We never call him but he answers us.8



 ――――ベシャッ。
 彼は転がり込んでくるようにして、その場に現れた。
 ゆっくりと顔を上げる。
 ぬかるむ地面。静かな林。全てが、暗い色。
 どんよりとした、重く黒い雲が天を支配し、そこから落ちる無数の雨粒。

 ザァァァァッ…。

 傘をさしていない彼は、見る間にずぶ濡れになっていく。
 マントを纏い、フードも被っているのに、その意味はほとんどなく、容赦を知らず雨は横から吹きつけて来て、中まで浸み込む。
 オレンジ色の髪から、滴となって落ちる。
 これから夏になるというこの時期でも、雨は冷たい。
 彼は怯えた瞳で、もう一度周囲を見回した。
 一人の影を、その視界に捉えた。

   *   *   *

 全てが、セピア色だった。
 色々なものが、中途半端なところで濃色により塗りつぶされていて、正直、全体を鮮明に映すことはない。
『…―――…―――――……?』
 声が、聞こえる。ノイズがかかっていて、聞き取れないけれど。
 自分は口を開きかけて、止まった。何を言えばいいのか、分からない。しかし、ふいに自分の声が、頭に響く。
『…あ……当たり前だ!! あるのか方法が!!』
 何が、“当たり前”なのか。
 一人の女が、ふらついた様子で柱に背を預ける。よく分からないが、多分、彼女から滴っている黒いものは、血だ。
『一つだけ……ある!』
 まだノイズは消えていないが、何とか聞こえた。
 そのとき、女は何かを、自分に向けてきた。
 視界が霞んで、よく見えない。
『貴様が………――になるのだ!』
「っ!!!?」
 かっと目を開き、勢いよく体を起こした。
「はっ…! はっ…! はっ…!」
 大きく動悸がし、体が震える。彼の額には脂汗がじっとりと浮かんでいた。
「ど…どーした!? ナリア!」
 ガレットが慌てて近づいてくる。
 一護は暫し瞳を彷徨わせると、漸く彼を見た。
「……ガレット…」
「だ、大丈夫か?」
「俺…なんで…?」
「いや、お前、疲れたから寝るっつって、寝たんだろ? だからユウも世話係に任せてるんで、この部屋にいねーんだし。…にしても、すげぇ顔だな。寝て余計に疲れましたって感じだぜ?」
 起きたばかりだからか思考が回らず、一護は少し頭を振った。
 先ほどまでのは、夢。今が、現実。
「…一体、何の夢みてたんだ?」
 尋ねられ、答えようとしたが、答えられない。
 “何の”と言われても、あれはほとんどモザイクがかかっているようなものだった。自分でも、何だったのかよく分からない。とにかく、分かるだけ言ってみよう、と思えば。
「……女と…喋ってた」
「うん、簡潔すぎて全くわかんねぇわ」
 ガレットが苦笑する。
「悪りぃ。でも、これしか俺にも分かんなくて」
「女と喧嘩する夢、とか?」
「いや、喧嘩っていうより…、何だ?」
「ナリアさん、俺が訊いてんの。お前が訊いちゃダメ」
 そうだよな、と一護も苦笑する。
「本当に大丈夫かよ…」
 ガレットが頭を掻いた。
 一護の難点といえば、他人に頼らないことが代表として挙げられる。仲間なのだから、もっと共に考え、悩めばいいと思うのだが。
 そのとき、部屋の扉を乱暴に叩かれて、二人は揃って肩をびくつかせた。
「開けるわよ!? いいわね!?」
 最早、怒鳴り声だ。
 露骨に嫌そうな顔をするガレットを見、こちらもまた呆れ顔をしつつ、一護は「おー」と答えた。
 その「おー」にほぼ被さるようにして、扉が大きく開かれる。そこに立っていたのは、熟睡したユウを抱えた、ツインテールの女性破面、No.35のロリ・アイヴァーンだった。
「起きたなら、この餓鬼、さっさと引き取りに来なさいよ!」
 物凄い剣幕で言われ、一護は少々ムッとしたが、先に口を開いたのはガレットだ。
