L’Amour est un sentiment
qui vous libère.-3-
雨上がりの夜は流石に冷え込んでいて、もう春も終わりの頃だというのに指先が少し悴む。私よりも二回りほど大きな天童さんの手のひらが包み込んでくれているから温かさを保っていられることに感謝をしつつ、さっきまで顔を見せなかった月がチラチラと姿を現し始めたことに気づいた。
「……あ」
「どした?」
「傘、置いてきちゃいましたね」
店を出るときには完全に雨は上がっていたのですっかり忘れていた。天童さんは「いいよそんなの。置き傘置き傘ー」と言いながら足を動かし続ける。
「もうこんな時間だっていうのに、結構人がいますね」
「まだまだ夜はこれからってこと!」
一日の終わりも近いと言うのに天童さんはやけに元気だ。いつも元気だけど。この時間はもう教会の鐘の音は聞こえてこない。代わりに広場で演奏されている優雅な音楽が風に乗って聞こえてくる。コツコツと石畳を叩く二つの音がその音色に重なるように響く。天童さんの肩越しに僅かに見えたエッフェル塔が、この街が暗闇に飲み込まれてもいつだって目印になるようにと綺麗なライトで彩られていた。
天童さんの家へと向かう道の途中、少しだけ街灯が少なくなる箇所がある。僅かに溢れた光がほのかに明るさを届けるだけ。
カーブに沿ってその道を歩く。ここを歩くとまるでどこかの時代にタイムスリップしてしまったかのような錯覚に陥るのだ。世界を代表する古都。この場所はずっと昔から大きく姿は変えずにその荘厳さを守り抜いている。
「なんか楽しそー」
「楽しいです」
「歩いてるだけなのに?」
「天童さんとなら歩いてるだけでも楽しいです」
「金かからんすぎ」
少し馬鹿にしたように天童さんが笑った。それには返事をせずに、拗ねたような表情を向ける。悔しいけど言い返せないからだ。特別なことをしなくたって、大好きな人と小さな頃から憧れだったこの街をこうして歩けるだけで私は満足だから。
「うおっ、寒ッ」
道のカーブに沿ってビュウッと音を立てて強い風が通り抜けていった。前髪が持っていかれて慌てて繋がれていない左手で直す。慌ただしい私の行動を可笑しそうに見ていた天童さんが、その左手にそっと触れた。
「冷た」
「今夜はやけに冷えますね」
「にしても冷えすぎ」
彼によって温められた右手と比べると、まるで別の人の手なのかと疑うほどに冷えている。大通りとは違って人影もない。誰もいない道の端っこで手を重ね合わせた私たちは、近くにいる相手の顔はわかるくらいの僅かな明るさのもと黙り込んで見つめ合った。
そっと、絡めた指先を撫でられる。彼の長くて骨張った綺麗な指。大雑把な性格とは裏腹に、その手はとても繊細なチョコレートを作り上げる。温度も、分量も、集中力も、少しでも狂ったら味が全く変わってしまうような繊細な作業。ショコラティエとして活躍する、彼の大事な大事な手。
「なかなかあったまんないね」
「ですね」
冷え切っていた左手は彼に包まれてもなかなか本来の体温を取り戻さない。重ね合わせた手のひらに視線を固定しながら、天童さんは言葉を続けた。
「さっきのあれさ、その場の勢いじゃなくて本気で受け取ってもいいわけ」
「全部本気なので、良いですよ」
「どういう意味かわかって言ってる?」
「……天童さんが言った通り、逆プロポーズとして受け取ってくれて良いってことです」
「結婚しようって?」
「はい」
見つめ合った私たちはそのまま無言で視線を絡めた。重ねた手のひらから熱が伝わってくる。お互いの体温を共有して、僅かな明かりの下で息を飲む。その音さえも響き渡る。
「結婚してください」
自分の好きな場所で、好きなことをする。私たちはそこが偶然お互いの隣だっただけだ。奇跡のようで奇跡じゃないそれの尊さを噛み締めた。さっき食べたホワイトチョコレートの味の記憶がまだ舌の上に鮮明に残ってる。
「天童さん、」
結婚しませんか、という二度目のその言葉を発することは出来なかった。ふわっと落ちてきた唇が全てを飲み込んでいく。大きな背中を器用に曲げた天童さんの肩越しに、雨に濡れ色濃くなった街並みが暗闇に沈むように淡い光の中に溶けていった。ゆらゆらと世界が揺れる。涙で作った幻想的なフィルターが、まるで幼い頃に憧れながら見ていた映画のワンシーンみたいに視界を演出する。
