Laurencin×Hiver









 抱かれた時よりも、抱いた方が、後味が悪い。
 一度沸騰した頭が冷静に戻るのが怖くて、イヴェールは半ば逃げるように場所を後にした。呼び止める声が聞こえたような気もしたが、何かを考えるのも面倒で、衝動の赴くまま芝生を駆ける。
 ――こんなつもりではなかったのに。
 ローランサンの視線を受け止める事が今になって耐えられなかった。どんな釈明もしたくないし、出来そうにない。先程までは見えていた自分の感情の波が、急にぐちゃぐちゃと絡まって揺らいでいる。
 屈辱を受けた鋭いあの眼が、自分をどう見るのだろう。軽蔑か、戸惑いか、それとも別の何かだろうか。
 想像がつくようでつかない。ローランサンから以前「お前は何を考えているのか分からん」と文句を言われた事があったが、イヴェールからして見ると、彼だって同じくらい行動の読めない相手だ。冷静さを欠いた状態では、尚更。
 ローランサンと深い関わりを持つ気はなかったし、仕事仲間としてちょうど良い距離を保つ事に留めていたのに、何がしたくて自分は今回意味の分からない癇癪を起こしたのだろう。
 最初はただの事故だったし、次は単なる悪乗りだ。男同士、笑って済ませられる。なのに何故あんなに許しがたく思えたのだろう。
 ――忘れていたから?
「…………」
 イヴェールは唇を引き結んだ。あの晩の事を思い出すことは容易かったが、それを説明しろと言われると今度は途端に難しくなる。たぶんローランサンほどではないが、自分も酒に酔っていたのだろう。そうでなければ絆されはしない。
 最初、肩に手を掛けられた時、誰かと勘違いしているんだろうと思った。
 喜ばしくない事にイヴェールは元から女顔で、酔っ払い相手に絡まれると碌な記憶がない。妙に間近に覗き込んでくる相方を適当に振り払おうとすると、そこで目が合った。
 人は笑うと子供っぽく見えるものだけれど、口の片端を上げて微かに目を細めるローランサンの薄い笑いには、彼の内だけに留まる自嘲の影が常に差しているようにも見える。来るべき時の為に力を蓄え、相手の心臓を食い破ろうと、じっと息を潜めている暗い焔。張り詰めたそれを一点でも崩したら、何をしでかすか分からないような――ぎりぎりまで絞られた弓のような――そんな種類の凶暴さが常に瞳に宿っていた。
 しかしその時、その光は全て抜け落ちていた。笑ってもいなかったし、いつも刻まれている眉間の皺さえない。恐ろしいくらいに真摯な表情に、イヴェールは虚を突かれた。
「……なあ」
 ローランサンは一言そう呟いたきり、黙ったままだった。いつにない真面目な沈黙に続きを待たなければならない気に駆られていると、言葉は飲み込まれ、視点は一転し、倒れ込むようにして床に押し付けられていた。
「イヴェール……」
 酔っているのに口調ははっきりとしている。戸惑ったまま見上げていると、細かく震えているローランサンの手が何かにすがるようにも見えて、そしてようやく何もかも腑に落ちたのだ。
 ――怯えているのか。
 一生涯、彼を駆り立てずにはいられない復讐者の宿命に。失ってしまった物の大きさに。この先浴びるであろう血の緋さに、怯えているのだと。
 そのまま彼に抱かれたのは同情したからではない。確かにあの晩のローランサンには背を撫でてやる誰かが必要だったのかもしれない。だがイヴェールにそんな義理はなかった。
 無愛想な男が妙に気弱な表情をしていたから、頼られているようで嬉しかったのかもしれない。あるいは寒さに凍えた小鳥を両手で包み込むような気持ちで、単に放ってはおけない気がしたのかもしれない。それとも、同じように輪廻の業を背負った相手に共鳴したのだろうか。
 しかしイヴェールはただ、彼を見上げて微笑んだだけだ。彼の物語に自分が組み込まれたという、不思議な感覚が快楽を後押しする。他人の哀しみに触れるのは、何故か滑稽なほど愛しい。
 その晩の事をローランサンが忘れたと聞いても、特に最初は気にも留めなかった。むしろ深刻に考えすぎていた自分がおかしくなったくらいだ。酒の力がさせた一晩の戯れだったのだと思えば、相手の貴重な一面を見れた夜だったと笑い事にしか感じなかったというのに――。
「……っ」
 理解しがたい苛立ちが閃光のように走った。駆ける足が気持ちを映すように、ぐらりと傾く。振り返ってもローランサンは追ってはこない。イヴェールは軽く舌打ちをして、木の幹に片手をかけた。眩しすぎる木漏れ日が目に痛い。
 元からの体質なのか、それともやはり通常の輪廻から外れているせいなのか。
 自分の身体が他人とは幾らか違うようだと、随分前から気付いてはいる。異様な程に眠りが深く、ほとんど寝返りも打たなければ呼吸も僅かだった。護身の為にそれなりの武術もこなせるのだが、長時間となると眩暈がして動く事を許してくれない。
 恐らく、誰かを愛しても子は成せないのだろう。これは最初から行き詰るように定められた仮の生。どこにも繋がらずに断ち切られるばかりの、実感のない命。
 だからだろうか、とイヴェールは苦笑する。“忘れ去られる”という事に、あれだけ自分が引っかかったのは。
 先程は子供の癇癪のように体を重ねて、ただ傷付けたかっただけだ。自分の中にわだかまった怒りを、ローランサンに思い知らせたかっただけ。
 そう割り切っていたはずなのに終わった瞬間に沸き起こったのは、目の前が暗闇に閉ざされたような単純な恐怖でしかない。
 ――友人を失った。
 息を整える為に足を止めている間にも、背後の林から足音が聞こえてくる事はない。それに安堵する自分と、失望する自分とがいる。
 宿屋に帰れる気はしなかった。





 * * * * * * * *





「何だい、大の男が仕方ないね。一文無しなのかい?」
「……そんな所かな」
 一回自棄になってしまうと早いもので、イヴェールは逃げ込んだ酒場で持っていた小銭を使い切ってしまった。既に夜は色濃い。支払いにツケは効くかと尋ねた彼に、酒屋の女将は呆れ返って豊満な体を仰け反らせている。
「でもこれだけ飲めば納得だよ。おたく、顔の割りに強いねぇ」
 何しろ飲み比べしていた近所の男達が、ことごとくテーブルに突っ伏して潰れている状態なのだ。優男のイヴェールがここまで酒豪だとは予想外だったらしい。下心のある連中を打ち負かすのは良い気分転換になったが、失策だったのは、財布を前の宿に置いてきてしまった事。
 今夜を遣り過ごす当てもない。そもそもローランサンの所に戻ろうか戻るまいか、それすら決めかねていた。今となっては全てが苦すぎて、かえって真面目に悩むのも阿呆らしい。大切に思っていた荷物の重さに嫌気が差した途端、それがどれだけ重要な物であれ、一度は遠くまで投げ出したくなる。
 ローランサンは今頃どうしているのだろう。怒って自分を探しているだろうか。それとも愛想をつかして街を出て行っただろうか……どちらも上手く想像できなかった。
「私が払おうか?」
 ぼんやりと思案に暮れていると、傍らから差し出された右手が硬貨をカウンターに置く。頬の隣を通り過ぎた腕を目で追うと、作られたような笑顔で見知らぬ男が立っていた。
「そこで見ていたが、気持ちの良い飲みっぷりだったからね。飲み比べの賞金代わりにこれくらい出しても惜しくない」
「それは有り難いが……」
 男の年はイヴェールよりも幾分上のようで、仕立ての良い裕福な服を着ている。横目で硬貨も眺めたが、不純物の少ない本物のようだ。口調もこの辺の界隈にしては洗練されているので、もしかしたら商家の息子か何かかもしれない。
「その代わりと言ったら何だが、こちらで一緒に酒に付き合ってくれないか。見るところ、まだ飲めそうな顔をしているじゃないか。な?」 
 男は意味ありげに笑う。イヴェールは一度瞬いて、ゆっくり相手を観察した。酒と違う熱が男の目元を赤らめているのを見ると、まあ、そういう事なのだろう。先に値踏みされていたのは自分の方か。
 呪いのせいで仮初の生を歩むイヴェールにとって、性交も身体に付随する意味の薄い一つの感覚でしかなかった。利用できるなら利用してもいい。こうした誘いを受けるのも初めてではなかった。
 それでも普段なら相手にしない輩だ。だが一番楽な方法は何だろうと算段してみても、剣を使って相手の金だけ巻き上げるには少し酔いすぎてしまっている。男は肩幅があり、それなりに体格が良かった。
 ――酒で薄まらなかった鬱憤を忘れるには、一番容易い手だろう。
 イヴェールは軽く浮かべた侮蔑の色を隠しながら、誰に対しての皮肉だか分からぬまま殊更優雅に席を立つ。薄く浮かべた承諾の気配に、向かいの男が色めきたった。
「……いいですよ」
 自棄になってしまうと早いもの。今夜の宿を手に入れる。






