Trojan Horse.7



 ちょっとやそっとじゃ破れることのない鋼皮を斬り裂き、空の彼方へと消えて行く、白い月牙。頬からツ、と流れる血を拭わず、ガレットは半ば呆然とした様子で、今、この技を放った張本人を見返すばかりだ。
 ――――月牙天衝。
 そんな技、俺は知らない。ガレットの視界が戸惑うように揺れる。ナリアの出来る技は、虚閃と、解空と、あといくつかの虚としての技ばかり。少なくともバートンは、そう言っていた。頬の伝う血を拭うために、手を持ち上げようとしたが、上手く動かない。その余裕さえ、失われていた。
 ガシャ、と一護が目の前で、斬魄刀・斬月を持ち直す。
「………今のは、破面の俺なら本当は、『できない技』だ」
 その通りだ。今のは、虚閃を斬撃のようにして飛ばすといったものなどとは、根本的に違う。もっと強く、そして純粋な、霊圧と剣圧の塊。
 慣れた様子で先ほどから振るわれている、巨大で無骨なナリアの斬魄刀。その形状は、決して、俺のよく見ていたものではない。
「“月牙天衝”……俺の霊圧を刀に込め、斬撃を視覚化して飛ばす。初めは戸惑ったけど、使ってみて妙にしっくり来た」
 ナリアのブラウンの瞳はこれまでになく澄んでいるのをガレットは感じた。それは呆れるほどにまっすぐで、いちいち恐れを抱いてしまうほどだ。
「どうしちゃったのナリア!」
 ティファニーが叫んだ。その顔には、悲しみに似たものが見られる。先ほどまでならば、一護は死神に洗脳されていると、ただそれだけの表現で済ませられたかもしれない。しかし、彼は今、破面では使えないはずの技を使って見せた。
 一護が、フッと息を吐く。
「“ナリア”……な。変だよな。前までは、全然抵抗なかった。寧ろそれが、本当の名前だって疑ってなかったのによ?」
 二人の破面を見上げる彼は、どこか寂し気だ。柄をきゅっと握り直す。一度、拭いたまま此方を見る、ルキアと恋次に目をやった。そして、
「―――俺は、一護」
 ガレットとティファニーの表情が、凍る。
「俺は黒崎一護」
 斬月を刀に担ぐ。不敵な笑みを漏らした。
「元・死神代行だ!」
「……っ……!」
「なっ……」
 絶句する、二人の破面。
「い……一護……?」
 肩を抑えて、ルキアがよろつく身体を支えながら立ち上がる。
「つっても、まだ思い出したわけじゃねえ。でも、今、ちゃんと自分で名乗って、すげえ思った」
「思ったって………」
 呻くような声が聞こえ、今度は後ろに目をやる。倒れ伏したままの恋次が、口許に血を纏わりつかせながらも訝し気にして、ルキアの言葉を継いだ。
「何を、だよ……?」
 一護は言われて、そっと目を閉じる。気持ち悪さは、ない。
「“死神代行”……なんか、すげぇ……懐かしい……」
 そのとき。
 ぐにゃり、と空間が歪む。感じるのは、桁違いの深く、重く、ざらついた霊圧。これに皆が警戒心を強めたことは言うまでもないかもしれないが、従獣を相手にしていた日番谷らは、目の前で起きていることに思わず目を瞠った。
 従獣が突然攻撃をやめ、大人しくなったかと思えば、各々が生み出された空間の裂け目に帰って行くのだ。そして、代わりに歪んだ空間から姿を現したのは、頭をすっぽり覆い、鼻の頭までをカバーするようにして残った割れた仮面が印象的な破面だった。男の放つ霊圧が、自身を何者であるか物語っている。
「ナリア……」
 一護は静かに、バートンの夕陽のような目を見返した。元死神の顔に、もう迷いは見られない。バートンは、密かに嘆息した。
 しかし、一護からしても、バートンは最早諦めていたのだと思った。今、彼の口から発せられた呼び名には、親しみも何もなく、ただ無機質だった。寧ろ、「お前はもう此方に戻る気はないんだな」と、たった一言で確認をとられたような気分である。同時に、たどり着く結論。
「……返せよ」
 あくまで、怒鳴るでもなく、静かに紡ぐ。
 バートンは、表情を変えない。
「俺の記憶。全部返せ」
「バートンの言う通りだったよ」
 言葉を割り込ませたのは、眉間に深い皺を刻んだティファニーだ。彼女は心底面白くなさそうに、死神達を睥睨した。
 従獣が消え、相手を失った日番谷らは示し合せたように、一護、恋次、ルキアの三人の周りに集まり、破面を揃って見上げている。
「洗脳、すごいのされてるみたい。ナリア、もう帰る場所も分からなくなってるよ」
「……そうか」
 短く応えて、バートンが目を細めた。日番谷、乱菊、一角、弓親、乱菊に抱きかかえられている夜光を順々に視界にとらえ、
「……奴らは奇襲のときに始末したんじゃなかったのか?」
 バートンの言葉に、今度はルキアと恋次が凍り付く番だった。

『また!?』

 恋次の頭の中で、夜光が咄嗟に叫んだ言葉が甦る。やはり彼女も、彼ら破面の霊圧を知っていたのだ。
「バートンも見てたでしょ? 僕はきっちり彼らの急所を叩いて、もう戦線復帰はできない程度には潰してたはずだよー。っていうか、殺したとばかり思ってたんだけど」
 死神の表情が曇った。口火を切ったのは日番谷である。
「バートン・ヒャド・レニツァ。てめぇが、俺達に『アレ』を見せたのか」
 男は、軽く肩を竦めるばかりだ。
「『アレ』……?」
 既に彼らから尸魂界で奇襲を受けていた、というだけで充分に驚くに値したが、まだあるのかと恋次とルキアは怪訝な顔を隠すことができない。
「俺達は、妙なもんを見せられたんだよ」
 鬼灯丸を担いだ儘、一角が忌々し気に言葉を吐く。
 眉を顰める二人を横目に、乱菊も頭を振った。
「あんたたちなら、『誰が見えた』のかしらね」
 彼女はそっと、夜光を抱える手に力を込めた。それに気づいたのか、夜光は意識を朦朧とさせながらも、火傷の痛み、頬を引き攣らせつつ、微かに目を開く。あのとき起きたことは、まさに悪夢以外の何物でもない。


