Beginning is ZERO of number.1



 地下特別監理棟『蛆虫の巣』の、最奥部にある部屋。そこは、隠し扉を通って初めて入ることの出来るところだった。一体いつからこのようなところに、誰も入れないような空間が作られてあったのだろう。ましてや、危険因子と判断された者達のいる『蛆虫の巣』に、こういった部屋はあっても無意味ではないのかとさえ感じられる。何より、不釣合いだ。壁は、殺気石ではないが、もっと強固なものらしい。
「来たか、十四郎」
 元柳斎の声が反響する。浮竹は、「はい」と頷いた。
 薄暗く妙に音の響く広い空間の中央に、彼等二人は立っていた。しかし、浮竹は、一番隊隊舎で会うときと同じような間隔を保った。
「霊圧を消すことまで要求されましたが…そこまでの極秘で、一体何なのですか?」
「うむ。…実はの」
「山本総隊長」
 ふいに、女の声が響く。
「それは私が説明するから」
 言いながら、その声の主は、元柳斎の後方から歩み出てきて、その姿を露わにした。
 死覇装の上に、金の刺繍が施された灰色の羽織を着ている。
 あまりのことに、浮竹はただ呆然と呟いた。頭はその事実を否定したが、前にいるのは紛れもない、知っている女の死神。
「………ひ……曳舟…?」
 死神・曳舟桐生は、目尻を緩める。
「久しぶり。浮竹」
 実に、百十年ぶりかという再会だった。
 彼女も以前ととくにかわらず、浮竹も自然と笑顔になる。しかし、驚きが隠せないのも事実だ。
「どうしてお前が…こんなところに」
「悪いわね。立場上公の場に出ることは、今はまだ避けたいのよ」
 桐生は、百十年ほど前に十二番隊隊長から昇進し、王属特務の零番隊に異動になった死神だ。尸魂界の象徴であり、絶対的な存在・“霊王”に関わりのある王族や零番隊は、その姿を極力表には出さないよう配慮している。一般には、“霊王”を護る為と言われているが、その真相は不明だ。それを知るのは、“霊王”の存在する王宮と、それに連なる王族と王属特務だけが存在することを許された、王土の者だけだ。
 普通、隊長格程度の死神が、そこに実際にいる者と対面できることは、ない。
「…零番隊の死神が、俺に何の用だ?」
 数拍の間をおき、桐生は浮竹を見つめた。
「あなたに来て欲しいのよ。零番隊に」
 頭が真っ白になる。予想の出来ない科白に、思考回路が停止する。
 意味を飲み込めていない様子である彼に、桐生は肩を竦めた。
「一護くんの魂魄、行方不明なんでしょ? おかげで隊長の予定もずれたみたいで、王土にまだ戻って来ないらしくて、霊王陛下も焦ってらっしゃるのよ。多分、王属特務(わたしたち)と初めて、護廷が動くことになるときがくると思う」
「ま…まってくれ、曳舟…どうしてお前が、一護くんのことを知ってるんだい?」
 桐生はキョトンとする。
 彼女がさも当たり前のように一護の名を親しげに呼び、またそれを「何故」と訊かれると随分不思議そうな顔をすることに、浮竹はいささか戸惑った。
「……何それ…? 隊長から話聞いてるんじゃないの?」
「“隊長”…先生のことか?」
「儂ではない」
 元柳斎はそうとだけ答える。
 聞いてないのね…。桐生は呆れ顔で、だからあの人は面倒なのよ、とぼやいた。
 浮竹に一度背を向け、天井を見上げる。箱のような空間は、ただ青白い光が降り注ぐだけで、少々不気味だ。天井の中に、今度ホタルカズラでも飼おうか、などとどうでもいいことを考える。
 そして、漸く一言。
「黒崎一心」
 頭が痛い。あとで卯ノ花のところへ行かなければ。
 浮竹は唾を飲み込む。
「黒崎一心零番隊隊長よ」
 何百年も動かなかった、錆び付いた歯車。
 それが、ギシギシと不快な音を立てながら回り始めたことを、このとき浮竹だけが、否が応でも気付かされたのだった。

