■ ほんの少しの勇気 4/8

   ***

 月が綺麗な夜、布団の中で眠っていた不動は、ふと目を覚ました。頭の中をぐるぐる回る悩みが、彼を夢の世界から引きずり戻したのかもしれなかった。
(朝……じゃ、ねえな、全然)
 全くと言っていいほど頭は麻痺していない。目が覚めたばかりとは思えないほど覚醒していて眠気が欠片もない。寝たと思っていても、実のところ睡眠らしい睡眠はとれていないのかもしれなかった。
 ああ、くそ。声に出さないようにしながら心で呟き、嘆息した。
 違和感がある。恋仲になってから、ではない。恋仲になってからも、と言った方が正しい。決して極端な言い方をしているのでもなく、この違和感は顕現した日から、抱いているものだ。
 薬研藤四郎のことは好きだ。ちゃんと会えば胸は高鳴るし、傍にいてくれるだけで心は満たされる。もしいなくなったらと思うと背筋が凍る。感情面では、自分の薬研に対する思いの上では、問題ないのだ。薬研から注がれる愛を時折怖いと思うことは確かにあるけれど、それは自分が、注がれた分の愛を返せないかもしれないというトラウマ的な恐怖心のためである。充分愛してくれているのは重々承知だ。一切不満はない。……ただ、ある違和感が消えない。
(……分かってるんだ。何に対してか、なんて)
 不動は布団の中でそっと息を吐き出し、胸を抑える。どくり、どくりと心臓が脈を打っているのを感じた。
 そう。分かっている。何に対して違和感を抱いているのか、言葉で簡単に説明できてしまう。思っているばかりで、口に出したことはないのだが。
 恋仲になって結構経つが、薬研の近くにいればいるほど、言葉を交わせば交わすほど、違和感は大きくなる。まさか、と思いながら、追及できないでいる。見て見ぬふりをして良いものなのか分からない。この本丸にも、「そういう」刀がいるのは知っていた。だから伝えたところで問題ないのではないかと思うも、何か危うさを覚えるのだ。それがただ怖くて、勇気が出なくて、直接確認もできずもだもだとしている自分のダメさ加減には、ほとほと呆れていた。
 そして、さらに悪いことに、薬研は不動が違和感を抱いていることに気付いている。察しの良い薬研にまず隠し通すことは無茶な話だった。時折、大丈夫かと覗き込んでくるし、何かあれば相談に乗ると笑って見せてくれる。だが、他でもないお前のことで悩んでいるんだとは言えず、曖昧に答えは濁していた。最近は心配そうな目を向けて来ることが増えているが、不動が正直に答えないことはもう学んだらしく、何も尋ねてこない。
(……へし切に相談…)
 いくら本丸に馴染んできたといえど、いざとなると縋りたくなるのは、かつて縁があった刀だ。だが、ふと浮かんだ名前を慌てて頭を振って消す。
(…だめだ、あいつに言ったら絶対薬研のところに直接いく)
 そうしたくないから相談するのだ。直接話をしようとする刀は論外である。
(……じゃあ、宗三…?)