「ナリアは今起きたんだっつーの! ギャイギャイ怒鳴んなよ、うるせーな!」
 ロリがガレットを睨む。
「じゃああんたが、ユウの遊び相手すりゃいいじゃないの!」
「仕方ねーだろ! 忙しかったんだからよォ!」
「忙しかったぁ? じゃ、何してたわけ? 言ってみなさいよ、ホラ!」
 そこで、ガレットが、う、と詰まる。
 実は、破面No.107のガンテンバイン・モスケーダと、集会場を使って大富豪をしてました、とは言えなかった。というか、大富豪に途中参加してきたバートンから、「遊んでたことは、秘密だ」と言われてしまったから、それを明かすなどできるはずがない。しかも大富豪でボロ勝ちして、ユウのことなど忘れて意気揚々と一護の部屋に遊びに来ただけで、魘されて目を覚ましたのを見たのは本当に偶然であった、とも言えない。
 これはこれで、言ったら一護に殴られる可能性は高い。
「…だ、大体、テメーはバートンに拾われてなかったら、どうなってたか分かんないんだぜ!? 恩返しに、遊び相手でも何でも仕事をするのが筋ってもんだがなぁ!」
「五月蝿い!!」
 言って、彼女は抱えていたユウをガレットに投げつけた。
 内心慌てたが、見た目ほど強く鋭く投じられてきたわけでもなく、彼は無事少年を抱きとめる。
 随分気分を害している様子のロリを見て、それでも疲れてユウが寝てしまうまで、相手をしてくれていたのだな、と思った。一護は彼女を見上げる。
「ありがとな」
「お礼言うなら、もう二度とあたしに、あんたが寝てる間のユウの世話を任せないで!!!」
 叫ぶように言ってから、ロリはさっさと部屋を出て行った。その背に向かって舌を出しているガレットが、何とも幼稚だ。
 ロリ・アイヴァーン。四年前、藍染の下で働いていた破面の一人だ。実を言うと、もう一人、ずっと共に動いていた破面に、No.34のメノリ・マリアという者がいた。だが、メノリはNo.0のヤミーに殴り飛ばされ、そのまま絶命した。元々、メノリはロリと比べると全ての能力において劣っていたが、それでもそこにいたロリ自身、生き残ったのはほぼ奇跡だった。また、その奇跡の裏に、悔しいことに滅却師の力と人間の力があったことも否定することはできない。
 そして、全ての戦いが終わり、虚夜宮(ラス・ノーチェス)は崩壊して、一人きりで虚圏を彷徨っていたところをバートンに発見され、保護されたというわけだ。
(…にしても…)
 一護は首をひねる。
(あいつ…俺のとこに来ると、いっつも嫌そうな顔するけど……俺、何かしたっけか?)
 初めてロリと会ったときもそうだった。
 彼女は目を見開き、後退り。
『どうして…あんたが…!?』
 その先は続かず、即座に逃げていってしまった。
 一度、ロリとは落ち着いて話し、何が“どうして”なのかを聞き出したいと思いつつも、上手くいかない。何より、自分と仲の良いガレットは、彼女と犬猿の仲だ。一護がロリと話せば、ガレットも快く思ってはくれないだろう。
 そういえば、保護されたといえば、ガンテンバインもその一人だ。彼は四年前、虚圏に乗り込んできた人間――チャドのことである――によって倒され、その後侵入者討伐と戦闘での敗者の止めを刺す役割を担っていた葬討部隊(エクセキアス)に息の根を止められる間際、皮肉にも死神の、四番隊隊長・卯ノ花烈と、同隊副隊長・虎徹勇音によって命を救われた。
 とくに成す事も無く、傷が完治したガンテンバインは虚圏を放浪していた。そこで会ったのがバートンだったのだ。
「よく寝てんなー、コイツ」
 ガレットが思わず頬を緩める。
 投げられたユウは、変わらず寝息を立てていた。
「ユウはロリのこと好きだしな。いっそ任せてもいいんじゃねぇか」
 一護の言葉に、彼は「とんでもない」と叫ぶ。
「ユウが可哀想すぎる!」
「そーでもねぇだろ。たしかにあいつは性格はキツイけど、ユウはある意味、ドM…だ…し…」

『**はドMだもんで、ちょっと泣くぐらい追っかけてもらわねえと楽スくねぇんス!』

「…あ…?」
 一護が目を見開く。
 …誰だ? 今の声は?
「ナリア?」
「え?」
「どうした? またボーッとして…疲れたか?」
 彼は困り顔で頭をガリガリと掻いた。
 確かにここのところ、自分の頭の仲に混乱が生じるのはよくあることだ。やはり、疲れだろうか。
「ん〜…よく、分かんねぇ」
「あんま、心配させんなよ」
 ガレットが溜息を吐く。
 一護はベッドを下りると、ガレットからユウを受け取って、そこに寝かせてやった。そのまま傍にいてやるのかと思いきや、彼はスタスタと扉の方へ向かう。
「お、おい、ナリア?」
「散歩行って来る」
「はぁ!? またかよ!?」
「気分転換だよ。ここんとこ毎日行ってるし、別に良いだろ?」
 悪びれた様子もなく、一護が肩を竦めて見せる。
 ここのところ、先ほど言ったとおり、彼は放心状態に陥ることが異常に増えた。その都度、気分転換にと一護は散歩に行くようになった。外にあるのは、せいぜい砂漠と、その中に潜む小虚と、灰色の空と月だけだろうに。
 ガレットは渋い顔をする。
「ったく…じゃあ、今度は俺がユウの相手か…ずっと寝ててくれると有難いんだが…」
「ぅ〜…おはよぉー…」
「早っ!!!」
 のろのろと体を起こしたユウを見て、彼は悲鳴に近い突っ込みを入れる。
 ガレットは少年を可愛く思っているが、ぐずり始めるとなかなか機嫌が直らないので、一護がいないときの世話を任せられると焦ってしまうのが常だった。その点、ロリは一体どういう遊び相手の仕方をしているのか気になるが、勿論尋ねてみる気は毛頭ない。
「ユウ…悪りぃけど、俺一人で行っちゃダメか?」
「ダメー」
「だから早ぇって!!!」
 彼は一瞬呆れ顔になったが、ベッドの方へ戻ってくると、未だに眠そうであるユウの頭を撫でてやった。
「ごめんな? でも、これでお前が我慢してくれたら、戻ってきた時いっぱい遊んでやるから」
「…本当?」
 口角を吊り上げてみせる。
「おう! だから、何で遊ぶか考えとけよな」
 屈めていた腰を伸ばして、一護が扉の方を向く。
 すると、ガレットが横からマントを差し出してきた。
「…これ、現世に行くわけじゃねぇんだから、いらなくねぇか?」
「砂埃が酷でぇから、それを避けるためだよ。着てけ」
 ぷっ、と一護が吹き出す。
「おまっ…! ずっと虚圏にいて、どんだけ苦手なんだよ、砂埃!!! 本当に破面かよ!」
 ガレットは、現世で言う潔癖症に近い。
 破面で、ずっと虚圏で過ごしているというのに、砂漠といったものを異常に嫌う。最初に一護が砂塗れで散歩から戻ってきて、そのまま部屋に入ったときは激しく怒られたものだ。よく、虚圏でやっていけてるな、と彼はいつも思っている。
 ガレットの顔が赤く染まり、噛み付くような勢いで、
「う、うるせぇな! 砂埃を避けて何が悪りぃんだよ!」
「別に誰も悪いとは…」

――――これは…虚圏は砂埃がひどいから持っていけと渡されたのだ…

「…え…?」
 フラッシュバックのように、頭の中で画が回る。
 マントを着た者が、二人見える。ただ、また少しモザイクがかかっていて、よく見えない。何か、怒鳴っている。それは、小さい方……恐らく、夢の中で自分に何かを向けていた、あの血まみれの女だ。

 ――――たわけっ!!! 何故勝手に虚圏へ入った!
 ――――何故私が戻るのを待てなかった!?

 そっと、自分の顎に手をやった。次いで、頬にも。何故か、ヒリヒリする…。
「ナリアっ!!!」
 ビクッと肩が跳ね、幾度か瞬いた。
「お前…本当に大丈夫か? 今日、いつもより酷でぇぞ」
 一護がしかめっ面をすると、目を閉じて眉間を軽く揉んだ。
「ああ…平気だ」
 ガレットからマントを受け取ると、それを纏った。
「行ってくる」
「無茶すんなよ」
「歩くだけだぜ?」
 白い歯を見せると、彼は外へと出て行った。
 ベッドの上にちょこんと座っていたユウは、いつの間にか再び体を倒して、そのまま眠り込んでいた。


 やはり、歩いてもあるのは虚圏の殺風景なものばかりだった。
 一護はひたすら歩く。いつもそうだ。気分が優れなければ、景色がどんなものであろうととにかく歩いて、どうでもいいや、と気持ちを切り替える。いつも以上に妙な気分なら、それだけ長く歩いてみればいい。
「砂埃、凄げぇ…」
 呟く。破面としては、この程度大したことはないのだけれど、たしかにマントは効果があった。フードを被っていなければ、オレンジの髪が砂の色に変わっているところだ。
 ガレットに感謝だな、と一人密かに笑った。
 と、そこで、遠くに影が見えた。
「ん…? 人型…?」
 ということは、破面か人間か、死神か?
 あまりに遠距離で見えにくく、一護はそちらへ駆けてみる。すると、それは四人ほどいて、全員が破面であることが認識できた。当てもなく彷徨っている風である破面ということは、ロリやガンテンバインと同じ境遇のものであろう。バートンのところに案内するべきだ。
「おーい!」
 声を張り上げてみれば、彼女等は振り向いた。
 こんなに揃いも揃って女性とは珍しいな、とどうでもいいことを思う。一護が知っている女性破面は、ロリと、ユウのもう一人の世話係ティファニー・リック・コムと、以前からバートンが「もし発見したら教えてくれ」と言っているネリエル・トゥ・オーデルシュヴァンクだけだ。
「あんたら、ひょっとして昔、藍染の下についてた奴等か?」
「あぁん? 何だよ、お前!」
「やめな、アパッチ。いきなり喧嘩売んじゃないよ」
 破面No.54のエミルー・アパッチが、
「売ってねぇだろ、ミラ・ローズ! 何だよお前っつっただけだろ!」
 自分を止めた破面No.55のフランチェスカ・ミラ・ローズを睨みつけた。それを真っ向から受け止め、叫び返す。
「だからそれが売ってんでしょうが!」
 怒鳴りあいを始めた二人に、おしとやかそうな女性破面が、醒めた視線を送る。
「おやめなさいな、二人とも。あなた達がいると寧ろ場が乱れるのが、まだお分かりでないの? そろそろ自覚してくださらない?」
「「うるせぇよ、てか場を乱すのはお前もだろスンスン!!!」」
 破面No.56のシィアン・スンスンはすまし顔で、二人の抗議を流した。
(…仲悪りぃな、こいつら…)
 どうにも居心地の悪い一護は、微妙な表情でアパッチら三人を眺める。
 やがて、後ろでずっと黙って立っていた、頭角らしい女性破面が前に歩み出てきた。
「あんたは…」
「元十刃(エスパーダ)の破面No.3、ティア・ハリベルだ」
 三人とは違い、随分落ち着いた様子だ。
「そっか。俺は」
「知っている」
 ハリベルが、一護の言葉を遮る。
 彼は面食らったように口を閉じた。知っている?
「だからこそ訊きたい。私はお前を、藍染の出した映像でしか見ていないが、何故だ?」
 自分を見た? 藍染の出した映像で?
「…あんた、何言ってんだ?」
「何故お前が、虚圏に、その姿でいるのかと訊いている」

『貴様、その格好は…どういうつもりだ』

 ――――ドクン…。
 また、だった。
 尸魂界へ偵察に行ったときと同じで、また心臓が妙な脈の打ち方をする。「その格好」「その姿」…どうして、皆揃って、自分のそこを指摘する?
「どういう…意味、だよ…?」
 足元がふらつくので、必死に力を込める。そうしないと、倒れそうだった。
「……虚圏に、お前がいていい理由が、私には分からない。私に戦意はないが、ここはお前のいた世界とはまるで違う上、争いばかりだ」

 ――――俺のいた世界?

 訳の分からない言葉ばかり増えていく。
 …否。訳の分からない言葉に、どうして自分は動揺している?
「たしか、お前の名前は…」
 ヒュッ、と。息を、吸った。
「黒崎一護だろう?」
 その言葉を聞いた瞬間、一護はその場から転がるようにして走り去った。
「何だったんだ? あいつ…」
 アパッチが首をかしげ、ミラ・ローズも肩を竦めた。
「さぁ。でも、あいつ、一応破面だったけど」
 スンスンが逃げるように走る彼の背を遠目に眺める。
「何か、変な方でしたわね」
 ハリベルは無言で、瞳を細めた。


「っ…!! 何っ、だよ…!? 何で…!?」
 何度も足がもつれつつ、走った。
 信じられなかった。ずっと、死神の戯れ言だと。聞いて流せばいいと思っていたのに。あの女性破面は、動揺も何もせず、さらりとその言葉を吐いた。

 ――――クロサキ イチゴ

(何で…破面の口からも、それが出るんだよ…!?)
 必死になって、走り、走り、走る。
 訳が、分からない。自分とその言葉に、一体、どういう関係があるというのだ。どうして皆がそう、自分を呼ぶのだ。自分は、ナリア=ユペ=モントーラという名前を持っているというのに、どうしてだ。
『気にする必要はない』
 偵察結果を伝える時、バートンに話してみた。だが、彼はそうとしか言わなかった。自分も気にするだけ無駄だと思った。
 だけど、ダメだ。破面の口から出た以上、きっと、もう自分は、あの言葉を無視することはできない。現に、自分はバートンのところへ案内しようと思っていた彼女等を放置して、こうして逃げている。
 一番動揺するのは、違う名前で呼ばれているにも関わらず、自分自身を否定された気持ちには全くならないことだった。それはまるで、自分が「クロサキイチゴ」の名を、受け入れているような気がした。
 そんな自分が、激しく嫌だった。
 誰でもいい。誰でもいいから、「クロサキイチゴ」が何なのか、教えてくれ。
 無我夢中で走る。走っても、気分転換にはならない。寧ろ、恐さが増している。何も分からない自分への、不安と、恐怖。
「一護(いつご)!?」
 そのとき、どこからか声が飛んできて、一護は慌てて足を止めた。
 視線を巡らす合間もなく、「超加速!」という声が聞こえたかと思うと、緑色の髪をしたユウくらいの少女が、自分の腹目掛けて飛んできた。
「グフォ!!???」
 勢いづいていたので、空気が口から一気に漏れ、危うく意識が遠のきかける。咳き込みながら、ヨロリと起き上がると、自分に抱きついている少女を見下ろした。
「な、なんだ、おまっ…」
「久スぶりだぁ!!! 一護だぁ!!!」
 改めて呼ばれた名前に、顔が凍りつく。
 ――――久しぶり? 一護?
 自分の腕を、ぎゅっと掴まれている。
 邪念はない。だが、彼は硬直して、動けなかった。
「一護、久しぶりでヤンス!」
 ドンドチャッカが、嬉しそうに近づいてくる。
「久しぶりだな、一護よ!」
 その傍らのペッシェが、手を挙げる。
 困惑した表情を浮かべる。本当に彼等は嬉しそうで…しかし彼等は躊躇うことなく、口々に言ったのだ。自分のことを、「一護」と。
 そしてもっと困ったことに、自分は、彼等のことを、知らない。
「…あれ?」
 ネルが涙ぐみながらも少し体を離し、一護を見上げた。
「………一護…どうスて…ネルたつと一緒っスか…?」
「え……?」
 ドンドチャッカとペッシェも、何やら近づいてきて、自分をしっかりと見て、様子が変わった。嬉しそうな表情が、消えていた。
「どうスて……破面になってるっスか…?」
 ドクンッ!!!
「破面に………『なった』…? 俺が…?」
 自然と、唇が震える。
 尸魂界でもたしか、小さい隊長格の死神に、同じことを言われた。

『何故テメェが、破面になってやがる!?』

 瞳が揺れる。頭が痛い。
「黒崎…」
 ハッとすると、グリムジョーがこちらに歩み寄ってきていた。
「あんたは…」
「ふざけてんのか、てめぇ」
 別に、ふざけてなどいない。しかし、グリムジョーは、自分に対しての怒りを露わにしていた。ゆえに、たじろぐしかない。
「餓鬼の言うとおりだ。何だってテメェがそんな格好してやがる?」
 狼狽しつつも、答える。
「そりゃ…俺は、破面……だからだろ…?」
「ああ!? もう一度言ってみろ!!!」
 どうして、怒るんだ?
「だから! 俺は破面だから、こんな格好してんだろ!?」
 自棄になって、怒鳴り返す。
 すると、グリムジョーは自分を嘲るような顔になった。
「てめぇが、破面だと? どこまで戯れ言言やぁ気が済むんだよ? なぁ?」
 戯れ言? 自分が破面であるという、ことが?
「何を」
「一護は破面なんかじゃないっス!!!」
 ネルの声に、目を見開く。
 俺は破面じゃない…? どういうことだ?
「一護は、人間っス!!!! だのに、何を言ってるっスか!!!!」
 俺が、人間……?
 改めて見下ろしてみると、少女の目には新たな涙が立ち込めていた。それは、先ほどのような喜びの涙ではない。…淋しそうな、ものだった。
「な、何言ってんだよ…だって、俺は見ての通り……」
「一護はネルたつを護ってくれたっス!!!」
 俺が………お前等を護った…?
「人間なのに、死神んなって、滅茶苦茶な力使って…! でも一護は、ネルたつを必死に護ってくれたっス! そんな一護が……」
 涙が、零れた。

「どうスて破面なんて、そんなくだらないもんになってるスか!!!!!!!!」

「っ!!!!!!!!???」
 一護はネルをどかし、再び駆け出した。
「一護っ!!??」
 慌てて叫ぶ少女に、グリムジョーが面倒臭そうに声をかける。
「やめろ」
 ビクッとし、ネルは恐る恐る振り向く。
 グリムジョーは、心底不機嫌そうな様子で、ポケットに手を突っ込んだまま一度舌打ちすると、逃げていく一護を見て、呟く。
「俺ぁ、今の黒崎には興味ねぇ」


 限界だった。どこかに、逃げたかった。
 あの少女に、偽りはない。だからこそ、その言葉の真実の度合いを感じて、体が震えた。
 自分が破面ではない? そんな馬鹿な。だって、自分は……!
 走りながら、一護は一人、息を呑む。

 ――――俺は、一体いつ、虚になったんだ?

 正規のルートで破面になったとしたら、当然虚のときの記憶はあるはずだ。なのに今、気付いた。

 自分には、破面以前の記憶が、一切、ない。

 ダメだ。もう、逃げたい。否、逃げなければならない、きっと、どこかに。
 一護は勢いのまま、手に力を込めると、適当な空間に触れた。
 “解空(デスコレール)”によって裂け目を生み出すと、夢中になってその中に飛び込んだ。

   *   *   *

 ――――ベシャッ。
 彼は転がり込んでくるようにして、その場に現れた。
 ゆっくりと顔を上げる。
 ぬかるむ地面。静かは林。全てが、暗い色。
 どんよりとした、重く黒い雲が天を支配し、そこから落ちる無数の雨粒。

 ザァァァァッ…。

 傘をさしていない彼は、見る間にずぶ濡れになっていく。
 マントを纏い、フードも被っているのに、その意味はほとんどなく、容赦を知らず雨は横から吹きつけて来て、中まで浸み込む。
 オレンジ色の髪から、滴となって落ちる。
 これから夏になるというこの時期でも、雨は冷たい。
 彼は怯えた瞳で、もう一度周囲を見回した。
 一人の影を、その視界に捉えた。その影が、自分を凝視して、呟くように言う。
「………………一、護……?」
 もしかしなくても、分かった。その声の主は、あの夢の、血まみれの女であると。




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