■ 返せる愛を忘れない

「………へ……?」
 頭が真っ白になった。
 ……行光? お前、今、何て?
「………ここは、何処だ?」
 呆然とした俺の手が、行光の頬から離れる。しかし、それすらも気にせずに行光は、いかにも不思議そうに周囲を見回している。後ろで、長谷部が息を飲んだ気配がした。
「……何、言って……」
「……?」
 珍しいな、行光。お前が、目が覚めて早々、そんな悪ふざけするなんて。何だ、お前も、俺が情けねえ姿を戦場で晒したこと、怒ってるのか。
 そんな言葉が浮かんできて、笑い飛ばしてやろうと思ったのに、いざ口を開いた俺の声は自分でも唖然とするほど震えていて。どくどくと脈打つ心臓が、耳にうるさくて仕方がなかった。
「おいっ……」
 俺の横から、膝をついた長谷部が行光の肩を掴む。
「ふざけるのも大概にしろ、不動行光」
「……え、っと……」
 行光の瞳が揺れる。それは怯えだ。何に怯えるのか? 長谷部が怒っているからか? 
 違う。今、ここで何が起きているのか分かっていないからだ。もし、俺のこの嫌な予感が、当たってしまうなら。俺はぎゅっと目を瞑ってから、長谷部の腕を掴んだ。怪訝そうに見られたので首を横に振ると、渋々ながらも行光の肩から長谷部の手が離れる。
 そっと深呼吸した。大丈夫。俺が混乱するのは後でいい。今の俺は、「医学の知識がある治療担当」の薬研藤四郎だ。自分の知識の引き出しから、今の行光の様子から思い当たる病気を片っ端から取り出す。
「…行光。ここが何処だか分かるか?」
「……」
 長谷部から俺へと視線を移した行光は、ゆるゆると首を横に振る。
「……自分のことは?」
「………」
「…お前は人間か?」
「いや、俺は……刀剣男士……だ」
 自分がどういう存在なのかは分かるらしい。奇妙な質問ではあった。人間に「お前は犬か」と尋ねたようなものだからだ。しかしそこから分からなくなっているという絶望的な状態ではなさそうである。
「何ていう名前の刀剣男士だ?」
「………」
 また、首が横に振られる。
「……自分の刀種は?」
「……短刀……」
「俺たちがすべきことは何だ?」
「……歴史を守ること」
「そのために俺たちを呼び出したのは?」
「審神者」
「敵は?」
「歴史修正主義者」
「お前が顕現したのはいつだ?」
「…………」
「お前が短刀として元々存在したのはいつの時代だ?」
「…………」
「……じゃあ、」

 お前を愛した武将の名前は?