 慎重な刀ではある。時折ぶっとんだ発言をすることはあるが、言葉と行動は長谷部と違い直結しないタイプのはずだ。アクションを起こすにしても変な機動は見せつけないので止めることができる。
 考え始めたら、今すぐにでも相談したくなってきた。まだ起きているかは分からないが、宗三は意外と誰かの酒盛りに付き合わされていることも多いので、確実に寝ているとは言い難い。起きていなかったら部屋に戻ってきて、何とか寝直せばよいだけの話だ。
 衣擦れの音も最小限に抑えながら、不動は身体を起こした。隣りの布団で寝ている薬研を起こしてしまうといけないと思ったのだ。
「……薬研……?」
 ところが、隣りの布団は、誰もおらずもぬけの殻だった。何処に行ったのだろうと部屋の中に視線を巡らせてみるも、薬研の姿はなかった。厠にでも行っているのかもしれない。その間に自分がいなくなっていたら薬研が心配するだろうかと思い、手近な紙に手早く「すぐ戻る」と文字を並べ、枕元に置いた。
 廊下に出て、宗三がいるであろう部屋へ足早に向かう。裸足で歩く廊下は少しだけ冷たい。だが、目的の部屋へ着く前に、開きっぱなしになっている引き戸を見つけて、不動は眉を上げた。確かここは書庫ではなかっただろうか。書庫を使う刀剣は限られているが、この時間帯だと流石に籠りそうな者はいない。そこで、薬研が布団の中にいなかったことを思い出して、覗き込んでみる。
「おい、薬研〜? いるの、か……」
 目を、見開く。
「な、んだ、これ……」
 どくん、と心臓が一際大きく脈打つ。
 覗き込んだ書庫に、薬研の姿はない。代わりに、棚に収まっているべき本が散乱していた。震える足で中に入った。拾い上げた本の題名は、『織田信長という男』。は、と半開きになった口から声が出た。脈打つ心臓に合わせて、手が震える。その場で屈んで、床に散乱している本を次から次へと拾い、題名を見る。『戦国武将の生涯―織田信長―』、『織田家の歩み』、『戦国時代の記録』、『桶狭間の戦いを考察する』、『信長と秀吉』、『信長包囲網とは』、『京都御馬揃えから探る』……
 悉く、信長に関する、あるいは織田家に関する本だった。他の刀の生きた歴史を理解するためであるとか、審神者がきちんと知識を蓄えるために置かれている本。だが、最近で織田に関する刀は顕現していなければ、今更審神者が学ぶこともない。
 やばい。
 不動は、誰がこの本を読んだのか分かった。今まで自分が見てみぬふりをしてきたことは、やはり間違いであったのだと思い知る。自分がこれだけ悩んでいたのだ。相手は察しのよい刀。何に悩んでいるのか、気づいていたとしたら。
 ―――違う。
 持っていた本を投げ捨てて外に飛び出した。夜であるにも関わらず、叫ぶ。
 ―――何であいつ自身が気づいていないなんて思い込んでたんだ!
「薬研! 薬研どこだ!! 薬研!!」
 聞けば良かった。尋ねれば良かった。怖いとか、勇気が出ないとか、そんな小さなことは気にせずに、動けば良かった。自分は、自分で悩むばかりで、訊くのは憚られるからと跳ねつけて。結局薬研も、一人で悩んでしまった。
 既に寝入っていたであろう刀達が何事だと起き出してくる。しかし構わずに、不動は叫びながら本丸中を走り回る。すると、厨から顔を出した刀が怒鳴り声を上げた。
「何なんだ騒々しい!」
 長谷部だ。この時間に厨にいた理由は分からないが、彼のことだ。仕事をしていて小腹が空いたので夜食を作っていたか、飲み物を飲みに来たかのどちらかだろう。
 たまらず、不動は長谷部にしがみつく。
「へし切、薬研! 薬研見てないか!?」
「見ていない! だから一体何なんだ!?」
「一緒に探してくれ! もしかしたら、あいつっ」
 そのとき。何かが作動するかのような電子音が本丸に響き渡った。切羽詰まった様子であった不動と、状況が分からず顔を顰めていた長谷部の二人の表情が凍る。この音には耳馴染みがあった。だからこそ、焦る。
 不動が弾丸のように飛び出し、長谷部が遅れて全速力で彼を追いかける。
「おい不動、今の!!」
「ゲートだ! ゲートが開いた!!」
