糸紡ぎを捨てたあと.1






 ちょっとした意趣返しのつもりだった、と言えなくもない。
 社会人になった途端、肩甲骨にかかるほど伸びていた茶色い猫っ毛をレオンティウスはさっぱりと切ってしまった。「新人としては、こちらの方が有能そうに見えるだろう?」と照れくさそうに笑い、真新しいスーツの襟元に収まった後ろ髪を片手で撫で付ける彼はいかにも身軽そうだった。その時は単に見慣れない気がしただけだったが、後になってエレフは少し腹が立ったのである。
 エレフもレオンも癖毛だ。梅雨になれば互いに湿気を吸って爆発する頭を、どうにか落ち着かせようと長年苦労してきた仲だった。
 一抜けされたようで面白くない。私も切ろうかなと言えば、エレフは女の子だから長いままでもいいんだよ、と言われたのも引き金を引く一因になった。つまり女は有能に見えなくてもいい、と言う事か。へえ?

 そうした訳で場面は変わり、高校卒業と同時に家を出て、大学時代から一人暮らしをしていたレオンのマンション。親の会社を継ぐ事は決まっているから、せめて住む場所くらいは離れてみたかったのだと言っていたが、それでも結局は代わる代わる家族が入り浸る場所のひとつになっている。今日も今日とて大学帰り、貰った合鍵で室内に入ったエレフは、待ち伏せのつもりでソファに脚を組んで座り、買ってきた雑誌を読み始めた。一人で待つのは慣れている。実の兄とそういう関係に――両親の目から逃れて夜を過ごそうとするくらいに――なってからは特に。
 レオンが帰宅したのは日が沈み、カーテンを閉めて明かりを灯した頃だった。遊びに来ている事はメールで連絡していたが、他には何も伝えていない。だから「ただいま。エレフ、いるのか?」と暢気な顔で帰宅したレオンの笑顔が、時を止めたようにかちんと凍るのを、エレフは小気味よく眺めていた。
 が、実際ここまでの反応とは思っていなかった。
「…………いくらなんでも落ち込みすぎだろ……」
「分かってない。エレフは分かってない」
 肩口できっぱりと切り揃えた銀髪。緩くうねっていた部分は既になく、毛先は控えめにくるりと内側へ。
 そんなエレフを後ろから、悪戯した猫を取り押さえるように抱きすくめて、レオンは深く溜め息を吐いた。
「エレフは私を喜ばせるのが上手いが、傷つけるのも一番上手い」
「人を悪い女みたいに言うな」
「私がどんなにこの髪が好きだったか、知らなかったわけじゃないだろうに。……本当に、随分と思い切ったね。どこのお嬢さんかと思ったよ」
 心底がっかりした、同情を誘う声。やろうと思えばいくらでも感情を取り繕える癖にそれをしないのは、こちらに罪悪感を与える為なのか。未練がましく短くなった三つ編みを指に絡め、ふた巻きするには長さが足りず、するりと抜けていくのを何度も確認している。美容院では鋏を入れるたびに頭が軽くなり解き放たれたような開放感を覚えたが、その代償のように、今は不貞腐れたレオンの顎がずしりと置かれていた。
 正直、意外だ。驚かせてやろうと思っていたのは確かだが、どちらがいいかと洋服を選んでもらう時でさえ自分の好みを押し付ける事のない兄の事。新しい髪型も似合うねと、期待はずれの反応で、軽く流されるのではと予想していたのに。
「別に、中学まではこうだったろ。そんなにショック受けるほどのものか?」
「まあ、確かに懐かしくもあるけれど……ミーシャは何て言ってた?」
「やっぱり驚いてたけど、似合うよって。レオンもそう言うかと思ったのに」
「確かに似合うよ。例えばもっと短い……そうだな、ベリーショートにしてもきっと似合うだろうと思うし、手入れの手間が掛からないとかイメージを変えたいとかお洒落だとか、そういう理由で髪型を変えるというのなら、それは本人の自由なのだから別に反対はしない――が、私個人の男心として、残念に思うのは止められないのだ」
「自分だって派手に切っただろ」
「…昔の事を持ち出すね。あれは理由があったからだよ。それに実際、そろそろ邪魔だと思っていたから」
 後ろを向いて相手の顔を見ようとしたが、まだ駄目、と片手で頭を押し留められる。もう片手は腹部に置かれていたが、やはりそこも固定されていた。
「おい」
「我慢して。まだ見慣れないんだ。心の整理がつかない」
「そんなに?」
「そんなに」
