最悪を最高に変えてくれる


間違いなく、今日は最悪な日だ。嫌なことというのは大抵連続して起こる。二度あることは三度あるなんて言うが、今日はそんなんじゃ終わらなかった。

朝から寝坊をしてメイクもヘアもそこそこに家を飛び出した。満員電車で隣に立っていたサラリーマンが持っていた鞄が引っかかって盛大にストッキングが破けた。けれど履き替える時間はなく泣く泣くそのまま出勤した。仕事で使う予定だったUSBを家に置いてきた。同じチームの人が二人同時に風邪を引き休みだったため仕事量がいきなり増えた。いつもはこんなことないのに今日に限って盛大にミスをした。上書き保存をかけたはずなのにされていなかった。変な場所で躓いて書類をバラバラにした。突然PCの調子が悪くなった。自分は担当していないはずのものをなぜか私のせいにされその失敗をとても怒られた。別室に呼ばれたため庇ってくれる人もその場にはいなかった。いつもは定時に上がれるけれど残業が長引いた。そのせいで今日行く約束をしていた治くんのお店には顔を出せそうになかった。

自分自身が引き起こしたもの、自分ではどうにもならないもの。大きいものから小さいものまでいろんな最悪が積み重なって、今日一日だけでうんとやつれた気がする。コツコツと私の靴の音だけが聞こえる人通りの少なくなったこの時間のオフィス街は、いつも以上に寂しく感じた。

とぼとぼと歩き駅へと向かう。先ほどオフィスで確認したときはもう十時をすぎていた。遅くなっても大丈夫だから家には来るかと聞いてくれた治くんにはさっき断りの連絡を入れた。こんな心境では会いにはいけない。返事が来ているか確認をしようとメッセージアプリを開こうとしたらちょうど充電が切れてしまって何も表示されなくなった。こういう日に限ってモバイルバッテリーも持ち歩いておらず、どうすることも出来ない。大きなため息が虚しく響き渡る。

辿り着いた駅ではこんな日に限って電車が大幅に遅れていた。滅多に遅れることなんてないのに。スマホもいじれず手持ちぶさたで他に暇を潰す手段もない。遅延のせいで少し混んでいる電車に乗り込み、ようやく最寄駅に着いた頃にはもう十一時を過ぎていた。真っ暗な中、やけに空気の冷えた外へと出てみれば先ほどまでは降っていなかったはずの雨が降っている。


「傘なんて持ってないよ……」


こんなに虚しい独り言なんて言いたくなかったが、ついつい口から漏れてしまった。諦めて一歩踏み出す。ザーザーと意外にも強く降り注ぐ雨が全身を濡らしていった。本当に最悪だ。もう何度吐いたかわからない大きなため息を再度吐き出し今日を振り返ってみる。珍しく怒られたりミスをしたりはあったけれど、本気で泣くほど辛いことは実はあまり起きていない。とにかく物凄い嫌な出来事があったわけじゃないけれど、それでもここまで数が一度に重なればゴリゴリ精神力は削られて泣きたくもなる。容赦なく降り注ぐ雨に混じって涙が頬を伝った。急いで歩く気力ももう残ってなくて、駅から徒歩五分ちょっとの場所にある私の住んでいるアパートに辿り着いた時には、もう服が絞れるほどに全身がびしょびしょだった。


「あちゃ、一歩遅かったか」


家の扉を開ければ玄関で傘を片手に靴を履く治くんがいた。「めっちゃ濡れとるやん」とびっくりしたように言って、何のリアクションも取れず驚きで黙り込む私を気にもせず脱衣所に駆け込みタオルを取ってきた彼は、玄関に立ち尽くしたままの私の髪の毛をわしゃわしゃと拭き始める。


「連絡しても返って来ないし、電話しても繋がらんし、心配で家来てみたらまだ帰っとらんからこれから駅まで迎え行ったろ思ったんやけど、タイミング悪かったな」


未だ何も言葉を発さない私の腕を引いてリビングへと向かう。本当に彼も今ここに来たようだった。朝時間がなくて脱ぎ捨てたままの服が部屋に散らばっている。髪の毛は濡れてペシャンコだし、メイクもきっとほぼ取れてる。もう付き合いも長いからすっぴんを見られることに抵抗はないけれど、それでも流石にこんなに見窄らしい姿は見られたくなかった。精神が落ち込んでいると何もかもがネガティブに感じられてしまって嫌だ。それでもこうしてここへ来て、私を迎えに行こうとまでしてくれていたらしい彼にせめてお礼は言いたいのに、口を開いて出てきたのは言葉にもならない嗚咽だった。


