逝ける王女の為の.1








 
 私の体は偽りの生命と、終わりのない約束で作られている。




 存在しないはずの私がザクセン公ヴェッティン家へ正式に連なる事になったのは、母が亡くなって一ヶ月が過ぎてからの事だった。喪が明けきらぬまま屋敷に押し入ってきた人々に担ぎ出され、慣れ親しんだ土地から引き離された私は、ようやくそこで自分の出自を知った。
 選帝侯位を持つ、由緒ある家柄。母はずっと昔、私を連れて実家を抜けてきたのだと言う。たった一人の忠実な従者を連れ、森の屋敷に逃げ落ち、愛した男の忘れ形見を細々と育てる為に。
「父上も酔狂な事だ。死に損ないの不義の子など、放っておけば良かったものを」
 父親違いの兄はそう言った。醜聞を隠す為でもあったのだろう。母の裏切りを許せなかった彼は、私を妹としてではなく義理の娘として引き取った。その方が騒ぎにならずに済むと考えたようだが、果たしてどれだけ効果があったのか疑わしい。突如として社交界に現れた私を、周囲の貴族たちは決して暖かくは迎え入れてくれなかった。
 隠された娘。訳ありの娘。悪名高いテューリンゲンの魔女によって棺桶から引きずり出された、死に損ないの娘――。
 噂はどこから漏れるのだろう。私自身が知らなかった過去の暗い事実まで、彼らは既に心得ているようだった。貴婦人の扇の影からは嘲笑と侮蔑が零れ、儀礼的に踊りを誘う貴公子からは明け透けな好奇が見て取れる。人見知りの激しい私は警戒心でくたくたになりながら、ヴェッティン家の新しい見世物となって踊り続ける事しかできなかった。
「愛想のない娘だ。ただでさえ恥の上塗りだと言うのに」
 兄はそんな私を冷ややかに値踏みしている。その視線から肉親の情を感じ取る事は不可能に思えた。彼は私を疎んじており、私もまた彼に打ち解ける事ができない。
 当時、私は十二歳の少女だった。刺繍やピアノは元々母から教わってはいたが、この家に来てからは家庭教師の男爵夫人によって徹底的に礼儀作法を叩き込まれた。
 テーブルマナー、ドレスの選び方や言葉使い、客人をもてなす為の家具の選び方。健康な子供を生む為には体を鍛えなければならないと、よく分からない薬もたくさん飲ませられ、血色の悪い肌を薔薇色に見せる化粧の仕方も教わった。
「恋などお下品なだけ」
 男爵夫人は事あるごとに、私にそう言って聞かせる。
「下々の者ならいざ知らず、姫様のような身分のある方が恋に迷ってはなりません。お国を守る為に、血筋を守る為に、ヴェッテン家の女達が代々果たしてきた責任を背負わなければなりませんよ。はしたない恋などに惑わされてしまっては、たちまち国は乱れてしまいます」
 それは暗に、家から逃げ出した母を非難する言葉たち。
「いいですか。何よりも大切なのは美しく、従順である事です。夫となる方に愛され、御子をもうける為に、貴女は誰よりも美しくならなくては」
 この家で、私はただの生ける子宮だった。恋とは罪悪であり、愛とは健康な跡継ぎを生む為に用意された方便。いずれザクセン公である兄が有利に政治を行えるよう、他国と縁を結ぶ便利な駒。美しいドレスも宝石も男を誘う為の餌でしかない。私の手は私のものではなく、私の髪は私のものではなく、いつか夫となる人に撫でられる為、ひたすら美しく磨くもの。
 果たしてこれが、本当に私の人生だろうか?