   ***

 馬鹿みたいに綺麗で丸い月を見て、虚しさが増す。それだけの光を放てるなら俺の心も照らしてくれりゃあいいのにと思うが、月にそんな思いは通じない。
「まだ起きていたんですか」
 体を捻って振り返ると、廊下を歩いてきたのは宗三だった。既に寝間着に着替えていたが、それほど眠そうな様子ではない。
「……寝付けなくてな」
「……不動は」
「まだ万全じゃねえみてえでな。部屋で寝てる」
「そうですか」
 隣に腰を下ろした宗三は、俺の真似をするように月を眺めた。
「…聞きましたよ。長谷部から」
「そうか」
 二日ぶりに目覚めた行光からは、綺麗に記憶が失われていた。自分が何のために存在するのか、敵は何か、ここで何が起きているかの理解はできていた。それは「刀剣男士」として顕現される際に、自動的に俺たちの中に当たり前の認識として持たされる知識であった。人間で言うならば、人間というものは二足歩行をすること。酸素を吸って二酸化炭素を吐いて生きていること。言葉を操ることができること。自分が大人か子供かということ。それら全てが、自然に理解ができるように。
 だが他のこととなると、行光はさっぱり何も覚えていなかった。自分が短刀で、刀剣男士だというところまでは分かっても、織田のことすら。あれほど何度も後悔していると口にしていた織田信長のことも全くぴんときていなかった。当然、長谷部や俺のことが、分かるはずもなかった。
『何かごめんな』
 耐えていたつもりだったが、長谷部も俺も、随分酷い顔をしていたらしい。ひたすら質問に答えていた行光が、ふいにそう謝った。でも本人は、何に謝ればいいのか分からないといった表情だった。ただ、自分のせいでこんな顔をさせてしまったということだけを理解して、そこを謝っているらしかった。
「刀剣男士の記憶喪失なんて異例なんだって。だからあの変な戦場で、バグみたいなもんを行光が貰っちまったんじゃねえかって大将は言ってた」
 問題の戦場は、あれから他の本丸の部隊も突入してくれたらしく、無事沈静化されたらしい。今、政府はその対応に追われている。行光のことも満足に対応できないし、この本丸独自で起きている事だからそもそも政府は頼りにならないとも、大将は言っていた。
「でも折れなかったんだからよかったよ」
 笑って言ったつもりの俺の声が、ちっとも笑っていなくて、自分で愕然とした。
「……そうですね、良かったのかもしれません」
 隣で、あくまで静かに言う宗三に首を傾けることで続きを促す。
「……忘れてしまったなら、返せなかった愛なんてものも、もうあの子は分からないんでしょう? あの子は自分をダメ刀だと称して、ずっとあそこにいた彼らを助けられなかったことを悔いていた」
 愛された分を返すことができなかったダメ刀。
 怪我をして、俺だけ直っても、と手入れの度に嘆いていた短刀。
 誉れを得ても、あのときこれができていればと、悔いることしかできなかった不動行光。
 彼が過去の記憶で押しつぶされそうになっているのを見たことは、確かに何度もあった。心当たりはいくらでも思い浮かぶ。
「…忘れて、無邪気な短刀になれば。ある意味救われるのかもしれませんよ」
 宗三の言葉はなるほど納得はいった。でも俺の気持ちは晴れない。もしこれが励ましなのだとしたら屈折しすぎている。
 なあ宗三。それは本当に不動行光としてあり得るのか?


 大将と、目覚めたばかりの行光と真っ先に対面していた俺と長谷部で、本丸の全員には一連の出来事を伝えた。当然皆驚いていたが、それでも一応刀剣男士としての意識ははっきりしているので、いつも通り接してやってほしいということで話はまとまった。ただし人の生活もほとんど忘れてしまっているだろうから、その辺は上手く手助けしてやってほしいとも。
 それからは悔しいほどに、滞りなく日々が過ぎていった。思い出させようと、前の行光のことや織田家のことを延々語った日もあったが、いかんせん終始何のとっかかりもつかめないせいで、まず思い出させることも困難だった。だから、とりあえずはいつも通り生活しようということになったのだが、あまりに「いつも通り」で不気味だった。
 大きく変わったと言えば、行光が甘酒を飲まなくなったために普段は酔わないし、厨に備蓄されていた甘酒が一向に減らないことだ。
「お前、甘酒はやめたのか」
 長谷部が何気なく食事の席で尋ねれば、
「甘酒?」
 何を言っているのか分からない、といった様子で首を傾げていた。一度甘酒を渡して飲ませてみたところ、「美味いからたまに飲みたい」と無難な返事があった。
「前は毎日飲んでたのに、その程度で良いのかい?」
 青江の旦那が、わざとそう訊くが、行光はそれにもまた首を傾げた。
「酒を毎日? ……んー……それ自棄酒じゃねえの。俺別に、自棄になって飲もうって気はないし」
 すっきりとした顔で笑う行光は見たことがなかった。
 昔のことを忘れて、これほど明るくなれるものかと思う一方で、信長さんや蘭丸が死ぬまではそういえば無邪気な短刀だったなと懐かしくなったりもした。こっちが行光の素なんだと思うと、記憶というものがあるだけであんなに変わってしまうのかと、記憶は何て残酷なんだろうと思わずにはいられなかった。
 忘れてしまった方が良い。そう言った宗三の、言葉の意味を、ここに来てやっと理解する。それほど本能寺の出来事は、行光の中に深い傷を残していたんだな。