 レオンの指が三つ編みから離れ、切り揃えた後ろ髪へと移った。皮膚を掠っていく優しい感触がくすぐったい。予想以上に相手の落ち込み方がひどかったのでエレフは大人しくされるがままになっていたが、容易くうっとりするのも癪なので、脚を縮め、防御の姿勢を取る。
「これもボブと言うのかな。随分と行儀がよく見えるよ。……指通りが良すぎて、少し寂しいね。前はあんなに絡んできたのに」
「やらしい言い方は止めろ」
「む、そうか、悪い。それにしても下を向いたら落ちてきて、意外に邪魔になるんじゃないか?」
 そう言いながら横髪を耳に掛けてくる。
「私も髪を切った当初、それで困ったんだ」
 耳朶に乗ったのも束の間、ぱらぱらと順繰りに落ちてくるのが分かった。口元まで零れてきた髪の毛を軽く首を振って払おうとすると頭突きしそうになり「おっと」と背後で避けた気配がする。
 レオンはそのまま形を確かめるように後頭部を撫で始めた。暇になったエレフはローテーブルの上に乗せた雑誌をまた読もうかと思ったが、レオンの片手がまだ胴に回っているので身を屈められない。目の前には真っ暗なテレビ画面と緑色のカーテン、それから観葉植物の鉢。せめてテレビをつけておけば良かった。レオンもそろそろ部屋着に着替えないと、せっかくのスーツが皺になるのに。
「っ」
 その時、すっと、うなじの産毛を逆撫された。先程までと違って明らかに熱の篭った仕草だ。曲げた指の背が上に行くに従って伸び、冷たい爪の無機質な感触が、ぞくりとするほど官能的に響く。
「……っ、文句言ってた癖に、機嫌直るの、早すぎるんじゃないか?」
「前向きに考える事にしたんだ。ここが見えるようになったのは――良い事かなって思って」
 ひたりと、うなじに再び触れたのは唇。声を発する震えがそのまま伝わる位置だった。遮るもののなくなった首筋の涼しさを咎めるように、髪の際をなぞるように点々と落とされるリップ音。歩を進むように襟元の隙間に潜り、背筋へと下がっていく感触。続いて緩やかに頬擦りされ、とくとくと鼓動が早くなった――期待していなかったと言えば嘘になる。
「レオン」
 身をよじって後ろを振り返る。我ながら咎める声には聞こえなかった。右手を後ろに回して短い髪の間に指を通し、わしわしと掻き回せば、相手の息を飲む気配が返ってくる。
 ちらりと目線がかち合うだけで体に火が灯ったようになった。底の見えない、けれども熱の孕んだ目。もがく間も与えられず顎に指が掛けられ、引き寄せられ、そのまま唇が重なり合う。
 浅い場所で繰り返すキスの合間に、服の裾から手を差し入れられ、へそと腹の狭間を撫でられた。ぞくぞくとしていると、下着の縁に指をかけられ、そのまま下に引き摺り下ろされる。はみ出した窮屈な胸の丸みを包み込まれると、口付ける唇が戦慄いた。指先がきゅっと胸の先端を摘む。
「……スーツ」
「ん?」
「着替えてから、に」
 しろよ、と続く言葉もキスに飲み込まれた。だが惜しむようにそれが離れると、レオンはあっさりと手を引き戻す。
「……そうだね、ゆっくりできないし、腹も減ってきたな。そうだ、ご飯も先に食べに行こうか。ちょうど冷蔵庫に何もなくなったんだ。あまり遠出は出来ないけれど、何か食べたいものはある?」
「…………」
 我が兄ながら、この自制心の強さと切り替えの早さは見事である。しかも意地悪で言っている訳でもない。跡継ぎとして育てられたせいか目下の者に配慮するのもごく自然な行動なのだ。せいぜいスーツを脱いで寝室に移る程度だと思っていたエレフの方が、急な方向転換に拍子抜けする。
「あ……パスタ?」
「パスタか。それなら家にもかろうじて残ってたが……いや、やっぱり外食の方がいいな。ちょっと着替えるから待ってくれ」
 レオンはよいしょとエレフを立たせると、車のキーを取り出してサイドボードに置き、背広を脱ぎながら寝室のクローゼットへと向かった。残されたエレフは何となく釈然としない気持ちで衣服を直し、小さく息を吐くと、火照りを冷ますように掌でごしごしと首筋を擦る。髪が短くなるとこういう時に赤味が隠せなくて不便だなと、ようやく思い至った。
「ちゃんとハンガーに掛けて来いよ。さっきのせいで皺になってるかもしれないから」
 負け惜しみのように声を掛けると、そうだなと、何でもなさそうな返事がこだました。


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