君がため惜しからざりしさへながくもがなと思ひけるかな




 どこか懐かしさを感じさせる日本家屋。案内されたそこはしっかりとした門構えで、苗字と昔ながらの表札が掲げられている。

 今の時間は誰もいないというので、そのまま家とは別の蔵に案内された。キィっと軋むような音を立て、危なかしげに開いた扉を潜り、少し埃っぽいそこに足を踏み入れる。パチっと取り付けられた電気をつければ、ほの明るく空間が照らされ、何だか時代劇のセットのようにも感じた。

 一歩進むたびにギシッと軋む床に慣れない。彼女は部屋の隅にひっそりと置いてある年季の入った箪笥の引き出しを開けた。その中から風呂敷に包まれた一つの箱を取り出し、そっと腰を下ろす。二人並んでその風呂敷を解いた。箱に書いてある字は崩されすぎていて俺には全く読めない。開けるよ、と小さく呟いた彼女の声にゆっくりと頷く。箱の蓋を開けると、さらに尺三巾の小風呂敷に包まれた薄い冊子のような物が出てきた。

「これ?」
「うん。角名くん、開けてみる?」
「うん」

 そっと受け取った軽いそれは、包みに隠されてまだ姿を見せてはいない。左隣にいるなまえさんの顔を一度覗くと、その目線に気が付いたのかフッと顔を上げてにっこりと笑った。

「・・・・・・」
「・・・・・・? どうしたの? 開けないの?」
「いや、」

 手の中にあるこれを目にした時、記憶の中にいる俺はどんな反応をするんだろう。こんなに緊張することが今までの人生であっただろうか。割と何でもなるようになれと思いながら生きてきた。今までのどんな試合だって、ここまで心臓がはち切れそうになることなんてなかったのに。いつまで経っても動かない俺の手の甲に、ふわりと手のひらが重ねられる。ひんやりとした蔵の中の気温とは違う温かなその熱は、早鐘を打ち鳴らす俺の心臓を徐々に落ち着かせていった。

 そっと包みをめくる。布の擦れる音でさえも、現実世界から隔離されたように物音一つしない静寂なこの空間にはよく響いた。少しだけ見えたその表紙の色に微かな懐かしさを覚える。一部分だけ見てもわかるその古さに、これがどれだけ長い間ここでこうして大切に扱われてきたかがわかるような気がして、息が詰まりそうになった。

 ふぅーっと長い息を吐いて、ジッとそれを見つめる。寄り添うようにしてポンっと優しくなまえさんの手が背中へ充てがわれた。

 ハラっと手のひらから最後の包みが離れる。完全に顔を出したそれは、少しでも雑な扱い方をしたらすぐにでも破れて壊れてしまいそうなほどに古い代物だった。所々破けたり、少し虫に食われてしまっている。表紙に書かれた文字は掠れて薄くなり、そして少しの埃で汚れていた。

「・・・・・・どう?」
「懐かしいな、なんか、信じられないよ」
「中身覚えてる?」
「もちろん」

 ゆっくりと、気をつけながらページをめくる。薄い和紙の表面がざらっとした感触を指先に伝えた。そこに並んだ文字たちをしっかりと目に収める。

 思い出す。あの日々のこと。ただつまらないと思いながら毎日をぼーっと過ごしていた。特に何にも興味を示さず、何に対しても諦めがち、というよりも逃げていたの方が正しいかもしれない。

「角名くん?」
「・・・・・・ごめん」

 黙り込んだままの俺を心配するように俺の顔をなまえさんが覗き込む。その時、冊子の間に挟まっていた押し花がしゅるりと滑って膝の上に落ちた。それをなまえさんが拾うのを瞬きもせずに眺める。その仕草を目に焼き付けるように。縫い付けられたようにそこから視線が動かせない。

 ジッとのその花を見つめたなまえさんが、そのまま俺の方へとそれを差し出す。ゆっくりと、ゆっくりと近づいてくるそれに俺の指先が触れた時、パチンと何かが弾ける感覚がした。驚いたようになまえさんがその手を素早く引っ込める。

「なんだ今の」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・なまえさん?」

 先ほどとは反対に、今度は俺が彼女の顔を覗き込む。なまえさんは混乱したような表情で俺の手元にある冊子を見つめ続けている。キュッと下唇を噛んで、神妙な顔つきをしながら、目線は上げずに俺の服の端を掴む。ここからだと伏せられているようにも見える彼女の揺れる睫毛が顔に影を作った。

「大丈夫? 体調悪いとか」
「・・・・・・違う」
「え?」
「違くて、角名くん、あのね」

 ゆらゆらと揺れる彼女の瞳は、不安定というよりも混乱しているようだった。少しずつ頭の中を整理するようにゆっくりと口を開く。紡がれるそれは、俺の口からは伝えていないはずの俺の知る昔の彼女の情報で、俺でさえ知らない彼女のことだった。

「私は、私のやりたいことを優先して宮中に入った。最後までその考えは崩さずに覚悟を決めて、そこで働いたの」
「・・・・・・え?」
「来世は、他の何も考えられなくて、物事の分別もつかなくなるくらいに、全力の、恋がしたいって、思って」

 なまえさんが顔を上げる。しっかりと視線があった。空気さえも邪魔に思うくらいに、なまえさんと俺しかこの空間には存在していないような不思議な感覚になる。遠くでほととぎすの鳴く声が聞こえた。

「ほととぎす、だよね? この鳴き声」
「うん。そうだと思う」
「こんな時期にどうして」

 ほととぎすが鳴くのはこの季節ではない。春の終わり、夏の始まり。二人して顔を上げて、隙間からわずかに漏れる陽の光の方へと視線をやれば、そこからもう一度わずかにその鳴き声が聞こえた。そこからまた彼女の方に目を向ける。ふわっと特徴的な匂いが鼻腔をくすぐった。俺を見上げたなまえさんの瞳にはうっすらと膜が張っていて、唇を小さく震わせている。細い喉がゴクリと音を立てる。

時鳥ほととぎす 鳴くや五月さつきの あやめ草 あやめも知らぬ 恋もするかな」

 なまえさんがその歌を口に出すと同時に、額を押さえながらふらりと体を傾けたのを慌てて支える。腕の中にすっぽりと収まった彼女は、震える声で「思い出した」と小さく告げた。

「えっ」
「思い出した、私も、全部」
「嘘、ほんと?」
「私は来世に願ったの。こんな恋が次の人生ではしたいって。・・・・・・角名くん」

 ガシッと俺の腕を握りしめた彼女は、そのまま大粒の涙を流して頭を胸元へと預けてくる。体を少し移動させて彼女の肩をしっかりと抱いた。床に置いた冊子がぱらぱらと捲れる。風なんか吹いてないのに。そしてあるページでピッタリと止まった。そこには先ほどなまえさんが口に出した、俺が初めてなまえさんに惹かれた、あの歌が載っていた。

「・・・なまえさん、の、周りに、あやめの花が咲いてる」
「えっ? 私には見えないよ」
「え、うそ、見えない?」
「ええ?」

 キョロキョロと二人して自分の辺りを見回してみる。もう一度なまえさんに話しかけようとそっちを向けば、そこにはもうあやめの花は咲いていなかった。さらに謎が深まったような表情をしてお互いに向き合う。しばらく無言の時間が流れて、接触の悪い電球がぼぉっと安定しない明るさでゆらゆらと俺たちを照らした。

「ふ・・・はははっ」
「こんな床に花なんか咲くはずないじゃん。しかも季節全然違うし」
「変なの」

 二人で大きく笑い合った後、そういえばさと俺が零した一言に、なまえさんは「ん?」と反応する。楽しそうなその表情に釣られるように口角を上げると、なまえさんもさらににっこりと笑った。

「なまえさんに初めて会った時もあやめの花が咲いてた。まだ咲くには早かったのに。なまえさんが会場に来てくれた時もさ、匂いがしたり、花びらが見えたり、信じてもらえないかもしれないけど」
「でも、私も角名くんと会った時、真っ赤な紅葉がたくさん舞うのが見えたよ。あと季節外れのあやめ、私も見た! たしか角名くんの試合の帰り道で」
「なにそれ、俺たち二人して幻覚見てる?」
「そういう言い方すると怖い」
「・・・・・・やべー」

 俺の手に収められたその押し花は形を綺麗に保ったままこの時代まで受け継がれてきた。いくら押し花は長く保つからってこんなに長い時を越えるのは無理なはずなのに。

「奇跡は起こるんだな」
「起こったんじゃなくて、角名くんが起こしたんだよ」

 そっと持ち上げた歌集を二人で日が暮れるまで眺めた。未来への希望を美しく紡いだ彼女の言葉を俺が見つけ出した。そして、この時代で、今こうして二人揃ってそれを見ている。

 歌は永遠のものだ。誰かが忘れない限り、その存在を消さない限り受け継がれていく。詠む者はその短い三十一字の器に自分の心を目一杯注ぎ込む。楽しいも苦しいも、好きも嫌いも、愛しいも切ないも、全部。

「なまえさん」

 ゆっくりとこちらを向いた瞳の奥に俺が映る。俺の瞳にもきっと同じようにして彼女が映っているんだろう。不思議だ。全部、奇跡だ。あの時はどう頑張っても彼女の残した文字しかこの目に映すことができなかったのに。

「俺は愛がどうとかそんなこと言う性格じゃないし、そういうのはちょっと寒いなとか思うタイプなんだけどさ」
「うん、ふふ、ここでそれ言うんだ」

 大袈裟に感情を言葉にするのはちょっととか、愛ってそう簡単に口に出せるもんじゃないだろとか、タイミング考えないと逆に冷めるだけじゃんとか、そんなことばっか考えてるやつだった。たぶん今でも。けれどなまえさんに長い時間抱いてきたこの気持ちは、恋だなんてそんなあっさりした感情ではなくて、もっと複雑で、離せなくて、綺麗だけど、ある意味ちょっと醜いような、執念にも似た、どうしようもないくらいの、愛だ。

 たとえ誰かにこういう感情を抱いた時が来たとしても、口に出すことなんてきっとないと思っていた。心の中にしまって、態度で示せばいいと。だけど、願いも想いも言葉に乗せて相手に伝わるように残さなきゃならないということを知ったから。それを教えてくれたのはなまえさんと、昔の俺だ。

「愛してる、千年前からずっと」

 物や暮らし方、その時代によって様々なことが変わっても、人の気持ちは変わらないから。時代を超えて受け取ることが出来て、伝えることができる。

 重なり合った唇からお互いの気持ちを伝え合う。一瞬で過ぎていく時間を永遠にする為に。

和歌解説
・君がため 惜しからざりし命さへ ながくもがなと 思ひけるかな
・・・あなたの為なら死んでも構わないと思っていましたが、あなたと逢えた今、考え方が変わって、いつまでも生きていたいと思うようになりました。


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