 耳馴染みがあるのも当たり前。先ほどの電子音は、本丸から出陣する際に必ず通ることとなる門が、何処かに繋がったときの音である。騒ぎを聞きつけた刀たちも、寝間着のまま部屋を転がり出て門に全速力で向かい始めていた。中には、咄嗟に掴んできたのか本体を携えている者もいた。
 門が見えて来たところで、一人の男の背中が見える。
「薬研っ!!!」
 大声で呼び止めれば、彼はくるりと振り向いた。だが、微かに笑みを浮かべるだけで、足を止めたりはしなかった。薬研は、門へと歩き続ける速度を緩めない。
「薬研、待て! 待てよ! おい!!」
 必死に手を伸ばした。だが、薬研は先ほど振り向いただけで、それからは一度も振り返ることはない。
「っ!!??」
 手が届くか否かというきわどい距離で、一閃が奔ると同時に指先に鋭い痛みが走る。怯んだ瞬間、腕を掴まれる。身体がふわりと浮かび上がった。ごめん、と声が聞こえた気がする。次に襲ってきたのは背中に強い衝撃で、肺から一気に空気が吐き出された。逆さまの視界で薬研が門を潜って行き、閉じられてしまうのを見届けてから、自分は彼に背負い投げられたのだと理解する。
「不動!」
 真っ先に追いついた長谷部が不動を抱え起こした。
 とうの不動は苦しそうに咳き込んだが、身をよじりながら首を伸ばし、あらん限りで叫ぶ。
「薬研! くっそ!」
 長谷部に続き駆け付けた厚藤四郎が、門のすぐ横に備え付けられている機械に近づいて手慣れた様子で操作し、使用履歴を確認する。
「場所は厚樫山だ!」
「おい薬研を連れ戻せ!!」
 厚が場所を叫び、不動の行動から兎に角薬研を止めなければならなかったのだと察した長谷部が咄嗟に指示を出した。瞬時の判断で、集まって来る刀の内の数人が、勢いを殺さず門へ向かう。
「了解、時間が惜しい、このまま行こう! 開けてくれ厚!」
「死ぬほど周回した俺らに任せとけ!」
「すぐに連れ戻してくるから!!」
 言われるままに厚樫山への門を開き、寝間着のまま、本体だけを携えたにっかり青江と和泉守兼定、堀川国広が脇目もふらず飛び込んでいく。
「……ちっ」
 その後ろを、大倶利伽羅が追いかけ、また門の向こうへ消えて行った。彼も勿論寝間着で、持っているのは本体だけだ。薬研を連れ戻すためだけで、決して敵の本陣に向かうことは目的ではないにしても、三人でしかも防具無しの状態で厚樫山に突入すると言うのは、無鉄砲すぎると判断したのだろう。
「伽羅ちゃん!」
「伽羅坊!」
 走り出て来る太鼓鐘貞宗に続いた鶴丸国永が、すかさず振りかぶって投げた。
 門を通るか通らないかというタイミングで、手を伸ばした大倶利伽羅が、きちんと受け取る。それは金の刀装・盾兵だ。
「頼んだぞ!」
 咄嗟に持ってきて投げ渡すことができたのはたった一つ。だが無いより遙かにマシだ。色黒の彼が通って行ったのを、声だけで追いかけた鶴丸の声も、どことなく緊迫していた。
 慌ただしく出て行った彼らを見送ると、夜特有の静けさが一度は戻って来た。何が起きたんだ、とざわめく中、興奮と混乱とで息を乱した不動は、ずきずきと痛む指にふと目を下ろして、固まってしまう。指先からは真っ赤な血が流れていた。弾かれたと思った指にできていたのは、切り傷だ。―――恐らく、薬研藤四郎という刀の、刃でできたものだった。
「っ……」
 不動が表情を歪める。その目に、見る間に涙が滲んだ。
「っ…あ……あ……」
 指にできた傷など、些細なものだ。きっと薬研はそれ以上に辛い。自分の選択は間違っていたのだと痛感する。でも気付くのが、遅すぎた。
「……俺のせいだ……!」
 身体を丸め、不動は流血する指を握るように折り込んで、拳を作り、それを胸に押し付ける。ぼろぼろと涙が零れる。嗚咽が漏れ、声もなく泣いた。
 長谷部は、そんな不動を強めに抱きしめ、恨みがましい目で門を見つめた。


 薬研を追いかけた者以外の、全ての刀剣男士が大広間に集合した。真夜中の時刻ではあったが、あんなことがあった後では、とてもではないが寝直すことなんてできるはずもない。できたらそれこそ神経を疑う。