 一ヶ月が経過しようとしていた頃に、小夜すけがひょっこり薬部屋にやってきた。
「まだ何も思い出さないみたい」
「……そうか」
「……時々、前の時のこととか話すんだけど、分からないって」
「小夜すけも頑張ってるんだなぁ」
 本と睨めっこしながら薬を調合し、また本を確認して、ああ間違えた、何度目だこれ、と俺は頭を抱える。障子の近くに正座している小夜すけは顔を俯かせている。
「……不動がああなってしまったのには、あの戦場で、僕が力不足だったからって言うのもあると思うから」
 自分の前にいる敵を捌くので精一杯だった。それがふがいない。だからできる限りのことはしたい、と小夜すけは独り言のように言った。話しかけること自体そんなに得意ではないだろうし、行光と小夜すけがそれほど仲が良かった覚えもない。なのに、最近二人が一緒にいるのを見かけるのは、小夜すけから必死に声をかけているからなんだろう。
「はは、でもいいんじゃねえか? 記憶なくしてから行光は明るくなったぜ」
 事実、他の刀からも、前より行光と喋りやすくなったという話はちらほら聞く。前は常に酔っ払っていたしすぐにガンを飛ばすような有様だったので、今の行光に比べればそれは取っつきにくいものだったろう。今は怒られたらすぐに素直に謝るし、自分を「ダメ刀」と卑下することもほとんどない。時々自信がなさそうな発言はするが、前と比べれば大した問題ではない。
 記憶を失ってから行光は生活がしやすそうに思える。なら、わざわざ記憶を取り戻すことなど、ないじゃないか。
「……でも薬研は」
「ん?」
「辛そうだよ」
 振り向くと、しっかりと小夜すけと目が合った。あまり、目を合わせて喋ることを得意としていない小夜すけには珍しいことだった。碧眼が、俺の心の内を見透かすように、まっすぐと俺の目を見つめる。
「………」
 ふっと俺は眉を下げ、笑う。諦めた笑いである自覚はあった。それに付き合いが長い小夜すけに誤魔化しは通じないだろう。変に笑顔を見せても、嘘だね、とばっさり切り捨てられるのが関の山だ。
「難儀なもんだよなぁ」
 行光が明るくなったのは良いことなのだろう。辛い過去がなくなったのは良いことなのだろう。今の行光は何も覚えていないから幸せなのだろう。ただ自分が刀だと分かっているのだから存在意義も見失ってはいない。仲間だっている。記憶がなくても他の仲間と、前より上手くやっている。良いことだ。良いことのはずだ。記憶喪失は想定外だったが、それでも怪我の功名だ。
 ――――そのはずだ。
「俺は前の行光が好きだと思っちまう」
 辛かっただろう。本能寺の炎を思い出すのも、一人で置いていかれた悲しさも、それから信長さんと蘭丸を救えなかった無力さもずっと背負っているのは、死ぬより酷だったかもしれない。
 でも昔のことを語る行光は、辛そうで、暗くて、そして誇りに溢れていた。自分は確かに愛された刀だったのだと、そこには後悔と共に確かに、幸せが滲んでいた。が。
「それでも行光が今の方が幸せそうなら、俺はそっちを肯定してやるべきなんだ」
「……それはあなたが、不動のことを愛しているから?」
 小夜すけにしては随分珍しい、直球な言葉に俺は驚いた。本人も自覚があるようで、気まずそうに視線を彷徨わせている。
「…そうだなぁ」
 胡座をかいて、膝をとんとんと軽く叩いた。甘酒を飲んで、機嫌が良さそうに歌うあいつを見ることはもうないんだろう。記憶がないんじゃ歌えない。
「……やっぱ好いた相手には幸せでいてほしいもんだ」
「薬研が不幸になったとしても?」
「ああ」
 俺の幸せより、行光が笑っている方がいい。
 多分行光が笑っていれば、俺もそのうち、ちゃんと笑えるから。