 社交界で陰口を叩かれ、自由を奪われ、ただ諾々と男たちの都合で動くだけの存在なら、私は人間である必要などなかったのだ。頷くだけの人形で事足りる。しかし誘われたなら嫌でもダンスを踊らなければならないし、手紙が来たら返事を書き、客があれば歓迎の手配をして、女としての勤めを果たさなければならない。それらは徐々に私を擦り減らせ、ただでさえ乏しい世界の色彩を奪っていく。
 せめてもの抵抗にと、試みた事は様々だ。他家への訪問はできるだけ控え、豪華なドレスを裂き、野心と出世心にまみれた男たちの誘惑を冷たくあしらい、忌み嫌われた病人たちが住む治療院を訪問して、白いドレスを泥で汚し――。
 けれども私の世界はあくまで灰色であり、貴族たちの視線から気を紛らわせる事できても、逃げ切る事はできなかった。清貧の聖女と呼ばれても上辺だけのもの。
 母は身分を低く偽らせてまで、私をこの家から――女が政治の駒になるしかない権威ある一族から遠ざけておきたかったのかもしれない。それは同じ女として、貧しくとも愛した男性と幸せな結婚をして欲しいと言う彼女の願いだったのだろうか。だからこそ追っ手から身を隠す為、私が外に出る事を決して許さなかったのかもしれない。鳥籠だと思っていた狭い屋敷は、愛なき世界から私を守る砦だったのだ。
 けれど、お母様。
 私は幸せな結婚なんて望まない。どちらにせよ、それは叶わない願いだったのだ。私は幼い頃に一生分の愛を使い果たしてしまった。
 メルツ・フォン・ルードヴィング。
 私の初めてのお友達。私の髪に野薔薇を飾ってくれた男の子。亡くなったと知っているのに、それでも記憶は遠ざかれば遠ざかるほど鮮やかになる。すんなりとした彼の背筋、月光を弾く長い髪――。あの恋があるから、私は今まで生きてこられた。
 けれどあの恋があるから、私はこれ以上、生きていけない。




 * * * * * * *




 私がプファルツ公ライン伯から熱心な手紙を受け取ったと知った時、兄はひどく上機嫌だった。
「画家を呼ぶぞ、エリーザベト。肖像画を描いてもらえ。奴に送る為にな」
 ようやくお前の厄介払いができそうだと、彼は臆面もなく語る。それらは正式な縁談ではなかったが、互いの肖像画を送りあう事は結婚に進む上での重要な儀式だった。代理人を立てて結婚式を挙げ、当事者同士が初夜まで顔を会わせる事もない場合などでは、肖像画の姿が相手への唯一の手掛かりになる事も多いらしい。
 ライン伯の手紙によれば、ヴェッティン家主催の祝宴で私の姿を見初めたと言う事だった。彼には悪いが、全く覚えていない。ライン伯も選帝侯の一人だ。失礼のないよう、当たり障りない手紙の返事を書くのは骨の折れる仕事だった。
 ――結婚、しなければならないのだろうか。
 これまで私のような曰くつきの娘を娶ろうとする勇気ある男性は、幸運ながらそう多く現れなかった。いたとしても婚姻は家と家との政治問題である以上、兄の厳しい審査を掻い潜る事もなく、私もただ首を横に振るだけで済んでいた。
 だが、そろそろ断る事も難しい。私は適齢期を過ぎようとしている年代で、これからどんどん年老いていく。価値のあるうちに価値のある家に嫁がせたいと考えている兄は、張り切って画家を呼び寄せる手はずを整えた。
「笑え。にっこりと。精々よく描いてもらうんだな」
 私と兄は本質的によく似ている。恐ろしく頑固で、見栄っ張りで、義務感が強く、自分が弱っている姿を人に見せたがらない。虚栄に満ちた気高さが私達の血の繋がりを物語っていた。兄が決めた以上、遅かれ早かれ私はライン伯の元に送られる事になるだろう。潰される牛のように鎖で引きずられて。
 画家の手配が済む前に、私は最後の願いとしてテューリンゲンへの滞在を申し出た。そこはルードヴィング家が没落してから我が家の領地になっている。私が逃げ出すのではないかと危ぶんだのだろう。兄はあまり良い顔をしなかったが、自分も同行するという条件でそれを受け入れた。