 一頻り泣いて落ち着きを取り戻した不動は、宗三が持ってきてくれた冷やしタオルを目に当てながら、畳の上に腰を落ち着けている。寧ろ大変だったのは粟田口派の、薬研の兄弟達と他の短刀だ。何故彼が一人で門を通って行ってしまったのかを初めとした疑問が次々に浮上し、泣いたり喚いたりの阿鼻叫喚の有様である。
 どうにかこうにか太刀や大太刀の者があやしにかかり、何とか場の空気を治めるまでにはそれなりに時間がかかった。
「一体何があったんだい」
 ぐちゃぐちゃに泣いた五虎退や秋田藤四郎に冷やしタオルを配りつつ、燭台切光忠が切り出すと、不動は暗い声で答える。
「……全部俺のせいなんだ」
「あなたのせい、とは一体どういう意味で?」
 一期一振が尋ねる。声は落ち着きを払っているし、粟田口の長兄として流石の威厳だとは思うが、食い気味で尋ねてくるあたり、心中穏やかではないのだろう。隠しきれない焦りを感じた。
「……お前、さっきも自分のせいだと言っただろう」
 長谷部が目を細め、探るように不動のことを見つめた。
「自分のせい≠ニ言うからには、何が起きたか分かっているんだろう、お前は」
「不動。長谷部は、説明をしてくれないと力になれないと、言っているんですよ」
 横から宗三の声が飛ぶ。それに長谷部は不快そうに眉根を寄せたが、何も言葉は添えなかった。つまり、彼の言ったことは事実であるということなんだろう。
 不動とて分かっている。長谷部とは馬は合わないが、何かと気を遣ってくれているし良い刀であることくらい知っている。ぎゅっと握った拳に力を込めた。指先は微かに痛むが、既に止血はしてあるし包帯も巻いてあるので問題はない。
「……俺も、あくまで予想みたいなとこはあるんだけど……」
 ちらりと、並んで座っている鯰尾と骨喰に目をやった。
 視線を受けた二人はきょとんとした顔になり、互いの顔を見合わせてから確認するように自分達を指さす。
「俺達が、関係あるの?」
「関係があるって、言うか…その……あんた達はさ、昔のこと覚えてるか?」
 他の刀の表情が、不動の質問に硬くなる。
 顕現した当時から、鯰尾にしても骨喰にしても、「焼けて記憶がない」と明言している。今更、記憶がないことに後ろめたさのようなものを感じている節はあまりないが、辛いことがないわけではない。一期と共に大阪へ向かった際、鯰尾は自分が燃えない道を探りたいと思ってしまったし、骨喰は「久しぶりだ」と挨拶してきた三日月宗近に「誰だ」と言って、悲しい顔をさせてしまった。記憶さえあればと思うような場面はいくらでもあるのだ。
 誰もが、そんな鯰尾と骨喰の胸中は察していた。察するだけで、彼らにはどうにもしてやれない。だから二人に対しての記憶の話題をしてはならないというのは、暗黙の了解だった。
「何も覚えていない」
 骨喰が答える。
「俺の記憶にあるのは、熱い炎のことだけだ」
「俺も同じ。時々、記憶かもって思うものが見えたりすることはあるけど、はっきり言えるものはほとんどないかな」
「それは、やっぱり燃えたからだと思うか?」
 問いに、二人は頷く。覚えているのが熱い炎だけという時点で、記憶を失うことになった出来事にあたるものはそれくらいしかない。
 目許に当てていた冷やしタオルを下ろして、不動は考える仕草をしていると、黙っていた宗三が眉根を寄せた。
「……不動。まさか、薬研は……」
「…全部じゃねえとは思うけど」
 長谷部も宗三も顔を顰めているので、恐らく思い当たるものはあるのだろう。ならば不動が抱いていた違和感は気のせいではないはずだ。
 ずっと胸にしまい続けていたことを口に出すのは、思ったよりもしんどかった。錆びついた引き出しを引っ張っているような気分である。だが目を背けるべきことではないことも、よく分かっていた。

「……薬研には昔の記憶が欠けてる」

 不動は、自分が感じて来た違和感を全て吐き出していった。
 最初に感じたのは顕現したばかりのときだ。本丸を案内してもらって、最後に部屋へ連れて行ってもらったとき、何故自分のことをダメ刀と称するのかと尋ねて来た。それに、何を言っているのだと思いながら、本能寺のことを語った。自分は、何もできなかった。助けるどころか、間に合わなかったと言ったのだ。それに対して、薬研は何と言ったか。