 その日の晩。夜も更けてきた頃に、薬部屋に来客があった。障子を開けて入ってきたのは長谷部だ。寝間着ではないにしても軽装になっている。これくらいの時間だと、丁度近侍の仕事を終えたくらいだろうか。別に一日にやるべき仕事は夕餉前には終わりそうなものだが、長谷部の場合、大将の負担を減らすのだと言い、余分に請け負っている場合が多い。
「何だ長谷部。こんな時間に」
「貴様こそ何だそれは。何の薬だ一体」
 長谷部の視線を追いかけて、俺は手元の試験管と横に置いている擂り鉢を見つめた。何というか、一言では表現しにくい色合いの薬が出来上がっている。……俺、何と何と何混ぜて何の薬作ろうとしてたんだ。
「……分からん」
「得体の知れない薬はさっさと捨てろ」
「酷でぇ言いぐさだなぁ。まあ流石に正体が分からなすぎるからそうするが」
 机の上にある薬品を片づけながら、問いかける。
「それより何しにきたんだ? もう皆寝てる頃合いだろう。言っておくが酒盛りの誘いなら丁重にお断りさせてもらうぞ」
「違う。不動のことだ」
 まあそうだろうなと、予想し得た用件にため息を吐く。俺はとりあえず長谷部を座布団に勧めた。相手も特に疑問も持たずそこに腰を下ろす。
「行光がどうかしたか? 上手いことやってるんだろう?」
「お前はもう諦めたのか」
 言外に、行光の記憶を取り戻すことを、と含まれているのを感じる。俺は天井を仰いだ。小夜すけに言ったことは嘘じゃない。行光が幸せならそれを壊す理由が、俺にはない。
「今の行光は幸せそうだ。ならもう、それでいいんじゃないかとは思ってる」
「そうか。夜眠れていないのに幸せに見えるんだな、お前には」
「……は?」
 行光が記憶を失ってから、初めての情報に俺は目を瞠る。
「…眠れてないのか?」
 具合が悪かったら薬部屋に来ること。人の体である以上、ある程度の体調不良は手入れではなく薬で何とかする方が楽だし、資材の消費にも優しい。それは流石にちゃんと覚えたはずだ。眠れていないなら一度くらいここに来ていて良さそうなものだ。言われれば睡眠薬くらい処方できた。
「……恐らくここ一ヶ月は、満足に寝ていないだろうな」
「一ヶ月……って記憶を失ってずっとじゃねえか! あいつそんなこと一言も!」
「夢を見ると言っていた」
「……夢? 何だ、もしかして、炎の夢か?」
 行光が悪夢に魘されることは、記憶を失うより前のときから多かった。うわごとは決まって信長さんや蘭丸の名前。あとは、熱い、とか、燃える、とか。明らかに、夢の中で本能寺の変を追体験していた。
 でも予想に反して、長谷部は否と答えた。
「背中を守ってくれる刀がいたらしい」
 背中を守る、と言われて俺が思い出すのは、一ヶ月前のあの日、俺と背中合わせになった行光の背中が、熱かったこと。体調が悪いのに気づいてやれなかった。だからこそ戦場でも動きが悪かった行光を助けてやれなかったこと。酷く後悔しているのは、今も同じだ。
「夢の中で、その刀は、上からの大太刀の猛攻で折れるんだそうだ」
 っ!?
「俺は折れてない! 行光が助けてくれた!」
 上から降ってきた大太刀。それはまさにあのときの戦場でのことだ。でも事実が違う。行光の背中を守っていた俺は、他でもないあいつに突き飛ばされて、間一髪で避けられた。
「だがあのときに熱に浮かされていたあいつは、どれほど正確に状況を把握できた?」
「っ……」
「……俺の言葉だけじゃ、やはり足りなかったようでな」
 はあ、と呆れたため息を吐く長谷部。
 俺は眉間に皺を寄せた。それにすぐ気づいたのだろう。暫く目を閉じていたかと思ったら、切れ長の目が俺を見据える。体に妙に力が入った。動けない。構わず、長谷部はゆっくりと、その口を開いた。