『後ろ、危ないよ?』
 ティファニーが後ろを指さしてきた瞬間、彼らがその方向から感じたのは、気分が悪くなるような不可解な霊圧だった。完全に戦闘態勢であった彼らは、ほとんど反射神経で振り向き、背後をいつの間にかとっていた『それ』に刃を振るおうとした。それは乱菊も同じだ。しかし、
『………乱菊』
『―――――――――っ!!!?』
 思わぬ存在、いるはずのない存在が、そこにいた。
 脳を経由せずに身体に発信された命令を、無理矢理止めようとして、振るおうとしていた刃が止まり、全身が硬直する。
 ――――市丸ギン。
 かつての、護廷十三隊三番隊隊長にして、尸魂界の反逆者・藍染惣右介と共に尸魂界を離れた男。乱菊の命の恩人であり、幼馴染であり、彼女にとってかけがえのない存在。いくつものことが重なって、藍染の手によっていなくなった―――そう、死んだ男。
『ギン……っ!?』
 体が弾けるような感覚に襲われたのは、そのすぐ後だった。
 休息に失われる全身の力。倒れ伏したと理解するのさえ、数秒かかった。それだけに、自分自身は混乱していた。霞む視界には、本来自分の体内に流れていなくてはならないものが、周りを汚している様。耳が拾ったのは、死神達の荒い息遣い。地面を引っ掻く音は、すぐ近くに倒れている日番谷の、立ち上がろうと足掻くために鳴らされたものだった。
 それを最後に、乱菊の意識は闇に閉ざされた。


「―――ところが、不思議なことに、目が覚めたら、私達は怪我の一つもしてなかったってわけ。四番隊が発見した時点でね」
 私達が生きている謎が解けたかしら? 明らかな挑発をこめて、乱菊は破面に言葉を投げかけた。
一体どのような能力であったのかは不明だが、死神達が己の背後をとっている存在も、一人一人違っていた。例えば、乱菊の背後にはギンがいたが、日番谷の背後には、かつての彼の親友の草冠宗次郎がいたのだという。これは、あとで落ち着いてきたころに、全員で確認し合ったことだ。統一して言えることは、皆、慕っていた故人なのだから趣味が悪い。
「つまり、運が良かったってことだね」
 ティファニーが舌打ちをする。何故彼らの怪我が治っていたのかと言ったことはどうでもいいらしい。
「ナリア」
 バートンは、一度も視線を外さない一護を改めてみると、当然のように言い放つ。
「帰るぞ」
「どこにだよ」
 はっきりと言い返す。
 彼の後ろで、斬魄刀を握り、しかしふらついている恋次は、その広い背中を見て、苦笑を浮かべそうになった。
 ――――全く。本当に、こいつは馬鹿だ。
 自分がどんな姿になっても。こうして気曲、仲間を護ろうとするのだ。揺るがない、強い気持ちで。今、ここにいる彼は、間違いなく「黒崎一護」本人だった。
 彼の背に、突如緊張が走る。恋次がバートンに目をやると、あの破面も斬魄刀を抜いたところだった。とうとう実力行使という手を使うつもりか。無論、死神達も隙を見せず身構える。
「虚圏にだ」
「冗談じゃねぇ!」
 拒否の意を即座に口にする。そこで、ティファニーとガレットの表情が酷く傷ついたようになることだけが、一護の心を痛めた。しかし、ここまでくれば一護も退くわけにはいかない。響転でバートンが消えると、一護も響転を使って消えた。派手な金属音が響き渡ったのは、遥か上空からである。
「随分無骨な斬魄刀になった」
 重なる刃。バートンはやはり淡々とした物言いだった。
「ああ。でも俺は、こっちの方がしっくりくる」
 ギリギリと押し合うことで刃が奏でる不快な音。目が合い、一護はっきりとまた、言葉を吐き出した。
「バートン。俺の記憶を返せ」
「…………」
 彼の唇が動き、それに、記憶なき破面の顔に再び、鬼の形相が浮かぶ。
「―――――え……」
 その様を見ていたガレットから、唐突に表情が消えた。
 二人は同時に力を込めて互いの刀を弾くようにして振るい、それぞれが後方へと飛び退る。そして、改めて勢いをつけて斬りかかり、火花を散らし、剣戟を見せる。
「ガレット、ぼーっとしてる暇なんてないよ」
「あっ……」
 激しい戦いを見せている一護とバートンから視線を外し、ティファニーを見る。すると、彼女の方は一度目を丸くして、顔を覗き込んできた。
「ガレット……? 何? どうかした?」
「い、いや……
 ガレットが顔を背ける。
「ふぅん……まぁ、いっかー。さて、と」
 ヒュンッとその場でティファニーは右腕の鎌を素振りすると、下方にいる死神達に改めて視線を向けた。
 ガレットが無言で、拳を握りしめる。力を入れすぎて、両手首の枷から振動が伝わり、腕に巻き付いている太い鎖がガシャリと音を鳴らす。頭を抱えたくなるのをぐっと堪えて、彼もまた、ティファニーと同じ様に死神達を見下ろした。




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