道を云はず:天童

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パリの二月は寒い。東京よりも若干気温は高いものの、体感気温はうんと冷たく感じる。夕暮れの少し影のあるくすんだブルーを見上げながら、漂う白花色の雲を目で追った。

ここでの生活も、もうすぐ二年が経とうとしていた。

大学を出て、憧れだったフランスの企業に就職した。最初は慣れない言語に苦労しながらも毎日楽しくやっていたと思う。半年が経ってやっと少しずつこっちでの生活にも慣れてきた時、職場の人間関係や、どうしたってぶち当たってしまう感覚の違いがストレスになってきてしまった。

ゆっくりと歯車が狂い出すように次第に何もかもが上手くいかなくなる。それでも踏ん張って一年ちょっと頑張ってみたけれど、先月末、耐えきれずついにその会社を辞めた。


「あれ、晶子ちゃんじゃんヤッホー」


愉快な声を出しヒラヒラとカウンター越しに手を振ったのはここの店のオーナーである天童さん。パリに来て数ヶ月が経った頃、たまたま立ち寄ったこのお店で買ったチョコレートがとても美味しくて、それから今でも定期的に通っている。


「最近元気ないネ」

「……そうですかね」

「甘いもの食べて元気だしな〜。ここのチョコレートは世界一ダヨ!知らんけど!」


そう言って、天童さんは私が購入したチョコレートとは別に数個プラスして箱へと詰めてくれた。異国の地でこうやって母国の言葉で話ができる機会なんてあまりない。その相手が例えお気に入りのお店のオーナーさんでも、当たり障りのない会話だとしても、こうやって話せて温かくしてもらえるのはとっても嬉しい。

天童さんはとても気さくな方で、顔を合わせる度に良くしてくれるのだ。チョコが美味しいというのが一番だけど、それが嬉しくて通っているというのも理由の一つだったりする。

家に着くまで待てなくて、歩きながら箱からチョコを一粒取り出して口に入れた。緩やかにとろけていくチョコレートは今日もたまらなく美味しい。コロコロと舌の上でチョコを転がしながら綺麗な街並みを見渡す。傍らを流れる巨大なセーヌ川が、夕陽に照らされ淡いオレンジ色に揺れていた。

フランス、パリ。

幼い頃から焦がれていたこの場所で、一人虚しく地面に伸びた影を見下ろすことしか出来ない。虚しさに押し潰されながらノートルダムの鐘の音を耳に入れ、ずっとずっと夢に見ていたロマン溢れる大きな大きな街を歩く。この壮大さに押しつぶされてしまいそうだ。憧れに手を伸ばそうとしても、月の光のように朧げなその姿を手に掴むことはできない。


「あれ、晶子ちゃんじゃん?ヤッホー」

「……天童さん」


どうしてここに。という声は先に話し出した天童さんの声にかき消された。「なァんかジメジメした暗い塊が歩いてるな〜と思ったら晶子ちゃんだった!」なんて、少し失礼にも聞こえることを言いながら大きな体をくねらせて、顔を覗きこみながら「辛気臭〜そんなんじゃキノコ生えるよ?」と顔を歪めて私の横へと並ぶ。


「お仕事上がるの早いんですね」

「今日はトクベツね!バレンタインっつってもこっちじゃ別にチョコ関係ないし」

「バレンタインだからってこっちではチョコレートあげませんもんね」

「そうそう、ビックリだよね」


天童さんは沈む私とは正反対にルンルンという効果音が聞こえるかのように楽しそうに歩く。「こんな日に一人だなんて、随分寂しそうだねぇ。もしかしてそれで落ち込んでんの?」と口に片手を当てながら、天童さんが少し馬鹿にした様子でこちらを見てきた。


「違います!……普通に悩み事です」

「なになに、人生相談?俺が乗ってあげるヨ」

「天童さんに話しても笑われそうだから大丈夫です」

「俺への信頼無さすぎてウケる!」


何が面白いのかはわからないけど、楽しそうに手を叩きながら笑い出した天童さんは「あっそうそう」と鞄をゴソゴソと漁って、中から一つのブーケを取り出した。淡い赤と白の包装紙に包まれたそれの中には、一本のチョコレートで作られた薔薇が入っている。


「ハッピーバレンタイン!」

「わぁ、これお店で売ってたやつですか!」

「フランスではバレンタインには薔薇を送ったりすんでしょ?だから作ってみたんだよね。晶子ちゃんにもあげる」

「ありがとうございます」

「これは売れ残りを回収した一本」

「……その情報はいらなかったです」


天童さんの作るチョコは天下一品だ。とても嬉しい。先程もオマケのチョコを何個も頂いてしまったので申し訳ないとも思うけれど、それでもこの人のチョコがまた食べられると思うと、落ち込んでいた気分も少しずつ上がってくる。

美味しいものを食べると悩みも吹き飛んでしまうとはよく言ったものだ。食べ物への知識がたくさんあるわけでもないし、特別グルメなわけでもない。なのでこの店のこれがこうだと私なんかが評価を下すなんてことは出来ない。でもチョコレートだけは幼い頃から大好きでそれなりに食べてきた。だからといって好きなだけで詳しくはないから正当な評価なんてものは決して出来るわけでは無いけれど、それでもそれなりに舌は肥えていると思う。

よくふざけて俺のチョコレートは世界一だと天童さんが言っているけれど、私はあながち間違ってはいないと思っている。他の人の基準ではわからないけれど、私の中で一番美味しいチョコといったら天童さんのお店以外ありえないからだ。

私の世界では彼の作るチョコレートが一番なのだ。思わずふふっと笑い声が漏れた。それを聞いた天童さんがニッと大きく口角を上げる。


「この後はヒマ?」

「特に何もないですけど」

「じゃあチョット付き合ってくんない」


そう言って彼は私の手を取ってピョンピョンとスキップをするように歩き出した。突然のことに驚きながらも駆け足気味についていく。


「待って、天童さん!早い!」

「ダイジョーブ!転ばないから!」

「そういう問題じゃないんですけど!」


くるっと首だけで振り返った天童さんは、目を細めて「これから晶子ちゃんの悩みを吹っ飛ばしてあげる」と楽しそうに笑った。

パリの足元を彩る硬い石畳がコツコツと軽快な音を二つ響かせる。最後の力を振り絞って茜色に燃える横から差し込む夕陽が、歴史ある建物たちの隙間から零れ漏れて、天童さんが歩く目の前の道を真っ直ぐに照らした。


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