   ***

 小脇に抱えた不動の体は、異常なほどの熱を持っていた。加えてぼたぼたと流れる血。一歩間違えたら、折れる。力なく揺れている手足にぞっとしなかったと言えば嘘になる。
 早く走れば大きく揺れる。傷に障るのではないかと一瞬抵抗を感じたが、先ほど薬研に「感情を優先したものが戦場では死ぬ」と叱ったばかりだ。それに元々、あの男の刀だ、こいつは。この程度で折れるわけがない。柄でもないが、俺はそう信じた。そして、脇に抱えたまま右手で刀を振るい、敵を蹴散らす。邪魔だ!
 そうして暴れていると、うめき声のようなものが聞こえた。敵を斬り伏せながら、俺はそいつを抱える腕に僅かに力を込めた。
「生きてるか」
 ひゅうっと息を吸う音がする。微かに首が動いた気もしたが、生憎立ち止まってなどいられないので、俺が大きく跳躍したせいで動いたのか、本人の意志で動かされたのかは判然としなかった。
 何か言っているような気がして、舌打ちを堪えながら耳を澄ませた。くっちゃべっている余裕などないのだぞ、本当は。怪我人は黙って抱えられていろ。
「……や……やげ、ん、……は……」
 脳裏にかすめる。遠目に見えた、薬研を突き飛ばすこいつの姿。あれを見た瞬間に怒鳴りたい言葉が頭の中を殺到したが、とにかく早く駆けつけなければと動き出してしまった。一緒に戦っていた青江には悪いことをしたと思っている。
 背後に迫っていた槍を腰を屈めることでかわし、しかし頬に微かに傷がついたことに苛立ちながら薙ぎ払う。そして、ちらりと周囲を見た。青江と共に、果敢に飛び込んでいく薬研の姿が見えた。
「……無事だ」
 地面を這うようにして襲いかかってきた短刀をかわし、蹴り飛ばす。
「……そ、か……よか、った……」
 立て続けに正面からやってきた太刀の打撃を受け止め、鍔迫り合いをした後、圧し切る。同時に横合いから振りかぶってきた脇差の腹に柄頭をたたき込む。
「折れるなよ。不動」
 主は我々が、一口でも折れることを望んではおられない。そのために強くなったはずだ。主命ならば折れるなど言語道断だ。もちろん、……仲間としても。
 俺に恐れを成したか、一時的にだが攻撃がやむ。おかげで、へへ、と軽く笑うような声が耳に届いた。
「……折れ、ねぇよ……俺、は、まだ…なに…も、返せて……ない…から………」
 愛された分を返すことができなかったダメ刀。不動の口癖の一つだ。こいつはこんな状況下でもそれを言うのかと、眉根を寄せる。
「また信長の話か」
 全く、お前は織田信長が本当に好きだな。理解に苦しむ。
「……ちげー……よぉ……」
 途切れる息。震えた声。ぽたぽたと、俺の足元に、不動は血溜まりを作りながら、しかし今度だけは妙にはっきりとした声で。
「……薬研、に」
 急に不動の体の重さが増した気がした。完全に気を失ったのだろう。
 ……何だ。お前たち、ちゃんと通じ合ってるんじゃないか。なのにお互い気づいていないのか。面倒で不器用なことだ。
 ぎらりと、周りの敵の刃が煌めく。戦意喪失というわけではないらしい。俺も刀を構え直し、ずり落ちそうになっている不動の体を、脇に抱え直す。ぐったりとした体は、まるで死んだ人間のそれだ。だが、折らせない。絶対に連れ帰る。
 覚えておけ、不動行光。
「死ぬのは楽だが、主命を果たせないのは論外だ」

