小鳥がさえずり、優しく包み込むような柔らかい朝日がカーテンの隙間から差し込む、絵に描いたように綺麗な朝。

重い体を何とか起こして朝の支度をする。いつも通り朝ごはんもきっちり食べて、テレビで天気を確認したあと、昨日と変わらない時間に部屋を出る。今日も今までと同じように取引先の人たちに挨拶をして、愛想笑いを浮かべながら業務をこなし、淡々と自分に課せられたノルマをこなしていく。

あっちに帰ったらまとまった休みがもらえる代わりに、ここからは最終日まで毎日仕事がある。そのことに対して最初から不満はなかった。

仲良くなった友達と一緒にランチをして、たまにしつこく絡んでくる上司を軽く躱す。同期の男の子と話すのも前よりは緊張しなくなった。あと何日しかないと友人達と毎日カウントダウンをしながら、離れちゃうの悲しいねと寂しさをしっかりと言葉にして伝え、その気持ちをそのままで終わらせないようにまた会う約束をした。

仕事も特にミスはない。これからの事に対して不安も心配事もない。仙台のご飯は美味しいし、みんなが連れていってくれるお店はどこも可愛い。先輩との仕事以外の雑談もかなり増えて、友達のくだらない話に笑いながら相槌も打てる。この二ヶ月でいろんなことが変わった。


「やばい、時間ギリギリ!」

「急いでみな!先輩待ってるよね!?」

「うん、朝のうちに駅に荷物置いてきたから、走れば間に合うはず」


ドタバタと慌てながら急いで店を飛び出して、改札への短い距離を全力で駆け抜けた。この歳で話すことに夢中になってしまって三人揃って時間を確認するのを忘れていただなんて本当に何をしているんだろう。ただでさえ走ることで息が切れているのに、声に出して笑ってしまってもっと呼吸が苦しくなる。

慌てて駆け込んで来た私たちに驚きながらも可笑しそうに笑った先輩は、「新幹線の時間まではまだもうちょっとあるからそんなに慌てなくてよかったのに」と手にしていたペットボトルを飲みなと手渡してくれた。


「じゃーねみな!きっとまたどっちかがそっち行くだろうし、日程合わせてみんなで旅行とかもしようねー!」

「うん、またね」

「また連絡するねー!」

「じゃあ行こうか筑波さん」


行きは先輩とホームで待ち合わせた。新幹線が発車する十分前。家を出て駅まで向かう道のりも、改札を通るときも一人で、これからの二ヶ月に不安を抱いていた。

それが帰りはどうだ。出発のギリギリまで友達と過ごして、一緒に駅へと向かい、友達に見送られる。先輩とは改札前で待ち合わせて一緒にホームまで歩いている。たった二ヶ月でこんなにも変わった。

私たちの姿が見えなくなるまで手を振り続けている二人に笑いながら、最後にもう一度大きく手を振り返した。

良い経験だったと思う。最初はあまり乗り気ではなかったこの部署も今では大好きだし、不安だった出張も今はもう終わってしまったと寂しさすら感じられている。ポコっと音を立てて震えたスマホに表示された『そろそろ家着く頃?』『お疲れ!』という三人のグループに送られてきたメッセージに、先輩と別れ一人で歩く帰り道でも寂しさを感じることなく頬が緩んだ。

誰かが自分を気にかけてくれて、気持ちや言葉を届けてくれる。その大切さと強さを学べた二ヶ月だった。

カバンに入れていた鍵を取り出す。チャラっと音を立てたキーケースには二つの鍵がついている。そのうちの一つを差し込んだ。使わないもう一つの鍵は虚しくプラプラと空を泳ぐ。パタンとドアが閉まる音が大きく響いた。三ヶ月間ずっと締め切りだった部屋は篭った夏の空気でむわっとして不快感がある。急いで窓を開けて換気をした。ぬるい風が部屋に入ってくる。息苦しい熱帯夜。頭も体もだるい。

不意に鼻の奥がツンと痛くなった。それでもやっぱり涙は流れなかった。もう使うことのない鍵を一つケースから取り出す。まだクーラーもしっかりと効いていないこの部屋で、こんなにも暑い夜なのに、その銀色の物体は驚くほどひんやりとしていた。

宮くんは一体何を考えているんだろう。自分の立場をもっとしっかりと自覚してほしい。ただの一般人というわけではないのに。もう何も関係のない女がこうして自分の家の鍵を持ったままでいるということに彼は何も思わないのだろうか。せめてこのくらいは回収しにくれば良いのに。逆上して乗り込んで行かれたらどうするつもりだろう。私が悪用しないとでも思ってるのかな。そういう所だけは妙に信頼を得ているのには喜ぶべきなのか。

今日までずっとつけっぱなしだったネックレスを外した。あっちで急に外したら突っ込まれてしまうような気がして今日まで外せなかった。首元が嫌にスースーする。やっと効いてきたクーラーの風が軽くなった肌の表面を撫でた。


『これでどんな事があっても頑張れるな』


小さく口づけを落としながら、そう言って笑った彼の強気な表情を昨日のことのように思い出せる。

最初からこうなることは覚悟していたのだ。こんなにも脆い関係はいつか崩れてしまうだろうということはだいぶ前から気がついていた。むしろここまでよく持ったものだと感心すらしてしまう。

付き合っていたわけではない。それでも良いとこの関係を持ちかけたのは私からだ。プライドはないのかと彼が蔑むように私を見たあの始まりの瞬間からきっと全てがおかしかったのだ。関わりを持って一年経っても、離れ離れになるとわかっていたあの卒業式の日まで彼は名前すら知ろうとしないほどに私に対しての興味なんてなかった。やっと彼が名前を知ってくれたと喜んでいた私の感覚が他の人とずれていただけだ。

こんなにも拗れた関係を作り出し、それを今の今まで続けて来たのは全て自分自身だ。人との関わり方を知ろうとしなかった私の自業自得。それに宮くんを巻き込んだ。

憧れ続けた彼が崩れないように。その輝きが一瞬でも濁らないように。その為なら何だってすると勝負に出た。

あの日の気持ちよりも今の自分の気持ちを優先させて、彼が悩んでいることに気付きながらも知らないふりをして、彼の気持ちをぐるぐると掻き乱した。後悔があるとしたら、そうやって彼に迷惑をかける前に離れられなかった自分に対してだ。

他の人の前ではいつだって強くいられるように、私が唯一の逃げ場になる。そう彼に言ったあの時の私が今の私を見たらなんて言うんだろう。きっとすごく怒ると思う。恋心がどんどん大きくなって憧れを追い越していくにつれて、私はどんどん弱くなった。もちろん今だって私にはない輝きを持つ宮くんに憧れはある。尊敬もしている。でもそれ以上に、好きだという気持ちの方が大きい。

卒業式のあの日、彼とはもう一緒には居られないと分かっていたのにあんなにも心が軽かった。それまでの思い出を胸に強く生きていけると思えていた。あの頃の気持ちにもう一度戻ればいいだけなのに、それがうまくできないのがまた悲しかった。

一緒に居すぎてしまったのかもしれない。なんて、宮くんと過ごしてきた時間に少しでも後悔を抱いてしまった自分が一番許せない。



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