黒川イザナと嫌いな食べ物




目は口ほどに物を言う。あからさまな嫌悪を孕んだ荒れた瞳が私を射抜く。瞬きで噛み付いて人が殺せるのではないかというほどに殺意が含まれたその視線を、先ほどからずっと見て見ぬふりをしている私は自分でもかなり肝が据わっているんじゃないかと思う。

「テメェ……」

込めれるだけの軽蔑を存分に含んだ低い声が耳に入るが、それをも無視して私は目の前の食事をパクパクと米粒一つ残さぬよう丁寧に食べ進めた。そんな私の態度が気に入らないのか、私の向かいに座り朝の挨拶もなしにこうしてこちらを睨み続けているイザナがチッと大きく舌打ちをする。

「マジで臭ェから今すぐそれ捨てろ」
「おはよ。もう少しで食べ終わるからあとちょっとだけ我慢してよ」

鼻を摘みながらゴミ箱を覗くみたいに私の手元を見つめる。うげぇなんて失礼すぎる声を発しながらソファの方へと移動した彼は、食欲失せたと吐き捨てながら倒れるように寝転がった。そうじゃなくても朝食は普段からほとんど食べないのにね。

「そんなモン食うヤツは人間じゃねー」
「日本人の多くに怒られるよ」

一体彼が何に対してこんなにも拒否反応を見せているのか。それは私のお茶碗によそわれたホカホカのご飯の上で一際存在感を放ち続ける、この国では割と親しまれているであろう納豆だった。確かにこの味や臭いは独特だし、苦手だという人も一定数存在する。しかしイザナは拒否度がそんじょそこらの人とは桁違いなのだ。言うならばアレルギーだ。食べず嫌いのアレルギー。

臭いはもちろん、その色も豆を覆う白濁色のネバネバもかき混ぜる時の音もその時の見た目も、何もかもが嫌だという。ちなみに彼は初めて納豆というものの存在を知った時から、これは食べ物であるという認識はしていないらしいので今まで一度も食べたことは無く、味の好き嫌いに関しては答えられないらしい。が、食べなくてもクソ不味いことは解ると言う。

私は好きだけどな、納豆。毎日は食べないけれどたまに無性に食べたくなるし、キムチを入れてみたり、卵の黄身を乗せてみたり、一手間加えればかなり味も変わってくる。ご飯だけではなく、うどんにパスタにパンに、色んなものとの相性が良い。旅館の朝食で出てくるそれは、味は特別変わらないはずのに、ちょっと小洒落た器に入っているってだけで何か今すごく贅沢してるなって気持ちになる。まぁ、これに関しては個人的な意見すぎるかもしれないけど。

人には好きなものがあれば当然嫌いなものだってある。イザナにとってのそれが納豆だと言うのなら無理矢理食べさせるなんてことは私もしない。彼が嫌がるのはわかっているからなるべく私も納豆頻度を控えたり、彼がいない時の外食で食べたりしている。けれどこうして、本当にたまーに家で食べたくなってしまうこともあるのだ。

「ごめんね。食べ終わったよ」
「遅え。早く片付けろ。皿も全部洗え。ゴミ袋は死ぬ気で縛れよ」
「わかったわかった」

指示が細かいなぁとは思うけれど、なんだかんだ言っても彼はこうして文句は言いながらも最後まで食べさせてくれたのだ。言われた通り食器も納豆が入っていたカップもきちんと洗ってゴミ袋もしっかりと縛った。これでもう大丈夫だろうと一息ついて、ソファに寝そべったままのイザナに近づけば、彼は勢いよく身体をくるりとこちらに回した。

「…………」
「なによ」
「こっち来んな」
「えー?なんで?」
「ナマエからまだクソみたいな臭いする」

せめてそこはちゃんと納豆って言って欲しい。でもそんなこと言うとその名称でさえ嫌いだとか聞きたくないだとか言ってきそうだな。苦虫を噛み潰したような不愉快極まりない顔をしたイザナは、汚物に集る虫を払うようにしっしっと遠ざけるジェスチャーをする。その扱いに少しムッときて、わざとらしく大きく更に一歩近づいてみれば、彼は一睨みで相手を石化させる蛇のような鋭い視線をこちらへ飛ばした。

「ふざけんなあっちいけ。オイ、聞いてんのか」
「そんなこと言わないで甘えさせてよ」

ピョンと跳ねるようにして素早くイザナの上に乗っかってみれば、彼は地獄の底から引っ張り上げてきたかのような低音で苦々しそうに「信じらんねぇ」なんて言って両腕で顔面を覆った。

「退け」
「退かない」
「……そこでしゃべんな」

本気で嫌がるその姿に可哀想だなぁとは思うれど、こんなイザナは滅多に見られないので正直面白さの方が勝る。ごめんと心の中で謝りつつも、その腕を掴んで無理矢理顔を出させ視線を合わせれば、彼は凄まじい怒りを眉の谷間に這わせそれを潰すように顔を歪めた。

そんなに嫌なら力尽くにでも私のことを突き飛ばして、寝室にでも駆け込めば良いのに。私が食べ終わるまでそこにいて、落ち着くまでここには来なければいい。でも彼はそうはしない。それくらいには私も彼に好かれているということだ。こんな形で実感するのもなんだが、この人からの不器用な好意に悪い気はしなかった。だから恋人に向けるような表情だとは到底思えないその表情を見ても、今は逆に嬉しくなってしまう。

にっこりと口角を引き上げ、不意をつき素早く唇を奪った。角度を変えそれを三回ほど繰り返した時、その行為を固まりながら受けていただけのイザナが私のことを突き飛ばした。結構な力を込められて後ろにゴロンと転がった私を軽く蹴り飛ばすようにして、彼は勢いよくソファから転がり落ち、地面に這いながら口元をおさえギリギリと拳を握っている。

「殺す……!」
「どう?納豆の味は」
「どうもなにも……オエッ」

ゲホゲホと咳き込みながら首を押さえる姿はとても苦しそうで、彼女にキスをされた直後に取るような行動では決してない。あまりの姿にアハハと思わず大きな声をあげ笑えば、イザナと共にソファの下へと転がっていったクッションを顔面に投げつけられる。結構な勢いで当たったそれはなかなかに痛くて、それに文句を言えば「これだけで済んで良かったと思え」なんてヒールなセリフが返ってきた。

歯磨いてくるねと言って洗面所へと足を運んでも、いまだ苦しそうに咳き込む声が部屋から漏れ聞こえてくる。いささか大袈裟すぎはしないだろうかなんて思うけれど、あれだけ嫌がっているのを知っていたのに流石に可哀想すぎたかなと反省しながら歯磨きを終え急いで彼の元へと戻れば、水を飲みながらジトッと重たい視線を寄越す彼とばっちり目が合った。

「ごめんねイザナ。そんなに睨まなくてももう納豆の臭いはしないはずだよ」

コトッと飲みかけのペットボトルをテーブルの上へと置いた彼にそっと近づき、羨ましいほどに滑りの良い頬を指の先で撫でる。私を見下ろす瞳に長いまつ毛が影を作って静かに閉じられた。少しだけ背伸びをして、私よりもわずかに高い彼の唇に自分のそれを少し強く押し当てる。先程と同じく角度を変えて三回。今回は突き飛ばされはしなかった。

「もうあんなクソみたいなもの食べないで」
「納豆ってちゃんと言ってよ」
「その名前でさえ嫌い。聞きたくねー」

クシャッと紙を丸めたような深い皺を眉間に刻み、吐くように言い捨てたイザナは、黙らせるために己の口で私のそれに蓋をした。

何となく良い雰囲気になってきたのを肌で感じてはいるものの、私の中のちょっとした悪戯心がまた顔を出す。息継ぎの合間を縫って小さく「あれね、三パックセットなんだ」と小さな声で告げた途端、それまでの雰囲気を丸無視して私を突き飛ばし、私に向けて中指を一度立て冷蔵庫へと一直線に向かっていった彼の背中を見つめながら、耐えきれずにお腹を抱えて大きく笑った。


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