   ***

 これが、記憶のある不動と交わした最後の会話だ。
 そう長谷部は締めくくった。
「……何だよ、それ……」
 記憶を失う前に行光がそんなことを?
「…だが意識は朦朧としていた。いざ記憶を失ったと思えば夢の中でお前が折れる光景ばかり目にしている。あのとき俺が無事だと言った言葉は残らなかった。分かるか、薬研藤四郎」
 必死に今聞いた話を整理しようとしていた俺に声を掛けてくる。話を聞いていた時間はそれほど長くないはずなのに、口の中はカラカラに渇いていた。
「不動はまだ、お前が助かったと思っていない」
「……じゃあ、今のあいつが俺と、話しているのは……」
「お前≠セと気づいていないんだろう」
 心臓が嫌な脈の打ち方をした。記憶を失っているとはいえ、挨拶も自己紹介もした。それからは行光も俺のことを「薬研」と呼んでいる。なのに、面と向かっていてもあいつは、俺のことを見ていない。あのとき助けた―――いや。行光にとっては、助けられなかった俺≠ェ、まさか俺だと思っていないのだ。
「…確かに今のあいつは素直だ。無駄に噛みついても来ないし言うことも聞くしすぐに謝る。無邪気に笑う。俺としても扱いやすくて助かっている」
 だが、と付け足す。
「……俺はあれを、不動行光とは認められそうにない」
 そう言った長谷部の目は、まだ、諦めていなかった。
 ……俺は何をしていた。時間は沢山ある。もう一ヶ月も無駄に過ごしてしまったが、まだまだ。行光は折れていない。俺も折れていない。同じ本丸にいる。時間はある。
 詰めていた息を吐き出した。頭の中が迷いや後悔で埋め尽くされていたのに、霧が晴れたような感覚に陥っていた。
「…やっと生き返ったか、薬研」
「おかげさんでな。目が覚めた」
 目が覚めるのが遅い、と叱られた。最近長谷部には叱られてばかりだと思った。


