■ ほんの少しの勇気 2/8

 ――――?年?月?日。
 火の爆ぜる音がする。焦げて、支えが利かなくなった天井の木材が、がらがらと音を立てて、傍に落ちて来た。他人事のようにそれを眺めてから、徐に目を上げる。部屋の中央では、腹に刃を突き立て倒れ込んでいる男がある。まだ、微かに動いているので生きてはいるのだろう。しかし、炎に包まれたここで、血を流してああして蹲っている状態を、「生きている」と表現して良いものか。
 ここに人間は、彼しかいない。すなわち、本来切腹の際に必要とされる介錯人がいない。人間というのは案外しぶといもので、腹に刃を突き立てたところでさっさと黄泉の国へ去ることはほとんどないのだ。ましてや彼は、腹以外はほとんど無傷である。
 こつりと頭を後ろに倒し、扉に預けた。つっかえ棒で止めてあるこの扉はもう開くことはない。開けようと思えば開けられるが、生憎、開けるつもりは毛頭なかった。
「信長様、薬研っ、なあ、いるんだろ、いるんだろって! 返事しろ!」
 どんどんと、叩きつけられる拳を、扉越しに感じる。
 視界は赤くなっていく。熱い、と思いながら、自分は立ち上がって逃げようとは思わなかった。己の主がそこで、人生に幕を下ろそうとしているのだ。しかも、この炎を放った家臣に対して最後、「天晴れである」などと宣って。ならば、懐刀である自分も共に、同じ場所で、同じ時に果てようと思うのは、当然の願いだろう。
 泣きそうな声が外から聞こえる。いや、きっと泣き虫の、愛されたがりのあの刀は、泣いている。
「行光」
 口を開くと、喉が焼けるように熱くなった。咳き込むことはないのは、彼が人間ではないからだろうか。ただ、人でいうところの肺に、煙が目一杯溜まっていくのが分かる。ぼんやりとした頭に、終わりの文字が浮かぶ。
 扉を叩く音が止む。
「薬研っ」
「ありがとうな、今まで」
 少し間があった。それが、彼の困惑している時間だと察するのは簡単だった。
「何、言って…! やっぱり、そこにいるんじゃねえか! 今ならまだ間に合う! ここ開けろよ! 急がないと、このままじゃ、お前も信長様も!!」
「大将は死んだよ」
 息を呑む気配がした。
 どんっ、と音がしたのは、扉の向こうで崩れ落ちたせいか。
 視線の先で、炎が蛇のように床を這い、男を包み込んでいくのが見える。熱いだろうに、もがくこともなく、男はじっと丸くなったまま動かなかった。こうなっては死装束さながらである白い寝間着に、火が燃え移った。煌々と輝く炎は、男の魂を誇張しているかのようだ。
「俺も大将と逝く」
「薬研……」
「ずっと懐に入れてもらってたんだ。三途の川渡るときに、もし俺が懐にいなかったら、大将が焦っちまうかもしれねえだろう」
 不思議と、心は落ち着いている。言いながら、三途の川ってどれくらいの規模の川なのかな、とか考えるほどの余裕があった。
 扉の向こうにいる刀は、寂しがりやだ。懐刀となると往々にしてあることだが、彼の場合、愛された分いっとう誰かの傍にいたがった。自分にもよく寄り添った。だから、残していくことは心配だけれど、出会いがあるから別れもあるわけで。見目はともかく、子供ではないのだ。人よりも長く世を生きた付喪神なのだ。聞き分けがないわけがない。
 現実を受け入れることなど、今までもしてきた。それと何も変わらない。
「さよならだ、行光」
 ――――ガラガラガラガラガラッ!!
 天井が降って来る。
 薬研藤四郎は、目を閉じた。




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