 テューリンゲンに来るのは二回目になる。初恋の人が行方知れずとなり、恩人である賢女が焼かれた場所は、今では呪われた地として知れ渡っていた。兄は文句を言いながら疫病で死に絶えた村へ馬車を走らせ、陰気な景色に顔をしかめていた。
「まったく、お前の気が知れない。惨めったらしい過去にしがみついて何になる?」
 彼は言う。
「母上と同じだ。なりふり構わず感情だけで動く。気にしているのは自分が何をしたいか、何を感じたいかだけ。そして全ての責任を周りに押し付け、引っ掻き回した挙句、男たちに愛がないと嘆くのだ。どれだけ尽くされているのか知りもしないで」
 彼は愛に溺れる女たちの姿を、立場を弁えない恥知らずだと嫌悪していた。ヴェッティン家の悪い血筋だと。
「お兄様は――」
「お父様と呼べ」
「……お父様はお嫌ではないのですか。愛せるか分からない人と、生涯を共にする事が?」
「元から結婚に惚れた腫れたを持ち込む方が愚かなのだ。愛がなくとも男は寵姫が持てる。女だって望めば愛人になれる。いちいち大騒ぎしおって」
 兄の持つ世界の揺るぎない正しさに、私は口を噤んだ。けれど愛した人が既にこの世にいない場合はどうすればいいのか教えてはもらえない。
 テューリンゲンの村に着く。馬車から降りた私は、以前植えた野薔薇を見に行った。詳しい成り行きは知らないが、ここの裁判所に残されていたテレーゼ・フォン・ルードヴィングの調書には『彼女の息子は井戸に落とされ溺れ死んだ』と書かれてある。手を回して調書を読ませてもらった時、私は自分自身が暗い井戸の中に沈んでいくような心地を味わい、せめてもの手向けにと野薔薇を植えたのだ。
 しかし井戸へ辿り着いてみると、土が悪いのか枝葉は貧弱で、蕾の一つもついていない。私は落胆した。彼の骨を薔薇で飾る事もできない。
「……ねえ、メル。私、結婚する事になるのよ」
 古い井戸の底に向かい、ぼんやりと囁いた。当然ながら返事はない。
 駄目だよ、と言ってくれたらいいのに。
 彼と出会った頃、私は世間知らずの少女で、世界は怖いものであふれていた。窓の外には人食い狼や恐ろしい怪物たちで溢れていて、日の光は肌を焼き、夜の空気は呪われているのだと信じていた。
 そんな私を外に連れ出してくれたのは、彼。薬草の名前や森の歩き方を教えてくれたのも彼。外を出歩く履物がない私の為に、こっそり村娘の靴を用意して履かせてくれた事もある。
 けれど、私の方が恋について詳しい。あんなに気配りができる少年だったのに、メルはいつだって鈍かった。こうして律儀に結婚の報告なんてしても不思議な顔をするだけなのかもしれない。そう思うと悲しくなった。おめでとう、なんて言われたらどうしよう。聞こえもしない井戸からの返事を想像し、私は無為な時間を過ごす。
 未練を捨てるべきなのか――。
 その時、無人のはずの教会で鐘が鳴った。
「人がいるのか?」
 木陰で本を読んでいた兄が訝しげに教会を見上げる。二度、三度と鐘はしつこく鳴り続けた。私は夢から覚めたように振り返る。誰が鳴らしているのだろう。
 咄嗟に、駆け出していた。
 脳裏に思い描いたのは愛しい死者の姿。不思議な事に扉は施錠されていない。取っ手にしがみつき、渾身の力で開け放つ。
 室内は荒れ果てていた。左手が階段になっている。地下はきっと納骨堂だ。そちらに用はない。上へ向かう階段に足を掛けた。兄が後ろで何か怒鳴っている。
 自分が馬鹿な事をしているのは分かっていた。メルがここにいる訳はない。どこを探しても、どんなに名を叫んでも、彼とは会えない。きっと廃墟に忍び込んだ無法者が鐘を鳴らしているだけだ。それでも私はこんなに必死になって、今にも崩れそうな階段を、危険を犯して駆け上がっていく。
 階段は途切れ、鉄格子の梯子に変わった。しがみつくとスカートがめくれ、はしたなく足首が露出する。けれど気にするものか。鐘はまだ鳴っている。
「メル? メルなの?」
 鐘つき場に出た。吹きさらしの風がドレスを引きちぎろうとする。私は周囲を見回した。
 誰もいない。
 メルも、無法者も、墓守も、誰も。鐘だけが勝手に揺れていた。
 膝の力が勝手に抜ける。何を期待していたのだろう。分かっていた事だ。この村には誰もいないのだと。