「よう、行光。お疲れさん」
「………」
 畑当番から戻ってきたばかりの行光は、頬についた泥もそのままに、目を丸くして俺を見ていた。きょとん、という表現が一番しっくりくる顔だったと思う。
「……えと……お疲れ」
 汗を拭い、手に着けていた軍手を外してポケットにつっこみながら、疑り深い……じゃなくて、至極不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
「……何だ? 俺の顔に何かついてるか?」
「いや、ついてんの寧ろ俺の方だと思うけど」
 言って、ぴっぴっと指先で自分の頬の泥を払い落とす。自覚はあったらしい。
「お前から声掛けてもらうの、珍しいなぁと思って」
「……そうか?」
「おう。みんなは俺とお前が仲良かったーとか言ってたんだけどさ、お前妙に俺のこと避けてる気がしたし」
 どっかで怒らせたのかと思ってた。そう言ってはにかみながら笑う行光は、やはり知っているよりもずっと素直で、言葉が明瞭で、違う刀のように思えた。
 そうか。俺は、無意識下でお前のことを避けてたんだな。記憶が無くたって、行光が行光であることは変わりないのに。
「……すまん。避けてたつもりはないんだが、そう見えてたなら謝る」
「何でいきなり謝るんだよ。そのつもりじゃなかったんなら良いって」
 気の好い様子は、どことなく、織田の時代に蘭丸のもとにいた行光を彷彿とさせた。
 行光は、記憶がない自分のことをどう思っているんだ?
「なあ、行光」
「ん?」
「お前、記憶の方は?」
「あー……」
 気まずそうに目を逸らされる。逃げられてたまるかと思い、重ねた。
「夢見て魘されてるとも聞いたぞ」
「げっ、誰だよ言ってたの」
「長谷部」
「うわぁ、長谷部かぁ……丁度水取りに行ったときに会っちまったんだよなぁ……何で素直に言っちゃったんだろ……ああ、でも、大丈夫。どうせ、夢だし」
 余計な心配はかけまいと思っているのが分かった。
「何も覚えてないけど、俺は短刀で、つまり守り刀としての存在意義もあるわけだろ? それなら、あんな夢みたく守れないなんてことにはならないように、努力すればいいだけだ。戦い方とかは体に染み着いてるみたいで、覚えてるしさ」
 およそ不動行光とは思えない口振りだった。前向きだ。ぎゅっと拳を握って、笑ってみせる行光に、「ダメ刀」と自称していた頃を見出すことは難しい。こいつに全てを思い出させていいのか、記憶を取り戻すように努力することは、本当に、行光自身のためになるのか。また、判断が鈍りそうになる。
「……何て顔してんだよ、薬研藤四郎」
 呆れた声で笑って、俺の頭を撫でてくる。俺に触られることを嫌がっていた行光ならきっと、絶対にしない。
「そんな顔しなくても、記憶も取り戻す努力はするよ。別に諦めてねえし」
「えっ」
「えっ、思いだそうとしてないからそんな顔してたんじゃねえの? 違うのか?」
「あ、そう、だが……」
 思い出しても、お前のためにはならないかもしれないから。
 そう言葉を紡ごうとしたとき、行光が泣きそうに笑っていた。その顔が、何もかも後悔だらけであった、記憶があったときの行光と被って、思わず、どきりとする。こうして翳りが見える表情のとき、行光は綺麗だと思う。
「……何つーの? みんなすげえ良くしてくれるんだけどさ。微妙に、寂しそうっつうか。思い出さないかって、すげえ時々だけど確認されるし」
 前より喋りやすい短刀になったという周りは、結局、本来の不動行光を求めている。なら俺だって思い出したい。俺は恩を仇で返すような真似はしたくないから。行光はそう語った。
「俺も、元々誰の刀だったのかとかも分からねーのは流石に、気持ち悪いしな?」
 行光が思い出したいと願うなら、迷う必要はないと思った。
「……行光。俺も協力させてくれ」
「んあ?」
「俺も、お前の記憶を取り戻す手助けをしたい」
「あー……うん。ありがとな。じゃあ前の俺のこととか、色々聞かせてくれよ」
 俺は一体どんな顔をしながら喋ってしまっているんだろう。自分で自分の顔は、ここに鏡でもない限り確認のしようがない。でもまた行光は手を伸ばし、よしよしと俺の頭を撫でる。
「分かった。……じゃあまず一つ目だが」
「お、早い。何だ?」
「……前だったら絶対にお前は撫でてこなかった」
 びしり。ゆっくりと俺の頭の上で動いていた掌が衝撃を受けたように固まる。そうっと手が離れ、ごめん、と謝られた。
「……嫌だったか?」
「嫌じゃあないし寧ろ俺は歓迎なんだが、お前がそれはもう俺に触られるのを嫌がってなぁ」
「え、マジで」
「マジで」
 行光は考える仕草をして、首を傾げながら一言。
「……もしかして俺、お前のことは嫌ってたの?」
 正直その辺は俺が聞きたいところだし結構たとえ話でも刺さるもんがあるんだが。
「……さあな。流石にお前が俺のことをどう思ってたかは知らん」
「薬研は」
「俺は好いてたし好いてるぞ」
 がく、と膝から力が抜けるような具合で体を傾けた行光は、顔を真っ赤にした。
 な、な、な、と壊れた絡繰りみたく、次の言葉は出てこずに一文字をひたすら紡ぐ相手に尋ねる。
「どうした?」
「どうしたもこうしたもあるか! いや、好いてるって…いや、分かってる、そういう意味じゃねーことくらいは分かってるけど!」
「いやそういう意味でとってくれて一向に構わないんだが」
「直球過ぎるだろ何なんだよお前!?」
「すまん、言ったのは今が初めてだが随分前からだ」
「そういう問題じゃねえ!!」
 照れるとこんなに狼狽えるんだなぁと他人事のように(実際他人事だが)思いながら行光を眺める。褒めても「ダメ刀に気を遣ってる」だの、「世辞はいらない」だの言われるし、素直に受け取ろうとしなかった行光ではなかなか見れない様子だろう。
「あー……でもそうか、うーん……俺どう思ってたんだろうなぁ……」
 頭を抱えてしゃがみこんでしまった行光と、目の高さをあわせるように俺もしゃがむ。白衣が汚れるぞ、と指摘されたが別に構わない。
 耳まで真っ赤にして顔を覆っている行光に笑いかける。
「……まあ俺の気持ちなんか考えなくていい。今はつい言っちまったけどな。思い出して俺のことをどう思っていようが、お前の感情はお前のものだ。俺も別に無理矢理アレしたりコレしたりしねえよ」
「アレしたりコレしたりって」
「何だ? 具体的に言うか? 例えば夜―――」
「ごめんなさい」
 くつくつと笑う。今の行光は、俺が知る行光とは違うけど、でも、話しているとそれなりに楽しいと思ってしまう。記憶を失った行光と、ちゃんと話してみるまで気づかなかったが、俺は本当にこいつのことを、自分でも予想できないほど、思いを寄せちまっているらしい。罪な短刀だ、お前は。
「……その……色々整理が、つかねえんだけど……」
「すまんな、記憶に関係ない余計な情報与えて」
「いやそれは別に良くて。……返事、はさ」
 顔を覆っている手の、指の間から、紫の瞳が覗く。ん? と言いながら、俺は先を促した。
「……これから、今の俺が、お前をどう思っていったとしても、全部思い出してから……きっとするから」
「……返事してくれるもんと思って期待してたつもりもないが」
「お前のその心は鋼か何か? じゃあ何で言うんだよ」
 全く、と赤くなった頬を手で擦り、困った笑いを浮かべた。
「……言ったろ。俺は恩は仇で返す気はないって。薬研が前の俺に、そういう気持ちを向けてくれてたんなら、今の俺が答えるのは仇≠セと思う。だから前の俺がちゃんと返事しねえと。いい加減なことはしたくない」

 だから、記憶を取り戻したら、俺はお前にちゃんと言う。

 今の行光と交わした約束は奇異なもので、でも長谷部の話も知っていた俺は、卑怯ながらも期待していいのかと思ったりして。同時に、今の行光もやっぱり不動行光なのだと。愛された分を返せなかったダメ刀だと自称した、あの真面目な不動行光はここにいるのだと、やっと理解できた俺は無性に嬉しいと思っていた。
 勿論、記憶を取り戻すまで、戦いは終わらないと思っている。だから、気は抜かない。

 それからと言うもの、俺は折にふれて行光と喋るようにした。行光も最初は(多分気持ちを伝えたせいで)ぎこちなかったが、ちゃんと相手をしてくれる。配られたお八つなんかも必ず行光と食べるようにしたし、頼まれれば前の&s動行光の話も沢山した。それを別に嫌そうでもなく聞きながら相槌をうつ行光は、やはりらしくはなかったし、最終的な答えは「全然わからねえなぁ」というものだった。その後、決まって「ごめんな」と謝罪が入ってきたので、途中から謝罪は禁止にした。流石にそれには反抗しようとしたが、俺が物理的にねじ伏せた。行光が半泣きで頷いていた。許せ。謝ってほしいんじゃなくて俺は思い出してほしいだけなんだ。
 そのうち、行光の方も俺を見かけるとよく声を掛けてくれるようになったし、二人で喋る時間も増えた。
 だが思ったほど事は好転せず、時間ばかりが流れていった。もしかしたらと思って一緒に出陣させてもらったりもしたが、都合良く記憶が戻ったりはしなかった。初めの一ヶ月よりは俺が諦めていないし、多少は有意義になったかもしれないが、結局行光の記憶は戻ることなく、前途多難の状態だった。

[ prev / next ]

back
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -