑んだ彼は、「こっち」と繋いだその手を引っ張るようにして歩き出した。絡まった指先から熱を感じる。徹が、ここにいる。


「わ、すごい」

「子供みたいな目してる」

「だって、全然違うんだよ」

「ははは、初めてこっち来た時の俺も多分同じ感じだったと思うけど、人の反応みるのは面白いなぁ」


電車の窓の外に見える景色は日本とは違って何もかもが壮大だった。興味津々にキョロキョロし続ける私に、そんなことしてたら観光客だって丸わかりでスリに狙われまくりだよと呆れた顔をする徹。俺がいて良かったねーと私を守るように肩を抱く彼に、ここだよと声をかけられ電車を降りる。

降り立ったそこは車内から見るよりももっともっと感動した。目に見える建物、行き交う人々、街の雰囲気はもちろん、空の高さや空気の軽さまで全てが日本とは違う感覚がする。思わず立ち止まってぐるぐると辺りを見回す私の手を取って、「ハイハイちゃんと着いてきてねー」と笑いながら歩き出した徹に、「ねぇあれ何?」「あれ凄い!」と感想や疑問を全てぶつけながら歩けば、小さい頃の甥っ子と歩いてた時を思い出すなぁと懐かしそうにしながら一つ一つ教えてくれた。

日本を発ってから三十時間以上。ここへの直行便は無い。乗り換えを二回経て、漸く辿り着くことができるのだ。

やっと来れた。見慣れない街並み。随分と遠くに浮かんでいるように思える雲。道行く陽気な人々。飛び交う慣れない言語。今は八月で、季節は日本と真逆の冬。でも冬だというのに日本のそれと比べればだいぶ暖かく感じる。何もかもが私が生まれ育ってきた国とは違う。

ここが、徹のいる場所。


 | 


- ナノ -