 * * * * * * * *






 多少品が良さそうだからと承諾したものの、甘い期待だったようだ。
 時間が流れるのが遅い。夜が引き伸ばされる。
「……ぁ、放……し、ッ」
 相手の手によって戒められた自身が、開放を求めて痛いくらいに脈打っていた。躾けられた獣の体位で、引きつる足は膝から崩れ込む。絶頂を極められない苦悶で、涙だか唾液だか分からないものが絶えずイヴェールの唇を濡らしていた。
 男は焦らして相手が泣き喚くのを見るのが好きなのか、なかなか吐精まで辿り着かせてくれない。主導権を握られた体勢では振り解こうとしてもすぐに押さえ付けられてしまい、仕方なく爪先でシーツを蹴って波を遣り過ごそうとするが、背後にのしかかる男の下腹が押し付けられる度に衝撃で目が眩んだ。
 場所はローランサンと取った宿とは別方向にある、二階建ての連れ込み宿。娼婦たちが商売に使うような壁の薄い部屋で、更に飲まされた葡萄酒の酔いがさすがのイヴェールを酩酊させている。施される加虐ぎみの愛撫が気持ち良いのか悪いのか、境目が分からなくなっていた。
「苦しいかな。放して欲しい?」
 無理に言葉を求められるのは好きではない。調子に乗った男の台詞が気に障る。だが弱い耳朶に吐息がかかると背筋がしなるのはどうしようもなく、反射的にイヴェールは頷いた。
「そう。でもまだだ」
「ぁ、嫌だ……ッ、や、あ、あぁっッ!」
 本当なら舌打ちしてやりたい所だが、あられもない悲鳴を上げる事にすら気に掛ける余裕もない。更に握り込まれた掌と、きつく収縮しようとする穴を狙って奥へ押し開かれる感覚に、行き場をなくした快感が逆流して泣き声に変わる。
 もっと高い酒を飲んでおけば良かった。宿代にしては高くついてしまったかと後悔する。初めてではなかったが、十分に慣れていない身ではやはり同性に抱かれる事は苦しいし、辛い。
 だが相手を気遣わなくて済む点は楽だった。別にどう思われようと構わないから、合わせて演じてやる必要がない。可愛げなどなくても気にされないだろう。無遠慮に傷つけた爪痕が明日になって痛めばいい。
 ――ローランサンとはどうだっただろう。
 ふと思い至る。こうして喉を痛めながら喘いでいると、浅い呼吸に混ざって彼の姿がちらついた。震える背を撫でる男の髪の感触が、肩に顔を埋めていたローランサンの記憶と交差する。
 彼に好かれようと意識した事はないが、復讐に生き急ぐ相方の歩幅に合わせる事に疲れていたのも、また事実だった。
 共に居るのに違う方向を向いている彼の背中が、時折もどかしいほど遠く。踏み込んではいけない領域を抱えた彼と、どこに地雷が埋まっているのか知らないまま、何食わぬ顔して渡り歩く事は意外に面倒で。
 現在に水を差すように立ち現れる、依存にも似た過去への執着は――空恐ろしかった。
 だがローランサンを本気で嫌った事は一度もない。あの晩は言葉を交わしても色気も何もない会話だったが、少し投げやりな口調で放たれる声音は熱を帯びて、くすぐったかった。切羽詰った、あの響きは。
「は……っ」
 気が障る今夜の相手とは大違いだ。今になって違う相手と体を重ねながら、遠くその答えを聞いた気がする。
 ――何もなかった事にされるには、あの晩の自分は彼に心を許しすぎていて、忘れられた事をどう消化すればいいのか分からずにいたんだろうか。
 ローランサンと肉体関係を持った事はあまり重要ではない。それは相手を理解する手段の一つとして、言葉と同じように夜の中に存在していただけだ。どの一線を越えても自分達の道は変わらないだろう。
 だがあの時、ようやく彼の本質に触れ、理解が出来たと安堵して。
 ――つまり、思っていたより自分は彼を気に入っていたらしい。
 驚くほど単純な答えだ。天啓を受けたかのように思考が晴れる。だが、関係がこじれた今になって見えた答えでは遅すぎたのだ。例え和解したところで以前のような気楽な仲間同士では居られない。
 焦点の呆けた定まらない視界で、イヴェールは苦く笑う。何がおかしいのかと背後から尋ねられたか、尚も彼は淡く笑むばかりで、答えなかった。




前 |




TopMain屋根裏BL




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -