翌朝、昼を知らせる鐘の音で目が覚めた。男は帰ったのか、一人の寝台は清々しいほど広い。
 ――さて、どうしようか。
 時を告げる教会堂では僧侶達が午前の仕事を終えているところだろう。部屋は明るく、差し込んだ光が床に伸びている。イヴェールは投げ出していた腕でシーツをたぐり、己の胸の内を覗くように目を伏せた。
 随分と刹那的な朝だ。体のだるさは残っていたが、後始末を済ませておいたせいもあって現実味がまるでない。昨夜は良いように鳴かされて醜態を晒したが、行きずりの相手に羞恥は全く湧いてこないし、ローランサンを抱いた事すら笑える冗談のよう。
 寝ぼけた頭で視線を巡らすと、サイドボードに短いメモが置いてあるのを見つける。
『宿代は払っておいた。良ければ今夜も会いたい Arnaud』
 ……ふうん、とイヴェールは髪を掻き上げた。署名を見るまで名前も知らなかったが、少なくとも字が書けるほどには教養がある奴だったのか、と場違いな事を思う。相変わらず金はないが、少なくとも今夜の選択肢は一つ確保できた訳だ。
 眠気のせいか世界が遠い。出来るだけ論理的に考えようとしたが、しかし服を着る段になってシャツの釦さえ上手く嵌められない指先を見つけ、自分が疲れている事に気付いた。何度か引っかかり、三度目に諦めた。
「……馬鹿だな……」 
 意外と混乱しているんじゃないかと己に問い、ごろりとベッドに寝転がる。瞼に手の甲を当てて光を遮ると、だるい手足は休息を求めてシーツに根を張ろうとしたが、置き去りにしていた問題が再び頭をもたげて寝かせてくれなかった。
 ――どうする?
 ローランサンに会いに行くべきか。何食わぬ顔で、ごめんと謝ろうか。
 だが白々しい昼の光の中では勇気も萎えていく。思考は昨夜から一巡し、伝えたい事は何一つないような気がした。本当なら自分が何を怒っていたとか、何を考えただとか説明しなければならないのに、気力がまるで湧いてこない。
 ――聞かなきゃならない事もある、し…………どうあっても赤髪の情報だけは渡してやらないといけないが……。
 人と共に居る事はエネルギーを使う。まだ彼の視線を浴びるのは怖かった。これから先もローランサンとコンビを組んでいくのは、好き嫌いの問題以前に気が重い。イヴェールは眠たげに幾度も瞬いて、天井の染みを見遣った。
 精の匂いがこびり付いた部屋で、時間が巻き戻らない事が悲しかった。





 * * * * * * * *




「おや、またかい兄さん?」
「……まあね」
 女将はいかにも肝っ玉という感じで「酒は程々にしときな」と笑う。どうするべきか決めかねて結局同じ酒場に戻ったイヴェールは、彼女の開けっぴろげな陽気に僅かばかり慰められた。
 サービスで置かれた野菜のスープを飲んで、ようやく人心地が着く。
 店内に人はまばらだった。既に夕暮れだが食事時には少し早すぎるのか、数人の男達が軽食を食べている他は静かなものである。考え事をするには恰好の静寂だ。イヴェールは見るともなしに店の様子を眺めながら、気だるく頬杖を付く。
 ――本当は、このまま逃げ去ってしまいたい。
 だが足を止めさせたのは、未練がましく友人を望む淡い期待と、それ以上の重みで約束を果たさなければならないと言う憂鬱な義務感。
 簡単な事なのだ。ちょっと宿に戻って、謝って、赤髪の情報を渡してやって、それから別れればいい。ローランサンがどういう反応をするのか予想が付かないが、とりあえず自分がすべき事は――…。
「おい」 
 と、低く響いた声に完全に意表を突かれる。イヴェールは飛び上がりそうになった。
「………な、」
 背後に立っていたのは紛う事なくローランサン本人。外の風で乱れた前髪が普段よりも表情を見えやすくし、こちらを見下ろす輪郭を逆光が明るく縁取っている。イヴェールはうろたえ、思わず目を丸くした。
「探した」
 ローランサンは一言告げ、ぞんざいに隣へ腰掛ける。
 椅子の軋む耳障りな音からも不機嫌さが伝わってきた。驚くイヴェールを尻目に彼は女将に飲み物を頼むと、何も言わずに肩で大きく息をして、がしがしと頭を掻いた。
「手間かけさせやがって。やり逃げしてくか、普通?」
 呆れた溜息が混じるその声に何と答えたらいいのか分からず、イヴェールは唇をぱくぱくと動かす。いつ会いに行くべきかと考えあぐねているばかりで、まさか彼からやってくるだなんて予想外だったのだ。
「……よく、見つけたな。店は他にもあるのに……」
「めっぽう酒に強い銀髪の男が出たって聞いたから。お前、目立つんだよ」
 ローランサンはそこまで言って、むっつりと黙り込んだ。硬い横顔が未だ切迫した自分達の関係を示しているようで、イヴェールも共に言葉を失くす。
 俄かに昨夜の痕が残ってはいないかと思い至り、咄嗟に片手で首筋を庇った。後ろめたさも手伝って隣を直視できず、シャツを捲くり上げたローランサンの腕がカウンターの上に置かれているのを仕方なく見つめる。
 気が重い、どころではない。実際に顔を合わせると何もかも吹き飛んでしまった。相手から何か言い出すのを待つが、その時間も気詰まりで居たたまれない。注文した物が届くと相方は飲む事に専念しだして、謝るきっかけすら失ってしまった。
 イヴェールの困惑を知ってか、一瞬、ローランサンは小さく鼻で笑う。彼は手早く予備のナイフを腰のホルダーから引き抜くと、ごとりと目の前へ置いた。
「……賭けようぜ、イヴェール」
 説明や謝罪もなく、唐突に切り出す声はそれでも低い。彼は顎で離れた場所にある飾り棚を示し、そこに貼り付けてある黄ばんだ地図を流し見た。
「地図の、この町の場所が的だ。それをお前が仕留められたら、コンビは解消」
 何を勝手に、と抗議を上げる間もない。
「外したら、戻って来い」
 投げ出された言葉にどきりとした。顔を上げて相手の様子を窺ったが、彼は再びグラスに口を付けて前を向いている。
「…………」
 仕方なくイヴェールも視線を変え、一方的に告げられた的を確かめた。
 地図は、大きさも距離も大した物ではない。長年の光で色あせて黄ばんでいたが、縮尺の関係で文字も何とか読み取れた。ローランサンが指名したこの町の領土は、カウンターからだとカード一枚ほどの大きさに見えている。薄い赤で色付けされた範囲が町の境界を示し、これが当たりという事になるだろう。
 イヴェールは決して好戦的な性格ではなく武器を取る機会も然程なかったが、器用な分、投擲などの技術は得意だ。いつだったか移動中の荷馬車の中で暇潰しに見せてやったが、足早に通り過ぎる街路樹の細い幹に、揺れる馬車から手頃な大きさの石を投げつけて見事に命中させた事がある。
 イヴェールにとって、これは当てようと思えば当てられる的。ローランサンもそれは覚えているはず。
 つまり、これは賭けではない。
「……卑怯だな」
 こもった微笑と共に息を吐き出し、重さを確かめるようにナイフを軽く上へ放る。柄は一回転し、ぱしりと気持ちよく手の中に納まった。イヴェールは邪魔な前髪を掻きあげる。
 肝心な時に多くを語らないローランサンの真意など、分からない。しかし探しに来た上、こうして選択を任せると言う事は――許されているのだ。
 戻って来たいなら戻って来いと、そう言っている。
 決断を委ねられた掌がじわりと汗ばんだ。しかし目の前は明るい。イヴェールは座ったまま肘を緩く曲げ、掴んだナイフの柄を構えた。
 躊躇したのは一瞬。集中した意識で手首を振ると、次の瞬間、切っ先は地図を鋭く縫い付ける。
 ナイフが刺さったのは赤い淵――際どい所で的を逸れていた。
「……ぎりぎりじゃねーか。素直に外せよ」
 ローランサンは隣でほとほと呆れ果てた、という様子だ。しかし息を吐く声はようやく普段通りの高さに戻っている。彼もそれなりに緊張していたのだと知ると、イヴェールはふと泣きたくなった。
 人と共に居るのは面倒な事だ。決して理解し合えない境界と言うのは確かに存在している。お互いに秘密を抱えていると尚更だろう。
 しかしそれでも、どうにか共に居ようとする。その子供っぽい健気さが胸に迫った。
「……ローランサン、昨日は悪か……」
「こらっ、何してんだい兄ちゃん!店の物に勝手に傷を付けるんじゃないよッ!」
 話しかけたイヴェールの頭を、女将がパーンと叩く。台詞が吹き飛んだ。
「痛……ッ!」
「当然だろう。いくら古いものだからって遊びの的にして貰っちゃ困るね!」
 弁償しなよと腕組みをする彼女の迫力に負け、余分な代金まで払う事になったが、どうにも罰が悪い。隣でローランサンまでげらげらと笑い出し、頬が熱くなるのが分かった。敬虔な気持ちが引っ込む。
「そんなに笑うなよ。そっちが言い出した賭けで怒られるなんて不公平じゃないか」
「仕方ないだろ。実際に俺は何もしてねーからな」
「こっちだって好きで投げた訳じゃ……!」
「違うのか?」 
 言い返そうとしたが、被せるように視線を射抜かれたので押し黙る。確かにナイフを投げたのは自分の判断だ。そして的を外したのも。
「……違わない、が……」
「なら笑ってもいいだろ?」
 ローランサンは姿勢を崩すと、だらしなくカウンターに上体を預けた。余程イヴェールがたじろいでいる事が愉快なのか、彼にしては珍しく浮き足立っている様子だった。
「せっかくだし、宿に帰る前に飲もうぜ」
 仲直りの記念と言うことだろう。イヴェールは迷ったが、自分達の上に覆い被さっていた暗雲が晴れたのを祝福したい気もして、嫌々だと装いながらグラスを手に取る。隣で皮肉っぽく唇を歪めるローランサンの表情の隅に、紛れもなく明るい気配がひらめいているのを見て、不覚にも胸が熱くなった。
「――乾杯」
 とりあえず難しいことは置いておこう。今は、友との再会に感謝を。











END.
(08.10.03)

続けるつもりのなかった盗賊sの馴れ初め話だったもので、ギャグから始まりシリアスを通り過ぎコミカルで終わると言う、謎のシリーズになりました。無理やりなところは「テラ超展開ww」と笑って流してくれると嬉しいです。
……でもまあ人間関係ってそんなもんだよね
そして今後は、何故かセフレになった二人の話を適当にエロく書きたい所存。


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