『お前はちゃんと来てくれた』
 否だ。本当は、不動は薬研のところに、「行っていない」。比喩でも何でもなく、純粋に間に合わなかったのだ。必死に、信長と薬研がいるであろう部屋を求めて走ったが、たどり着く前に本能寺は爆発を起こした。何度も何度も呼んだのは確かである。だが当然、会話なんかできなかった。不動がちゃんと薬研の姿を見たのは、明智光秀率いる兵が攻めて来る前。外は任せたと、信長が蘭丸に伝える際、顔を合わせたきりであった。
 薬研はそうは言わなかった。彼の話をそのまま飲み込むとすれば、不動は間に合ったことになる。でもそんな事実はない。開きもしない扉を叩いた記憶なんてないし、炎の中から助けようと躍起になっていたことなど本当は薬研は知らないはずだ。最期に不動の声を聞けただけで充分だとも彼は言った。最期に不動は、薬研と喋っていない。
「そんとき、こいつ記憶ないんじゃって聞こうかと思ったけど、すげぇ嬉しそうに喋るし……今度また聞こうって思って、後回しにしてた。…でも初めて夜戦に行ったときに、薬研は、安土城での俺との会話を覚えてた」
 全て忘れてしまっているのに、都合のいいように記憶を捏造しているのかと思っていたが、それだけではないらしいと気付いた。
 嬉しかった。共有できる記憶があることが分かってほっとした。
 だが、一緒にいることが増えて、言葉を交わすことが増えて、違和感はどんどん大きくなる。覚えていることがあっても、話していると、忘れていることの方が圧倒的に多いということが嫌でも分かった。織田家にいた時代の、思い出話になるのは仕方ないのだが、どうしてもどこかで話が噛み合わなくなる。その内、薬研が楽しそうに話す「奇妙な」記憶を、そんな事実はないと言い出せずに不動がひたすら聞くばかりになっていった。
 でもそれでは薬研が寂しそうにするものだから、不動は慎重に話す記憶を選んで聞かせた。下手を打ったことは勿論ある。薬研がぽかんとしてから、慌てて笑顔で頷いている時なんかは恐らく、記憶にないことを言われたのだろう。でも彼は笑いながら話を合わせた。
「……へし切、宗三。噛み合わねえなって思ったこと、あるだろ」
 自分よりも聡いはずのお前らが気付かないわけがないだろう。言外に含まれた意味もすぐ汲み取ったらしい長谷部が肩を竦める。
「…俺達はお前ほど、織田信長の話はしない。……だが」
「薬研があの男の話をしたときに違和感を感じたのは、否定しません」
 でも不動のように沢山話をしないせいで、一時の勘違いだと思うだけだったのだろう。実際、薬研には記憶がないことによって悲観的になる側面もなかったし、本丸での生活は滞りなく送れていた。
 だから不動でさえ、今日まで気づけなかった。自分が考え込んでいたときに、薬研が考え込んでいたことに。
(昔からそうだった、あいつは)
 誰よりも傍にいて、彼を見ていた分、責任を感じる。昔の薬研を知っている。本質的に何も変わっていないのも分かっていた。
『どうした、行光』
『…………』
『……お蘭のことか? 珍しく大将に叱られてたもんなぁ』
『…………』
『…うーん。じゃあ、話してくれるまで、隣り、邪魔するぜ』
『……何で』
『お前の悩みはお前だけのもんじゃないってな。聞かせてくれ』
 彼は、誤魔化すのが上手すぎる。相談を受ける方が性に合っている、そんなことを言いながら自分の悩みは誰にも言わない。悩んでいる素振りも見せない。
『薬研、元気なくね?』
『そうか? ちと夜更かししたからな…眠いのかもしれん』
『ふぅん……そりゃ、俺たちは人間よりずっと丈夫だけどさぁ。あんまそういうことするなよなぁ』
『だが大将が起きてあれこれやってるのに俺が眠るわけにもいかねえよ。行光も、お蘭が夜遅くまで起きてたら付き合うだろ?』
『……そうだけど……って、信長様、最近そんな夜遅くまで起きてるのか!? 俺たちも手伝えたらいいのに…』
『まあ、俺たちは人間には見えんからなぁ』
 いつも自然体で誤魔化す。それっぽい理由をつけて、尋ねてきた相手が納得してしまう言い回しをする。そして、いつの間にか話題をすり替える。そうなるように仕向けて、言葉を進める。