   *   *   *

 三天結盾にヒビが入るほどの爆風。幸い、チャドが巨体を生かして石田と織姫を庇ってくれたので、二人は何もなかった。チャドにしてみても、彼の体は四年でいっそう大きくなり、人間を超越したレベルの頑丈さを誇る。問題はなかった。
 三人は、改めて前を向く。
 爆煙が晴れたところに立っていたのは、縛道から解放された夜光で、彼女は傷だらけのルキアを抱えていた。どうやら気を失っているらしい。夜光もかなりの傷を負ったようで、霊力の消耗もあってか、苦しそうに肩で息をしていた。
「っ……本当に、やるなんて、ね…」
 言ってルキアを見やるが、彼女は微動だにしない。
 ヒュッ、と風を切る音がしたことに気付き、夜光は斬魄刀を振るった。はじき返したのは、霊子で形成された矢だ。
「…そっか、滅却師(クインシー)なんだっけ」
 こちらに向けて銀嶺弧雀を構える石田を見て、苦笑する。
「知ってるとは光栄だね。だけど、無理矢理連れ帰ろうとする君を、黙って見過ごすわけには行かないな」
 気配を感じ、振り向いてみる。
 いつの間にか、後方数メートルというところにチャドが立っていた。
「……朽木を放せ」
「ごめん。それは無理」
「なら、放させてやる!」
 石田が銀嶺弧雀から霊子の矢を連射した。それから逃げ始めた夜光は、斬魄刀を振りかぶる。
「『踊れ、“星陰冠”』」
 ピッと石田の方に星陰冠の切っ先を向けると、刀身から針状のものが噴出し、相殺していく。
「その弓矢の連射弾数、いくつ?」
 互いに連射し続ける。
「1200だ!」
「そっか。…惜しい…」
 夜光が瞳を細める。
「こっちは、2000だよ」
 瞬間、銀嶺弧雀の連射が止まり、残りの星陰冠からの800の針が、石田に襲い掛かる。
「“三天結盾”!!!」
 織姫が叫ぶと、石田の前に盾が張られ、外部からの攻撃が拒絶される。
 良い戦い方に、へぇ、と夜光から感嘆の溜息が漏れた。
 その背後から、右腕に鎧をまとったチャドが、霊力を爆発的な力に変えて解き放つ。
「巨人の一撃(エル・ディレクト)!!!」
 すぐさま瞬歩を使ってかわし、ルキアを抱えたまま右手を地面に屋上の床にたたきつける。
「縛道の二十一! “赤煙遁(せきえんとん)”!」
 煙幕が発生し、夜光とルキアの姿が見えなくなる。
 すぐに彼等は、これが目くらましだと気付いたが、動くことはできない。視界が晴れたときには、夜光と彼女に抱えられたルキアは、忽然と姿を消していた。


 恋次は、空座町にある山・空見山の中の大木に背を預けていた。
 徐に顔を上げ、点々と輝く星が瞳に映る。
「――――……消えた…」
 ルキアと夜光の、二人の霊圧が消えた。
 ほんの短時間だったが、石田、織姫、チャドの緊迫した霊圧も感じたので、交戦したのだろうことは予想できた。
 だが、ルキアを助け出すなどできなかったろう。それは当然だ。夜光は、努力家の実力主義であり、半端な力で隊長であるわけではない。そんな死神を人間ごときがどうこうできるはずはない。たとえ石田達のように、特殊なものでもだ。
「どうしろってんだよ…」
 ルキアが、連れ戻されてしまった。何も分かっていないし、彼女はまだ調査し足りないはずだ。現世に来て、一護について調べたいと言い出したのはルキアだ。
 副隊長だと、どの程度の罰が与えられるのだろう。
 処刑は、ない。尸魂界には、死神の力の譲渡のときとは違い、義妹を大切にする白哉がいる。
 だが、それでももっとほかの、重い罰があるはずだ。
「…くそっ……」
 ずるずると座り込む。手を前につき、地面を掴むようにして拳を握り締めた。

 ――――逃げろ、恋次!

 掌に爪が食い込むほど、拳に力を込める。
「くそっ…! くそっ、くそっ…!!」

 ――――テメェらこそ、何者だ!?

「畜生おおぉぉぉお!!!!!!!!!!」
 現世の夜空に、恋次の声がただ、哀しく木霊した。
 その悲痛な叫びを聞いていたのは、山にある木々だけだった。

   *   *   *

 虚夜宮(ラス・ノーチェス)によく似た、しかし一回り小さい建物が、虚圏のある場所にぽつんと存在した。
 その中の一室に、“ナリア=ユペ=モントーラ”と名乗っていた一護が、ベッドの上で俯き気味に座っている。
「ナリア、兄ちゃん…?」
 突然の声に、彼が顔を上げる。
 ユウが覗くようにして、入口から顔を出していた。
「入っていい…?」
 ユウの顔は、左半分が仮面に覆われていて、破面というより、破面になろうと頑張って仮面を剥がしてみた、という様だ。
「ああ…」
 一護が頷くと、少年は嬉しそうに笑い、彼に駆け寄ってその隣りにピョイと飛び乗った。
「…どうしたの?」
「え? 何が?」
「だって…ナリア兄ちゃん、現世から帰ってきてから、ずっとおかしいんだもん」
 ゆっくりと瞬き、小首を傾げる。
「…そうか?」
「遊んでくれないし…」
「いや、それ、忙しいからだろ」
 頬を膨らまして、ツンと顔を背ける。
 拗ねたユウに、一護は溜息を吐いた。
「分ーかった! あとで、遊んでやるから!」
 勢いよく振り向く。
「だっこ!」
 ベッドから落ちそうになり、一護は呆れ顔で少年を見た。
「お前…なぁ…」
「ほら、ナリア兄ちゃん、いっつもそうやってしぶるんだもん!!」
 ますます頬を膨らますので、一護はまた溜息を吐く。そして、手を伸ばすと、ユウをひょいと持ち上げて膝の上にのせてやる。
「……ごめんな、ユウ」
「ん〜?」
 ユウが一護を見上げる。
「たしかに…変だよな、俺」
 自嘲気味に言う彼に、ユウが表情を曇らせる。
「あのとき、ナリア兄ちゃんを“イチゴ”って呼んでた死神に、何かされたの?」
「いや…」
 泣きそうな顔で叫んだ、黒い長髪の死神。
 自分に斬られて、信じられないと言いたげな顔をした、赤髪の死神。
 どうして、初めて会った死神にそんな顔をされなければならないのか、一護には分からなかった。
 なんだかそれを思い出すたびに異常に気分が悪くなって、頭を抱えた。
 そして、それを叱咤するように、響く声。

『た――!!』

 ズキリ、と痛む頭。現世から戻ってきて以来、おこるようになった。その都度、脳に響く謎の声は、鮮明に聞こえることはない。
「“イチゴ”…なぁ…」
「変な名前だよね」
 ユウが笑うと、彼は仏頂面をしたまま、腑に落ちない様子で口を開く。
 たしかに、変な名前だ。変な名前だが……。
「ってか……何か…たりねぇ、気がする」
「“イチゴ”に? ナリア兄ちゃん、聞いたことない言葉だったんじゃないの?」
 その通りだが、不完全な気がした。ただ、“イチゴ”だけではなく、
「何か……その、前、に……」
 ……何か、ついてた気がする…。
「おいおい、何やってんだァ?」
 あわてて前を見ると、そこには破面の、まるで王冠のような骸骨を頭に被ったような仮面の名残がある男が立っていた。いつの間に部屋に入ってきたのかは分からないが、彼が気配を消しているのはいつものことだ。
「ガレット…」
 破面・ガレット・スミザーハースは、ポケットに手を突っ込んだまま言った。
「おかえり。お前等、戻ってきてたのか。なら一言くらい声かけろよな」
「ガレット兄ちゃんっ!」
 一護の膝上から飛び降り、ユウはガレットに抱きついた。
「おー、どーした? つーか、お前等二人いつ戻ってきたんだ?」
「十三時間くらい前」
 しれっと答える一護に、すかさずアッパーを繰り出す。
「さ・っ・さ・と・報・告・し・ろ・よ!!!」
「ってぇな! 言わなくても分かるかなって思ったんだよ! あとテメェのアッパーはまじで痛てぇから二度とすんな!!!」
 涙目で叫ぶ彼を見て、ガレットはやれやれといった様子で肩を竦めた。
「あのね、ガレット兄ちゃん! ナリア兄ちゃんがね、死神に何かされたみたいで、変なの!!」
 その科白を聞き、ガレットは訝しげに眉を顰める。
「…何されたんだ、ナリア?」
「別に。変な名前でさんざん呼ばれて、戸惑っただけだ」
 顔を背ける。正直、記憶にない名前で呼ばれたことを思い出すのは気分が悪かった。
「変な名前?」
「“イチゴ”だってー」
 ユウが言うと、考える仕草をし、ややあって口を開いた。
「“イチゴ”か……たしか、現世にそんな食いモンがあった気がするな」
「ナリア兄ちゃんが食べられそうになったってこと?」
 真顔で言う少年に、一護は露骨に嫌そうな顔をした。
「ユウ、それキモイからやめてくれ」
「違うの?」
 首を傾げるユウに、「違う」と頭を振ってみせた。
 相変わらず足元に抱きついている少年の頭を、ポンポンと軽く叩いてやりながらガレットは笑った。
「ま、死神の戯言だ。気にする必要はないんじゃね?」
「おう。そーだよな」
 敵の言うことをいちいち気にしてはやってられない。それは重々承知していた。 
 一護は腰を浮かせると、「飯、食ってくる」と部屋を後にする。

『私は貴様を、絶対に許さぬっ!!!』

 ズキッ。
 胸が、痛い―――。
 何か毒でも、攻撃にまじえて体に注入されたのだろうか。一護は一人、ひそかに胸を押さえた。
 もう、気にする必要など無い。ガレットにそう言ってもらえたし、ユウにこれ以上心配をかけるわけにはいかない。負担はなくなったはずだ。
 だが、一護は何故か、苦しかった。




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