ちはやぶる神の斎垣いかきも越えぬべし今はわが名しけくも無し




 千代。千歳。悠久の時。途方もない時間を指す言葉はこの世の中にたくさん溢れている。過ぎ去ってしまえば案外短く、あっという間とも思えて実に儚く曖昧なものにも感じる。浮かんでは消える泡沫。膨大だと思っていてもそれは決して永遠ではなかった。今は今でしかない。ぼーっとしていたら一瞬で過ぎ去る。一年も、十年も、千年も。

 誰も居ない深夜。夜明けを迎える前の一日で一番暗い時間。色付いた紅葉の葉も色なく黒に染まるこんな闇夜に、二人してこんなところにいるのだからおかしな話だ。お互いの呼吸音さえも響く静けさの中、冷え切った指先を温めるように握りあって、彼のポケットに手を忍ばせる。額を預けた彼の胸元のジャケットさえもひんやりとした温度を保ち、肌と肌が触れ合う部分しか温かさを感じられない。

 おもむろに彼の顔を見上げれば、私の動きに合わせ遠くにやっていた視線をこちらへと向けた。彼の焦点がしっかりと私に合って、私のそれもはっきりと彼に定められる。間を通り抜ける風を塞ぐように額と額を合わせた。瞳を閉じて数秒、冷たくて薄い彼の唇が私のそれに重なって徐々に熱を高めていく。長く静かなキスが好き。音もなく行われるそれは、彼と私しかいない世界の中に流されていくような感覚を届けてくれる。春も夏も秋も冬も、四季の全てが一度に襲いかかってくるみたいに思えて、いつまでもその場から抜け出したくなくなってしまうのだ。

 緩やかに離れていくそれを名残惜しく薄目で追うと、フッと力の抜けたように笑った彼がすぐにもう一度優しいキスを降らせてくれる。月が私たちをぼんやりと照らして水面に朧げに揺れた。狭いポケットの中に潜めていた手を取り出し彼の後頭部に回す。冷えた髪の毛が手のひらの表面の体温をじわじわと奪っていく。腰に添えられた彼の指が、ゆっくりと体のラインを確認するように背中へと回されていった。

「・・・月明かりって意外と眩しいんだな」

 月光を浴びる彼の髪が鈍く光る。闇に紛れそうになる中、月影で縁取られたその輪郭に目を奪われゴクリと息を飲み込むと、どうしたのと薄らと口角を持ち上げた彼の落ち着きのある声が私へと向けられた。

「寒いね」
「ほんとだよ。こんな時間に散歩に行こうなんて言い出すのなまえくらい」
「この時間が一番あるがままの自然を感じられるなぁって思うんだ」
「わからなくもないような、わからないような。まぁいろんな音が響いて聞こえるよね」
「そうそう」
「・・・ま、こんなに嬉しそうにしてくれるなら、俺も面倒くさがらずに付いてきた甲斐があったよ」
「倫太郎くんがいなかったら寂しくてここで一人泣いてたかも」
「一人ならこんな時間に絶対外出さねぇから。なに言ってんの。俺が面倒くさがったらなまえも出れないからね」

 ゴンっと少し強く額をぶつけられて鈍い痛みが走る。ぎゅっと目を瞑ったそのタイミングを見計らったように唇に噛みつかれ、無理矢理舌でこじ開けられた。蛇のように侵入してきたそれに口内を支配される。彼の胸元を押し返してみるも、倍の力で引き寄せられてしまって、呆気なく距離が元に戻った。冷たい空気を溶かすように口の端から漏れる吐息が川のせせらぎに混じって辺りに響いている。

「こんなところで」
「誰もいないよ今は」
「だからって」
「いいじゃん」

 悪戯に笑う彼にムッとした表情を向けると、ククッと喉を鳴らすように笑われそのまま強く抱きしめられた。視界が奪われ、彼の温もりに全身を包まれて頭の中がふわふわと現実離れしたようになる。

「・・・倫太郎くん」
「ん?」

 泣きたくなるほどの優しさを帯びた彼の声と表情は、やはり出会った時と変わらず、彼の表現できる全てを駆使して私への感情をしっかりと届けてくれる。じわじわと広がっていくその幸福感と安心感が心地良い。私はこれから先、彼がしてくれたように、してくれているように、自分の全てを使って彼に届けなければならない。彼が与えてくれるものを、私も同じように彼に届けるのだ。時間も言葉も感情も仕草も、その全てを使って。

「何十年後かに離れ離れになったとしても、二百年経っても千年経っても忘れられないようなそんな歌を詠むから、だからまた見つけて。わがままでごめん。絶対、遺すから」
「・・・千年と比べれば短いけど、今の俺らからしてみればすげー先の数十年後の話なのに今からそんな自分勝手に決めちゃうの」
「ごめんね」

 東の水平線がゆっくりと白けてくる。東雲のように澄んだ彼の瞳には、鮮明に周りの景色が映し出され、その中に私も映り込む。闇に紛れていた紅葉たちが黎明の薄明かりに照らされ本来の色を取り戻した。暗くて静かな夜が明ける。

「もうあんな思いするのは懲り懲りって思ってるけど、あんたに直接そんなこと言われたらまた何年でも千年でも頑張るしかないね」

 彼の大きな手のひらが私の頬を包み込む。色鮮やかな世界に二人。透明な川に浮かぶ紅葉の葉のように、ゆらりゆらりと長い時間の中を流れてゆく。

「この会話、また数十年後にもしよう。絶対忘れんなよ。心変わりは許さないから」
「しないよそんなの。絶対ない。倫太郎くんは?」

 ツーっと頬を撫でた指先がクイッと優しく私の顎を持ち上げた。柔らかい眼差しを向けられて、世界が暖かさを増す。

「俺以上に一途なやつなんていないよ」

 唇と唇が触れ合う直前、そう小さく囁かれた。彼の作り出す感情の波が私の心を攫っていく。帰ろうか。そう言って差し出された手を強く握りしめる。絶対に離したくない。今後なにがあっても。世の中の常識も現実も全部置き去りにして、私はこの先もずっと彼とともに過ごしていくのだ。何度も。

 この、とめどなく溢れ続けて収まることのない怒涛の感情と高揚感には、一体どんな言葉を当て嵌めたら良いのだろう。名前を持たない何かに言葉を探し当てはめるという行為を、私たちはいつの時代も続けてきた。今も昔も、目にした景色も抱いた感情も、たった三十一字の短い言葉にまとめ上げて、その少ない言葉たちに幾千もの意味を持たせ続けてきた。

 それをいつまでも追求し続けていくことが、私に課せられた課題であり生き様であり、彼と私を時空を超えて繋ぎ止める唯一の方法なのだ。


◆◆◆◆◆◆


 彼女に出会ってからもう何年が過ぎ去っただろう。出会ったその瞬間をどこにするかで、随分とその年数が変わってくる。なまえの手のひらをしっかりと握りしめた。もうこの温度も柔らかさも、感触のなにもかもがしっかりと俺の体に染み込んで、頭に記憶されている。ゆらゆらと微睡む黄昏時。あの世とこの世が行き交うこの時間帯に、二人並んで柔らかく陽の匂いがするあたたかな布団に寝転がる。

『この膨大な年月の中で溜め込んできた気持ち全てを伝え切るためには、人生は短すぎる気がするね』
『また千年後に会ったらいいよ』

 随分と前にしたそんな会話を思い出した。俺はもう二回目なんて懲り懲りだと嫌な顔をして見せた。待つのも、待たせるのも嫌だ。でも一番嫌なのは、やっぱり彼女に会えないことなのだと心の底から強く強く思う。

「・・・起きてる?」

 別世界に誘われつつあった彼女を無理矢理引き止める。ゆったりとした動作でこちらを見たなまえは、静かに口角をあげて、「起きてるよ」といつまでも変わらない春の日差しのように柔らかく優しい声を出した。

 重い体に力を込めて彼女との距離をゼロにする。向かい合ってピッタリとくっつきあった俺たちの間には、阻むものなんて何一つ無い。ゆっくりと回された腕に応えるように彼女の頭を引き寄せて、僅かに聞こえる小さな呼吸音に耳を澄ます。名前を呼ぶといつものようになまえが静かに顔を上げた。この瞬間を、何年経っても気に入ってるんだ。

「あの時の会話、覚えてる?」

 静寂な空間に彼女の声だけがこだまする。この世の不浄な存在を一掃するように俺の心の中に染み入って、全てを洗い流していく。力ない手のひらが俺の頬に添えられて、窓の外から差し込んだ金色の光が、スポットライトのように俺たちを照らした。その灯りでぼやけた輪郭を確かめるように彼女の指先が俺の頬をなぞっていく。そっと目を瞑れば、二人で溶け合うように密着したそこから、お互いの体温が交わり合っていった。

「覚えてるよ」

 境目のわからなくなった俺たちには、もう時間も時代も常識も何もかもが意味のないものとなって、恐れるものなんか何一つとしてない。

「きっとまた会えるよね?」
「・・・どうだろうね」

 少し意地悪げに笑ってやると、ムッとした表情をしながら彼女が視線を上げる。また会えるかどうかは、なまえ次第だね、なんて言葉を続けると、困ったような顔をしながら「プレッシャーだなぁ」と頬をかいた。

「ちはやぶる 神の斎垣いかきも 越えぬべし 今はわが名は 惜しけくも無し」

 何も惜しくはないから、神の垣根さえも超えてしまおう。

 なんて、そんな歌を歌ってくれるとは思わなかった。俺の目を見てしっかりとそう言の葉を届けたなまえは、にっこりと花が咲くように笑った。

 ゆったりと起き上がってそっと手を伸ばす。その先には歌集がある。しっかりと保管されたそれを手に取って、二冊の歌集のうちの綺麗な方の最後のページに彼女が口にしたそれを書き連ねていく。もうボロボロの俺の一冊目と、年季は入っているけれど新しい彼女の二冊目。その両方を重ねてしっかりと風呂敷に包んだ。あの花の押し花も新旧二つ、しっかりと添えて。

「私と一緒に生きてくれた倫太郎くんに捧げる歌」
「想像してた以上に強気で気に入ったよ」
「でも、やっぱり私が一番倫太郎くんに送りたい歌はずっとずっと変わらないな」

 俺の運命を変えてしまった彼女の歌は、今でもこの胸に大輪の花を咲かせたままそこにある。初めて彼女の歌を目にした時の、あの衝撃と感動は手にとるように思い出せる。俺の細胞に植え付けられたその記憶は、何年が経過しても、時代が変わっても、生まれ変わっても忘れることなんてできやしなかった。

 包んだ歌集を丁寧にそばに置いてあった箱の中へとしまっていく。ゆっくりと蓋を閉じた。その表面をなまえが静かに指で撫でる。その指先に自分のそれを重ねてそっと握った。

「私のことまた見つけてくれる?」
「見つけてあげるから、なまえも頑張ってよ」
「もちろん、また気づいてもらえるように私も頑張るよ」

 視界に一輪の花が咲いた。こんなところに咲いているはずはないのに。ポツポツと数を増やしていくそれが部屋中に広がって俺たちを取り囲んだ。紫色の独特な花びらをふわふわと気持ち良さそうに揺らしている。鮮やかな視界は黄昏の空も初夏の鮮明な青に変え、冷えた空気さえも暖かくした。包み込むような日差しの中で、ほととぎすが夏を告げるように高らかに歌い出す。

 彼女に出会ったことで変わってしまった俺の世界は、それはもう言葉に出来ないくらいの明るさを放ち、目に映るもの全ての彩度をあげた。四季の移ろいの綺麗さも、考え方も、何かに熱中し成し遂げる強さも、彼女の言葉が俺に教えてくれて力を与え、そしてここまで来させた。

 姿形もわからないもうとっくに存在しない人に、一方的に想いを募らせ、無理矢理決意を抱くなんて、今考えればよく出来たものだなんて思う。だってそんなこと狂ってないと出来ないだろ。でもきっと俺は彼女のあの三十一字に取り憑かれて、きっといい意味で狂わされていたんだ。だからあんな無茶なことをして、そしてこうして成し遂げて、今ここに二人でいられている。

 苦しいことの方が多かった。良いこともたくさんあったけど、辛いことの方が多い始まりだった。それでも今思い返せば、あの時一人で恋焦がれていた時間も、長い間彷徨っていた時間も、彼女に出会えてからも、後悔することなんて一つもない。

 彼女の言葉に触れた衝撃。彼女に出会えた喜び。彼女と寄り添える幸せ。それがここに至るまでに抱えた悲しみも苦しみも全て一気に吹き飛ばして、またどんなことになったとしても巡り会いたいだなんて、そんなことを思わせてくれる。こんなことをこんな時にでも考えているだなんて、やっぱり俺はどこか狂ってしまったみたいだ。常識も何もいらないから、神の垣根をも超えてまたなまえに出会いたい。

「やっぱり、私がまた倫太郎くんに送る歌はね」

 再びゆっくりと寝転がった彼女の横へと移動する。視界に映る大量の花たちが、俺たちを祝福するように楽しそうに風に踊る。向かい合って両手を握りしめた。この手の感触を骨の髄まで染み込ませるように、自分を構築する全てのものに忘れるなよと言い聞かせる。

ほととぎす 鳴くや五月の あやめ草 あやめも知らぬ 恋もするかな


たった数年だとしても、二百年が過ぎても、また千年が過ぎても、もっと離れてしまっても、透き通るその優しい声で、鮮やかで力強く綺麗で繊細なその言の葉で、もう一度この想いを咲かせてほしい。

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