『俺だって信長様の…蘭丸の刀だ、お前の助けくらいになれる!』
『はは、逞しいな』
『……だから……一人で悩まないで、俺にも、話せよ』
『………』
『……薬研』
『……そんな顔すんな。俺は大丈夫だ』
 誤魔化しきれないほど、辛いことがあったときでも。どんなに自分がいると訴えても、あの刀は何も言わない。逞しいとか頼りにしてるとか口先だけは頼るのに、いざ聞き出そうとすれば困った顔で笑うのみなのだ。
 薬研藤四郎は、そういう刀だった。
「……ごめん。俺がもっと早く何かしてれば……」
 不動は粟田口派の刀が固まっている方を向くと、深々と体を折った。
 話に聞き入っていた彼らは沈痛な面持ちで見返し、中でも前に座っていた乱がゆるりと首を横に振った。
「不動が謝ることじゃないよ。薬研は、不動と本丸に来てから、凄く嬉しそうだったし楽しそうだった。不動に話さなかったことは、僕たちにもきっと話してくれなかったと思う」
「恋は盲目ってこういうことかーって言うくらい、ぞっこんだもんなぁ、あいつ」
 便乗した厚が笑ってみせる。笑い方が薬研とよく似ていて、不動は一瞬見惚れそうになった。同時に、責任を感じている自分を安心させるために、兄弟刀である彼らは辛さを押し殺して笑っているのだと思うと、無力感と自分への怒りは一入だ。怒りが変な方向に滑って、これだからお前の眷属は、と薬研に怒鳴り散らしたくなってくる。
「でもそれなら、薬研はどうして本丸を出て行ったんだ? 不動のことが好きなら、忘れてることが多いことに気づいてもここに残ればいいじゃんか」
 太鼓鐘の発言も尤もだが、そこが薬研の難しいところだ。あくまで、彼の言い分は「薬研の記憶がなくても気にしない」、すなわち此方側の意見なのである。
「……ああ。だけど……薬研はずっと、俺が悩んでるのを心配してくれてた。……自惚れじゃなけりゃ、だけど。もし、それが自分の記憶が欠けてるせいだって考えてたら……あいつは………」
「……薬研は自ら折れようとするでしょうな」
 言いにくい予測を、はっきりと口にしたのは一期だった。全員の顔に緊張が走り、不動だけが唇を真一文字に結んだ。
「…弟は皆責任感が強く、粟田口の刀として誇りを持っております。ただ、薬研は責任感が強いと同時に、不動殿と似た部分も併せ持っている。自分のせいで起きたことは、自分を酷く責めながら、全力で何とかしようとするでしょう。しかし……」
「……記憶が無いのは、どうしようもない。ならば不動に浮かない顔をさせる自分は消えてしまえば良い、か」
 一期の言葉を次いで言った長谷部は顔を歪め、馬鹿がと吐き捨てた。
 織田信長の時代が終わった後の世で書かれた作品を読み散らかしたのは、自分が失っている記憶を再確認したかったからなのか、それとも記憶を求めてしたことなのかは分からない。だが薬研は嫌と言うほど自覚してしまったのだろう。自分に欠けているものを。
 不動とて思う。あの馬鹿、と。
 あくまで推測の域を出ないが、ほとんど確信していた。何故なら、彼らは分霊である自覚がある。自分たちがいなくなったところで、本丸での記憶や経験がリセットされた新しい自分が顕現することが可能なことを知っている。演練でも他の本丸の自分に出会ったことはあるし、実際に言葉を交わしたこともある。本丸ごとに個体差があるのも知っている。
 炎に焼かれたことで、記憶が欠けるというなら。「昔の記憶を保持していない不動行光」がいる可能性だって勿論ある。そして、「昔の記憶を保持している薬研藤四郎」がいることも、誰も否定できはしない。
(お前以外の薬研なんかいらねえよ)
 何も分かっていない。織田にいた時代の話がどんなに噛み合わなくても、寂しいと思っても、不動が好きなのは今、恋仲である薬研だけだ。きっと新しい薬研藤四郎を顕現されても、その薬研と恋仲にはなれない。関係を築くのは早かったけれど、安易な気持ちで恋仲になったつもりはない。簡単に他の同位体で上書きできはしない。
 でも薬研は周りに頼らない分、良くも悪くも自分の意見に自信を持っている。自分のことになるととくにだ。だから急にこんな動きをしたのだろう。
 指に巻いている包帯をそっと撫でて、顔を顰めた。
 門を通って行った薬研の後を追いかけたのは、かつて、厚樫山で地獄の周回を経験したと言う刀達だ。何でも当時、かの天下五剣が存在すると噂され、政府から早急に手に入れるようにとお達しがあった際、審神者の指示の下死に物狂いで探し求めたのだと言う(問題の天下五剣の一口は無事発見され、現在集合している刀達の中に並んで座っている)。おかげさまで彼らはあの戦場に関してはまるで庭のように走り回れるし、練度も十分であるので信頼できる。
 早く帰ってこい、薬研。
 祈る気持ちで両手を組み合わせた瞬間、
「っ!?」
「ゲートの音!」
 丁度のタイミングで、また、本丸に電子音が響いた。門が開いた音である。
 先ほどとは違い、全員の目がしっかりと覚めていたこともあって、皆が我先にと外へ飛び出していく。急ぎすぎて誰かは判然としなかったが、襖を盛大に蹴倒したりもした。だが今は誰も咎めなかった。あとではめれば良い。
 無論、不動も急いで外に出て、裸足のまま縁側を飛び降り、門へと走った。気を遣っているのか、そのすぐ傍を長谷部と宗三が走った。不動が心を比較的許している刀が傍にいるというのは、やはり、心強かった。だから無根拠にも、大丈夫なはずだと思った。戻ってきた薬研は落ち着きを取り戻して、先ほどのことを謝ったりするのだろうと思った。
「――――え」
 だからまたしても、最悪の方向に予想が裏切られると、思考は停止せざるを得なかったのだ。
 向かった門から帰ってきたのは、にっかり青江、和泉守兼定、堀川国広、大倶利伽羅。……薬研藤四郎の姿は、無かった。
 戻ってきた彼らは全員、傷だらけだった。大倶利伽羅だけが他三人を両脇と背中とに無理矢理抱え込み、よろついた足で門を通ってくる。が、数歩歩いたところでずしゃりと膝をつき、倒れ込んだ。
「伽羅ちゃん!」
 燭台切が叫び、伊達の刀が一斉に駆け寄る。
「青江さん!」
 普段は緩慢な動きである石切丸が血相を変えて叫ぶと、大急ぎで彼らの元へ向かった。
「和泉守!」
「堀川!」
 驚愕して固まっていたが、他の刀らの声で我に返ったのだろう。一拍遅れてから加州と大和守が急いで傍に寄る。
 それから、誰からともなく、帰ってきた彼らに走り寄る。近くで見れば、皆痛々しい傷を体中に負っていた。寝間着の至る所から血が滴り落ち、顔色は真っ白。意識があるのは大倶利伽羅だけだが、彼も意識がある方が不思議なほどの怪我を負っている。
 燭台切が大倶利伽羅を抱え起こすと、ころころと丸い玉が転がった。黄金色であったそれは真っ黒になり、ひび割れている。もう何も効力がない刀装だった。
「すま、ない……」
「どうしてこんな……!?」
「何でだよ伽羅ちゃん! 伽羅ちゃんならあの戦場の敵なんか大したことねえだろぉ!?」
 しぶく血を止めようと、気休めにしかならないものの傷口を手で抑えてやる燭台切の隣で、太鼓鐘は涙声で言った。すると、大倶利伽羅は顔を顰めたまま、違う、と吐息と共に言葉を吐き出す。はくはくと開閉される口は、言おうとしているにも関わらず、なかなか言葉が声に乗らないようで、もどかしそうだった。喋っちゃだめだよ、と燭台切が心配そうに叱るものの、それでも喋るのをやめようとしない。
 どうしても、何かを伝えたいようだった。様子を眺めていた鶴丸が、彼の金色の瞳が、不動に向いていることに気づいた。微かに目を見開き、息を呑んでから腰を屈める。焦点はあまり合っていないが、傍を動いた鶴丸に大倶利伽羅の目が寄った。
「……伽羅坊たちは敵にやられたわけじゃない。合ってるなら瞬きしてくれ」
 すると、傷だらけの伊達の刀は、口を開こうとするのをやめて、一度、はっきりと瞬きをして見せた。
 敵にやられたわけではない、ならば一体誰が?
 はくり、とまた彼は口を開けた。今度は、きちんと言葉が、声に乗る。
「……や……げ、ん……」
 震えた声は、決して大きくはなかったけれど、よく聞こえた。
 そしてやっとの思いで告げた大倶利伽羅は、意識を失った。



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