「あーあー、どしたんそんなに泣いて。泣くほど嫌なことでもあったん?それとも俺と会えて嬉しい?」


どうせなら後者がええなぁなんて言いながら私のジャケットを器用に脱がせ、シャツのボタンも全て外し部屋干ししていたままのTシャツをすっぽりと被せる。ストッキングを引っ張り、「めっちゃ破けとるやん」と面白そうに笑った彼は、どうせもう捨てるやろとそれを引き裂きスカートも下ろして、ベッドに座らせた私にせっせと部屋着のズボンまで履かせてくれた。


「……治、くん」

「なん?」


ありがとう、ごめんねと言いたいのにやっぱりうまく言葉にできない。詰まりながらも何とか口に出せば、「ええよこんくらい」何て言ってドカッと私の横に腰掛けた。ポンポンと背中をさすられ、その手のひらの温かさにさらに涙が出る。ケタケタと笑った彼は、何があったん?と眉を下げて私の顔を覗き込んだ。今日起こった一つ一つをゆっくり話していけば、最初は真剣に話を聞いてくれていた彼も段々と「まだあるんか」「はー、占いも何もかもきっと今日は最下位やで」「逆にそんな一片に起こるのすごない!?」とむしろ愉快そうにしていた。


「ごめん、こんなしょうもない理由で泣いてて」

「しょうもないそういうのが意外と一番心にクるやん。きっと今日だけやなくてもっと前から蓄積させてたストレスとかも重なってもうたんやって」

「そうかなぁ」


それにしても最悪な日だった。そう呟けば本気の声やとまた面白そうに笑われる。ぐずぐずと止まらない涙を必死に止めようと頑張ってみるけど、一度壊れた涙腺はそう簡単に元には戻ってくれない。ポーンと音が鳴って時計が日付が変わったことを告げた。


「もしかしたらそのたくさんの最悪はむっちゃ最高って日が来る前触れかもしれんよ」

「そうだといいなぁ」

「……俺がその最悪な記憶塗り替えて良え?」


真っ赤になった目元を優しく拭ってくれた治くんは、そのまま私の頬に両手を添えた。自然と目線が交わる。そのままいつものようにキスでもされるのかと思って目を瞑ろうとした時、何の前触れもなく「結婚しよ」と、彼はそう呟いた。驚きで思わず目を見開いたと同時に、そっとキスが落ちてくる。唇に集まった熱がじんわりじんわり全身に広がっていく。


「お、涙止まった」

「え、え……!?」

「あ、また泣いた」


ぼろぼろ。先ほどとは比べものにならないほどに大粒の涙が頬を伝う。止まることを知らないそれは私の頬と治くんの手のひらをどんどん濡らしていった。


「ホントはも少しちゃんとしたとこで言おうかなーとかも思っとったんやけど、今言いたくなったわ」


髪の毛もびしょびしょで、メイクも落ちてて、目も真っ赤に腫れてて、治くんが着替えさせてくれたTシャツの襟は少しずれてて、濡れた服も朝脱ぎ散らかした服も床に散乱している。こんな姿で、こんな場所で、こんなタイミングで。


「うわむっちゃ泣くやん!」

「だって〜……」

「あー、擦ったら腫れるで。もう腫れとるけど」


笑いながら私に触れるその指先はとっても優しかった。自分で言うのもアレやけど、むっちゃ良え日になったやろ?と腫れて少し痛む私の目元にキスを落とした治くんにゆっくりと頷く。返事は?と言いながら額を合わせた彼の首元に腕を回してこっちから唇を合わせた。


「絶対忘れられない最高の日になった」

「そりゃ良かった。これからは泣きながら帰ってくるナマエ出迎えて笑顔に変えるのも俺の仕事や」

「……私も。いつでも頼ってね」

「心強いわ。でも俺が泣いて帰る日あるかなぁ」


涙はやっぱり止まらなかった。笑いながら「明日顔ボロボロや」なんて言って彼は腫れた目元に優しく触れた。その指先に自分のそれをそっと重ねる。

どんな最悪だって最高に変わる。彼といればきっとこれからも、そんな日々を過ごしていける。


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