これは挽歌ではない









 やはり復活したとは言え、普通の体ではないのだろう。井戸から這い上がろうとすると、骨と砂から作られた体は奇妙なほどに軽く、ぎしぎしと軋み始めた。
 そう長くは持たないのかもしれない。動くたび、肉を削ぎ落とされるような気だるさを感じる。肺が痛み、肉が腐っていく気味の悪い匂いが喉奥から込みあげてきた。もしかしたら壊れかけた家が白蟻に食われていくように、一時的に甦った体は、やがて内側からぼろぼろと崩れていくのかもしれない。
 ――それでもいい、エリーザベトを助け出すまで持てば。そもそも、死者が自由に動き回る今までの方がおかしかったんだ。
 メルツは改めて己の身に起きた奇跡を考える。生身の体であったなら、重くて井戸から這い出す事もとてもできなかったはずだ。そうしてかつての自分は溺れ死んだのだから。それに比べれば、エリーゼが与えてくれた新しい体は非常に便利なものと言える。薔薇の蔓と石壁の僅かな隙間を利用して井戸から出ると、彼は乱れた呼吸を整えて、見慣れた景色を見渡した。
 廃墟の墓地、並んだ十字架、古びた教会。あの中にはイドルフリードとエリーザベトがいるはずだ。メルツは唇を引き結ぶと、再び教会に向けて足を進める。
 もつれる足で扉に駆け寄ると、むっとした植物の香りに包まれた。教会の中はすっかり森に変貌していた。老婆の記憶を再現し、過去を甦らせている最中なのだ。メルツも以前の復讐劇で目にしている。擦れ違った親子の物語だった。あの修道女も今頃は満足し、棺の中で骨になっているのだろうか。
 何にせよ、この森の奥に大きな暖炉のある老婆の家があり、二人がそこで指揮を振るっているのは間違いない。そうして少しずつ事実を移し換え、新しい童話に組み立て直し、揺るぎない歴史から復讐の幻想物語へと書き直していくはずである。
 森は鬱蒼としていた。メルツは遮る枝葉から顔を庇いながら、奥へ向かって道なき道を進む。空には太陽が出ていた。正確には教会の中に作られた幻の太陽だが、それでも明かりには違いない。しかし森に光が差し込んでも、いつ方角を見失っても不思議ではなかった。どこを見ても木々は似たような配置で生えている。
 次第に歌声が聞こえ始めた。おそらく老婆が歌う復讐の旋律だろう。勝算のないまま駆けつけてしまったが、エリーザベトが《衝動》に突き動かされるまま手を汚そうとしていると考えると、どろりとした苦いものがメルツの胸に込みあげてきた。彼女の事を考えると、切なさ以上に息苦しさの方が強くなる。
(どうして)
 彼女が自分を愛してくれた、その嬉しさ。誇らしさ、救い。それは紛れもなく黄金だった。どんな宝よりも価値のある黄金だった。
 しかし一人だけを愛する事は、他の誰も愛さない事に繋がる。彼女を子供時代の優しい思い出に浸らせたまま足留めさせ、幸せになる機会を奪い続けたのは、他ならぬ自分なのだ。自分の死が、彼女の人生の歯車を狂わせ続けたのだ。その寂しい生涯に対する罪悪感のようなものが、メルツの中に複雑な苦しさを呼び起こす。
 どうして別れ際、あんな約束をしてしまったのだろう。勿論あの時は自分が死ぬだなんて思ってもみなかった。しかし、あの不確かな約束が彼女に叶わない夢を見せ続けるきっかけになるのなら、他に言うべき言葉があったはずなのだ。『絶対』なんてこの世にないのだと、世間知らずだった当時の自分でさえ分かっていたはずなのに。
 どうしてあの時、自分を忘れてくれと言ってあげられなかったのだろう。忘れて欲しい、愛さないで欲しい。けれどもし、二人が再び出会う事があったなら、その時にまた思い出して欲しいと――そんな風に言っていたら何か変わっただろうか。エリーザベトの一途な想いが嬉しくて、辛くて、誇らしくて、もどかしかった。
 今こうして自分が駆け出したところで、何ができるか分からない。どうにかして彼女を止め、記憶を取り戻し、彼女を彼女自身へと回復させる。しかしそれでどうなるだろう。イドルフリードの出方によっては、やはり次なる屍揮者を生み出すだけかもしれない。それが自分であれエリーザベトであれ、同じ悲劇の繰り返しに他ならないのかもしれない。
 けれど約束を交わした小さな手が、今も尚、メルツの為に己を犠牲にしようとしている。
 それだけは避けなければならないと、彼は決意を新たにした。聞こえてくる旋律は次第に大きくなっている。もう少しで老婆の家が見えてくるはずだ。木々はメルツを誘い込もうとするように二手に別れ、やがて一本の獣道となった。今は余計な事は考えず、エリーザベトを救い出す事に集中しなければならない。
 草が踏み分けられた獣道には両脇に野苺の茂みを成らせていた。可愛らしい植物は御伽の世界に入ってくる目印である。その茂みが風もないのに揺れ動いた事に気付き、メルツは緊張に身を強張らせた。
 誰か、いる。エリーザベトだろうか、イドルフリードだろうか。それとも他の誰かだろうか。 
 足音がすると同時に、野苺の茂みも揺れた。その動きは緩慢で、こちらの様子を窺っているようである。メルツが黙って待ち構えていると、茂みの動きは大きくなり、不意に左右に割れた。
「君は――」
 転がり出た人影を見て、彼は目を見開く。その人物は無言で片手を差し出すと、ほっと安堵したように地面へ崩れ落ちていった。


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