真夜中、ふと目を覚ました私は、ベッドの脇に置いたベビーベッドにあの子の姿がない事に気がついた。お転婆なあの子は最近、よくベッドから脱走することがあって、私はまたかと思って部屋を探し回った。だが、ベッドの下や戸棚の中をいくら探しても、あの子の姿はない。
 不意に、夜陰に甲高い声が響いた。私は咄嗟に窓に飛びつき、カーテンを開け放った。
 その夜は新月だった。
 蠍座のアンタレスが悪魔の目のように、赤い光を放っていた。
 私は長く壁に掛けたままの剣を取って部屋を飛び出した。攫われたのだと、なぜだか知った。寝静まった学園は墓場のように静かで、私の荒い呼吸がひどく耳障りだった。
「ダルタニアン! ダルタニアン、どこだ、返事をしてくれ!」
 呼ぶ声だけが韻々と響く。夜闇に鬱蒼と森の影が踊った。海からの風は塩気を帯びて金臭く、血の臭いを思い出させた。私は島を彷徨った。前庭、校舎、ラ・ヴォリエル、どこにも彼女の姿はなかった。ロシェルの牢へも行き、牢番のパトリックに手分けして探して貰いながら、私はグリモーの森を抜け、バッキンガム塔へ向かった。
 塔の下は闇に包まれていた。点けていたカンテラの明かりが急に消え、私は驚いて燃料を確かめた。果たして、燃料はまだ充分に残っていた。だが、振っても叩いても、カンテラはうんともすんとも言わなかった。
 私はカンテラを置き、あの子の名を呼びながら辺りを見回した。靴の先に硬いものが当たり、前へつんのめる。塔の階段だった。よろめき、手をついた私の頬を生温い風が掠めた。
 扉が開いている。私は何かに引き寄せられるように中へ入った。
 塔の中もまた、明かりが消えていた。私は壁伝いに手探りで階段を上った。ブルボン朝時代の装飾が成された塔の内部は、壁や柱のあちこちに複雑なレリーフが施され、それに指を引っかけながら、私は塔の上を目指した。やがて、螺旋階段の頂上が見え始めたころ、出口とおぼしき辺りにぼんやりとした明かりが見えた。私は疲れを忘れて駆け上がった。
 闇に慣れた目を、蝋燭の光が射た。
 眩しさに細めた私の目に、奇異な物が映った。
 黒い翼。
 どんな鳥よりも大きく美しい漆黒の羽根が、その部屋の真ん中に立つ人物の背から生えていた。夜を切り取ったようなその羽根は南洋で採れる黒真珠のように、光の加減で複雑な色を閃かせた。
 悪魔。
 目を惹きつけて放さないほど魅力的で、かつ禍々しい後ろ姿に、それがそう呼ばれるものだと、私は直感的に知った。人智を越えて美しすぎる物に、人は触れてはならない。それはすなわち禁忌だ。破滅をもたらす災厄なのだ。
 沈黙を破って、甲高い泣き声がした。私ははっとして悪魔の手元を見遣った。綿毛のような髪をした小さな子どもは、火がついたように泣き叫んだ。
「ダルタニアン……!」
 私の声に、悪魔は振り返った。
 その美しさに、私は息を飲んだ。
 額の両脇から、雄牛のような艶やかな角が伸びている。瞳と唇は極上の紅玉のような深く眩い真紅だった。
「カステルモール」
 悪魔は微笑んだ。
 声すら魅惑的だった。
「礼を言おう。この祝すべき日の贄を齎してくれた事に」
 悪魔が片手を掲げた。
 そこにあったのは見たこともないほど大粒の、ダイヤの首飾りだった。太陽の欠片を連ねたようなそれを、悪魔は中空に掛けた。なんの支えもない空間に、首飾りはぴたりと静止した。
 蝋燭の明かりに、それが真昼のように輝く。
 その一瞬の隙に、私は部屋へ飛び込んだ。悪魔の手から我が子を奪い取ると、猛然と階段を駆け下りた。ほとんど転がり落ちるようにして下る背中を、悪魔の哄笑が追いかける。私は必死で逃げた。
 這々の体で表へ出ると、地響きを立てて塔の扉が閉まった。黒い茨が立ち上り、瞬く間に塔を覆う。ガシャン、と物々しい音がして錠が下りた。私は泣き叫ぶダルタニアンを抱いて、南へ走った。
 夜が明けかけていた。空の端が水を含んだように淡くなり、光の気配が行く手に現れ始めた。私は走り、海へと向かった。砂浜には人の姿はなく、潮が僅かに引き始めていた。波が洗う水際に構わず足を踏み入れる。ブーツに流れ込んだ海水が枷のように足を重くしたが、振り切るようにひたすら前へ進んだ。
 朝日の方向へ、東へ。




 私たちは、逃げた。




 

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