 ――ああ、でも、嬉しかった。弱気な私をぶつような音だった。結婚などしなくてもいいと、彼に言ってもらえたようだった。
 しゃがみ込んだ私は、やがて声を出して笑い始めた。自分の愚かさが愛しかった。捨てきれない想いが誇らしかった。きっと私はライン伯の元に嫁いでも、同じように愚かな真似をしでかすだろう。
 笑っていると、追いついた兄がいきなり私の頬を平手で打った。衝撃は大きくはなかったが、おかげで笑いは吹っ飛んでしまう。
「気でも違ったのか、身を投げても何もならないだろうに!」
 成る程、先程の私の行動はそう映っていたのか。否定せずに打たれた頬を拭うと、そこは知らぬ間に涙で濡れていた。
「そうね――きっと私、お兄様の顔に泥を塗るわ。ライン伯を愛せそうにない」
「愛せるさ」
 兄の目の中には私と同じ獣が住んでいる。ままならない世界に嘆く、憤怒の獣だ。
「いいか、お前が死んだ時、母上は黒魔術にすがってまでお前を生かそうとした。それは乳臭いガキの恋愛ごっこをいつまでも続けさせる為じゃない。ライン伯の何が不満だ?地位も、名誉も、贅沢も、全て望まないと言うのなら、お前はどうしてヴェッティン家にいる?誰のおかげで飢えず、火あぶりにされないでいられるか、お前を社交界に送り出す為に私がどれだけ骨を折ったのか――それを顧みる事もせず、一つ覚えのように愛、愛、愛と!」
 苦々しく彼は訴えた。 
「ライン伯との縁談は進んでいる。これで破談となれば、どれだけ我が家が損害を被るか分かっているだろう。人を愛する努力もせず、幸せを投げ打つつもりなら……お前は本当に大馬鹿者だ」
 兄の言葉には一片の誠意があって、私は頭を殴られたような衝撃を受けた。彼は確かに私に対して冷たかったが、降りかかる火の粉を払い除ける努力を惜しまなかったし、心無い貴族達から私を庇護する役目を律儀に果たしてくれていた。異端審問から私を守り、魔女として裁かれる事のないよう、自分の娘と偽って原罪を覆い隠してくれた。例え政治の駒としても、幸せになれる縁談を用意してくれている。
 けれど、私はそれに応えられない。どうしても。
「……それはお兄様の理屈だわ。お膳立てした幸せなんていらない。それが恩知らずだと言うのなら……ここから追い出せばいい。私はもう駄目。もう、耐えられない」
「駄目だ。逃げる事は許さない。お前は既にヴェッティン家の人間だ」
「……お願い……」
「では、もう一度考え直せ。次に勝手な真似をしたら、お望み通り死なせてやる」
 兄は暴れる私を抱きかかえ、無理やり教会から外へと連れ出した。座席に押し込み、馬車を出すよう従者に命じる。見る見るうちに墓地は宵闇に紛れ、死に損なった私をあるべき場所から引き離してしまった。
 ――メル。
 みっともなく泣きじゃくる私の足元に、こつりと硬いものが当たる。どうした訳か、馬車には一冊の見知らぬ本が落ちていた。兄の物ではない。
 私はまるで形見のように、紫紺の表紙を胸に押し付ける。涙はいつまでも止まらなかった。




 * * * * * * *



 ザクセン領に戻った私を待っていたのは、ライン伯との古風な文通の続きと、肖像画を描いてもらわなければならない苦行だった。
 しばらく兄に刃向かうのは控えようと、義務的にそれを消化していく。肖像画のモデルとなる日は自分が精巧な人形になったかのようだった。椅子に腰掛け、横顔を向ける。画家が動いても大丈夫だと言うので、私は羽根ペンを持って机に座り、ライン伯への手紙を書いて、一度に嫌な事を終わらせようとした。
 そして私は句読点を打つように、メルの事を――そして自分の身の振り方の事を考える。
 兄の言う通りだ。忘れるしかないのだと、何度も自分に言い聞かせた。彼はこの世にいない。他の伴侶を探すしかないのだ。愛のない結婚など珍しくないし、駆け落ちした挙句、相手を殺されてしまった令嬢もいると聞く。それに比べれば私は随分と恵まれた方だ。ライン伯の手紙は常に優しい労わりに満ちている。
 でも、どうして彼を――メルを忘れる事ができるだろう?
 理解する事と、納得する事は違う。
 私は率直に昔の恋が忘れられないと書いた。貴方を愛せる自信がないと。しかし表向きに過ぎなくとも、ライン伯は随分と寛大なようだ。それでも構わない、自分も愛される努力をしようと数日後に返事が届く。
 私は彼に嫌われるよう、わざと趣味の悪い物語を書き連ねて送る事にした――我ながら根が暗い。普通、こういう場合は気の利いた詩を送るものだろうけれど。
 テューリンゲンで手に入れた本は素朴な童話集だった。昔、私とメルが床に広げて読んだような子供向けの本。ひょっこりと馬車に置かれていたその本は、まるで遥か遠い地平線から届けられた贈り物のようだった。
 私は取り憑かれたようにページをめくり、それを手紙に書き写す。気に入らない箇所があれば結末を書き換え、時には社交界で聞いた紳士淑女の噂話を織り交ぜ、手紙はどんどん不吉な予言のように様変わりしていった。ライン伯が私の事を嫌うように。
 世界への恨みつらみと黒い皮肉ばかり考えていたせいか、やがて夜になると悪い夢を見るようになった。それは私の願望と本の粗筋が入り混じる、不可解な夢。
 私は人形で、メルの腕に抱かれている。どんなに我が侭を言っても、どんなに嫌な態度を取っても許されるし、いつでも彼に愛していると言える。メルは大人になっていて、まるで昔と違う物言いをしていた。少し意地が悪くて、斜に構え、何でも見通してしまう謎めいた男。虐げられた女性たちの味方――。
 ああ、こんな彼ならば、悪事に巻き込まれても上手く切り抜けるに違いない。二度と引き離される事もないだろう。人形の私はそう感嘆し、安心しきっている。
 メルが現れるようになってから、私は夢の内容も紙に書き留めるようになった。ある程度の分量が溜まれば糸で綴り、簡単な冊子を作る。皮の表紙を付ければ、それはもう一冊の童話集になった。
 血生臭い童話の世界では、身分ある姫も王子も、心の赴くままに恋をして、あるいは別れ、あるいは殺し、殺され、自由に生き生きと死んでいく。あの優しかったメルが人に復讐をそそのかす場面ですら、私はとても嬉しかった。動いている彼を間近で見られるのだから。
 ――ああ、酷い女だ。
 私はそれを紙に綴りながら、自分の罪深さを嘆いた。いくら夢の出来事とは言え、悲劇を喜劇だと感じる薄情な心を恐れた。
 けれど、どうすればいいのだろう。私は夜毎に彼の夢を待ち焦がれる。幼い日、メルがやってくる月夜を心待ちにしていたように。
 いっそ出会わなければ良かったのだろうか。最初から恋を知らずにいたのなら、私は喜んでライン伯の元へ嫁げたのかもしれない。少しずつ信頼を築き、きちんと寝台を共にして、子供をもうけて幸せになれたのかもしれない。
 けれど、もう無理だ。メルを知らない私には戻れない。淡いまま終わるはずの初恋は刻印のように体の奥に沈み続けていて、上澄みはとても美しいのに、少し掻き回しただけで薄暗いものへ変わってしまう。どろどろと胸が濁って、大好きな彼を恨んでしまうくらいに。
 メル――どうして死んでしまったの?
 死んでしまうのなら、どうして私と約束なんか交わしてしまったの。私はそれを忘れられない。どうしても、単なる幼い恋だと笑えないの。夜風で窓が鳴れば貴方が来てくれたんじゃないかと思うし、あの優しい、丁寧な、その癖どこか危なっかしい足取りで窓枠に足を掛けて、遅くなったねと迎えに来てくれる想像で胸が一杯になる。私の気持ちになんてまるで気付かず、危ないからと手を握ってくれた罪作りな笑顔が脳裏から剥がれないの。夢の中で貴方に髪を撫でられる、人形の歓喜が忘れられない。
 そうしてどれだけ時間が経ったろう。肖像画が遂に完成した。
 絵の中の私は気に入りの白い服を着て、心持ち目線を下に向けている。手には羽根ペンを持ち、何を書こうかと筆先を迷わせている。学のある女は小賢しく思われると兄が難癖をつけたおかげで、それは上から描き直され、ペンは単なる鳥の羽根へと変えられた。
「なかなか良く描けているじゃないか。本物よりも聖女らしい」
 兄が皮肉を言う。
 完成した肖像画は寝室の、窓から差し込む光の中に置かれていた。絵の中の私はまるで逃げた小鳥の行方を憂いているように見える。子供の頃から変わらない髪形。鳥籠の中にいても翼を見つけられた、穢れなき少女時代の名残。
 ――ああ、こうあるべきだったんだ。
 どうしてか、涙が出た。
 そこにいる私は清らかで、どろどろとした執着や憤慨、ありとあらゆる災厄から身を引き、ひっそりと悲しみを愛でている。天から明るく軽やかに鳥が舞い降りてきたような、そんな心地だった。過去の私の絵姿に、そっと幸福の鍵を教えてもらう。
 ――夜毎、世界を恨むのは止めよう。ライン伯に当てこすり、兄と争い、メルへの恋心をお伽噺で誤魔化すのを止めよう。
 暗雲が取り払われたような気分だった。
 私は私の罪を切り裂き、正しい結末を迎えなければならない。そうして長く引き伸ばされたメルの亡霊を、眠らせてあげなければならないのだ。



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