「なーんか、告白の時もプロポーズも、いっつも先越されてんだけどー」
少しだけ不服そうにそう言った天童さんは、でも、あの日も今日も、先に仕掛けたのは俺なんだよネ。なんて言って私の左手にリップ音を奏でる。
「……え、これ、いつ?」
「今さっき。緊張しすぎて気づかなかったー?」
知らぬ間に通されたシルバーに目を見開いて、にんまりと笑う天童さんの顔を見上げた。
「俺はもう晶子ちゃんじゃないと満足なんてできない」
彼は満面の笑みを浮かべて私を見下ろした。
天童さんは今日もどこか甘い匂いがする。彼に染み付いたその香りですら愛おしく思えた。一度強く抱きしめて、そしてゆっくりと体を離す。二人前を向いて歩き始めた。私の右手と天童さんの左手はしっかりと結ばれたまま。そこには平熱以上の熱が心地よく宿っている。
「天童さん、帰ったら」
「天童さんって、もうやめない?」
「………え……て、さ、」
「おー、見事にパニクってら」
「……覚さん?」
「んー……」
「……何か不満ですか?」
「さんも敬語もいらないんだよねー。今まではいつまでそれでいんだろって面白く見てたケド」
「そうだったんですか?……あ、だったの?」
コツコツと違うリズムで二人分の足音が響き渡る。何も言わない彼の顔を恐る恐る見上げると、笑いを必死に隠すように頬を膨らませていた。
「なんですかその顔!こっちはもう一杯一杯なのに!」
「それがおもしろいの」
「馬鹿にしないで!ひどいです!」
「タメ口と敬語ごっちゃになってら」
まーゆっくり慣れていけばいいよ!と笑いながら彼は到着した家の扉を開けた。ドーゾ。そう言って彼は私を先に玄関へと押し込める。もう何度も何度も訪れたここはもはや自分の家のようにも感じられるほどだ。いつものように靴を脱いで上がった瞬間に、勢いよく壁際に追いやられる。
「待、って……天童さっ、ん」
「ちがうでしょ」
名前で呼べと言いながら、肝心なその言葉は発させてくれない。隙もなく重ね合わされる。甘ったるくて息をするのもしんどくなるようなキス。倒れ込むように彼に体重をかけた。肩で息をする私に、彼は余裕そうに声をあげて笑う。
「ずっと一緒にいよーね」
「うん」
「晶子ちゃんから言ったんだから、絶対だよ」
「うん」
まるでわがままな子供同士の約束のよう。手を引かれ部屋の奥へと進む。彼は鼻歌を歌いながら、部屋の湿気った空気を入れ替えるように窓を開けた。静まり返ったパリの街が明るくなり始めるまであと何時間だろう。
「て……さ、覚、っさん」
「……何?」
「……今笑うの堪えたでしょ」
「そんなことねーし」
「嘘。肩震えてるもん」
「そんなことねーし」
ブフッと吹き出すようにやっぱり笑い始めた覚さんの肩を軽く小突く。おもしれーとお腹を抱え始めた彼に私はまた頬を膨らませながら正面からしがみついた。
意外にもシンプルで、でも物が少ないというわけでもない、センスの良い家具の配置。その部屋の中心で空間を持て余すように二人重なり合った。
ここは、私たち二人が生まれ育った国ではない、フランスの首都、パリ。花の都なんて呼ばれる世界的に有名な都市だ。その土地で私たちは出会って、そしてこうして永遠を誓う。
「……私、ここに来て良かったです」
「そう?」
「……あの時諦めて帰国しなくて良かった。天童さんが誘ってくれて良かった」
体温でゆっくりしっとり溶けていって、味覚も嗅覚も支配するようにゆったりと体の中に流れていく。小さな一粒が信じられないほどの大きな満足感を持っていて、心の底から甘くほろ苦くとろけるような甘美な気分にさせる。口に残る余韻さえも心地よくていつまでも忘れられない。憧れの街で、心を動かされた映画のようなワンシーンにも勝るとも劣らない幸福な時間を作り出す。
「この場所が好きです」
「ウン。俺も」
彼の作りだす魔法にかけられて、私はこれからも、楽園とも呼べるような彼の居る場所で、幸せな夢を見続けるのだ。