道を云はず:天童

Je me rappelle
de notre premier baiser
comme si c’était hier. -1-




優しいシャワーのように降り注ぐ静かな雨が、街の色彩をいつも以上に鮮やかに映した。どこで耳にしたセリフだっただろう。雨の日のパリが一番美しいと誰かが言っていたのを覚えている。

少しくすんだ空の下でトリコロールが湿気を纏った風にはためく。普段より濃いブラウンの石畳に打ち付ける雨粒が、雰囲気の良い映画の始まりに奏でられる淑やかなジャズのようにロマンティクにその場を彩った。

この一年間で天童さんとはもう何度もこの場所へ訪れた。初めて来た日、ここで彼に自分の気持ちを打ち明けたのだ。その日もこうして唇を合わせて、私たちはお互いのことを想いながら自身の幸せを優先させるように恋を自覚した。

雨だというのにセーヌ川のほとりにはポツポツと人の影がある。地面に溜まった水の鏡がその姿を映し出して、幻のように儚く揺らした。

一本の傘から滴り落ちた雫で肩が濡れる。私よりも彼の方が濡れていた。傘を持った天童さんは余った片手で私の後頭部を抱いて、私は彼の代わりに両腕を背中へと回す。しっかりと重なった口元を隠すように傘が傾けられた。深く沈んだそれの端からまた雫が流れ落ちて、私と天童さんを守りながらも濡らしていった。


「そろそろ帰ろっか」

「……まだ、もう少しだけ」

「寒くないの?」

「寒いから、もっとあっためてください」

「……ワガママ〜」


傘を渡され右手を彼の背中から離した。私の背の高さだと、彼が入るようにするには手を上に伸ばさなくちゃならない。でも天童さんが背中を丸めたことでそれをしなくても大丈夫なようになった。

繊細なチョコレートを扱う長くて綺麗な指先が顎に触れる。そのままそっと持ち上げられて、私はまたゆっくりと目を閉じた。背中へと回った大きな腕が私のことを温めるように抱き寄せる。傘に当たる雨粒が祝福する鐘の音のようにこの空間に鳴り響いてこだましていた。

パリの、中心。本当の中心がどこかなんてわからないけど、今この瞬間だけはここだと思える。

この土地にはたくさんの素敵なものがある。素敵な人がいる。道行くその辺の人なんか記憶に残らないくらいに、目に映る様々なものに見惚れてしまう街だ。だから周囲に人がどれだけいようが、その人たちはきっと私たちのことなんて気にも留めないだろう。そしてきっと周りの人たちも同じようにそう思っているから、周りは気にせずありのまま好きに生きているのだ。

それにたとえ誰かが私たちのことを見ていようが、特別気にはならない。私がしたいから、もっととお願いしたのだ。天童さんはそれに応えてくれた。周りにどう思われようと、彼が良しとしてくれたならばそれで私は満足だ。一年と少し前に人間関係や周囲との考え方、日本とフランスの感覚の違いという些細なズレが原因で仕事を辞め、帰国まで検討していたというのに。自分自身の変化に驚きもする。

雨の音が少しだけ弱くなって、空がだんだんと暮れてきた。太陽は顔を出さないけれど、淡い紫に覆われる街並みはまた一段と雰囲気があって綺麗だ。

何度も重ね合わせた唇を名残惜しくもゆっくりと離す。温まったそこが肌寒い空気にさらされるのが寂しくて、離れていく天童さんの顔を両手で包んで引き寄せた。もう一度触れるだけのキスをすると同時に、パシャっと大きな音を立てて傘が地面に落ちる。まだほんの僅かに降っている霧雨が私と彼を音もなく静かに濡らした。

見上げた天童さんの瞳は私をしっかりと射止めている。優しそうでいてどこか妖しげで、考えてることがわかりそうでうまく読めない。私の好きな、天童さんの表情だ。


「映画とかでこういうシーンありそうだよね」

「確かに……?」

「見たことないけど」

「私もないです」


ないんかーい。彼がこぼした一言に私も笑いながらもう一度唇を寄せた。何度も何度もまた繰り返す。一体いつになったら満足するのか。果たしてその瞬間は訪れるのだろうか。

傘をさすかどうか迷うほどの霧雨が降り注ぐ中、会話も交わさずただひたすらキスだけを交わす。唇が僅かに離れた瞬間を狙って彼の名前を小さく呼ぶと、うっすらと目を開けた天童さんが、これで最後だと言うようにリップ音を響かせた。


「晶子ちゃん、冷たくなってる」

「濡れてる表面だけです」

「ちゃんとあったまった?」

「もうだいぶポカポカですよ」


ヨッと短い声をあげて傘を拾った天童さんが、もういらないかな?と空の様子を確認しながら傘を閉じた。太陽も月も分厚いグレーに覆われて姿が見えないけど、オレンジ色の街灯に照らされた雨上がりの街はキラキラと輝いて、水溜りに反射した街並みですらも幻想的に映し出してくれた。


「帰る前に少し店寄っていい?」

「残ってるチョコ少し食べてもいいですか」

「ホント好きだよねー」


ケラケラと楽しそうに笑う天童さんの声がパリの空気に溶けていく。好きです。そう言った私に満足そうな表情をして見せた彼が「この一年ずっとそう言って食べ続けてるけど、飽きねーの」なんて試すように聞いてきた。


「その前からずーっと長い間常連客として通い続けてたんですよ。飽きるわけないじゃないですか」

「怒った?」

「怒ってません。事実を言っているだけです」


さっきよりも大きな声で笑いながら、天童さんはゆっくりと大股で歩き出した。彼の一歩は私からするととても大きくて、私は同じ距離を進むのにもっと歩数がいる。でもついていくのに精一杯になるほど速く動かさなきゃならないなんてことにはならない。一人で歩いている時と同じくらいのスピードだ。天童さんは、一人で歩く時の半分くらいのゆったりとした早さで石畳に交互に足を下ろしている。

自分勝手そうでいて、ちゃんと人のことを見ている。遠くで響いた教会の鐘の音に耳を澄ませた。


「好きです」


天童さんも。天童さんんチョコレートも。聞こえるか聞こえないか程度の小さな声だったけれど、しっかりと届いてくれたらしい。とろけるような温かさが胸の中に広まるのを感じながら、頬を緩めた彼に釣られて私も同じ顔をした。

街がセピア色に飲み込まれていくのを見守りながら、店までの僅かな道のりをお互いの片手を温めながら歩いた。違う歩幅で、同じ速度で。


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