悲しみのいかなるかを知らず











 森の中の井戸の底で彼は死んだ。
 そして再び目を開けた時、そこは森の中の井戸の底には違いなかったが、単なる森の中の井戸の底ではなく、森の中の墓地の中の井戸の底へと微妙な様変わりを遂げていた。
 墓地の一部、になっていたのだ。
 しかし井戸の底で眠る彼は、まだそれを知らない。ぐるりと周囲を取り巻く絶壁の石壁。出口は遥か頭上。胎児が母親の体温しか知らないように、外の世界の事など想像の範囲外。
 そんな彼の頭の中で、誰かの声が響いている。
『――地獄に堕ちても』
『こんな所で死に絶え――』
『黒き死のごとく――して』
『少年 其れは君も――』
『――愛して――』
『機は熟し――さあ 受け入れ――』
 彼は言葉の意味を捕らえる事はしない。乾いた地面が降りしきる雨を拒みはしないように、ただ心地良いものとして響きを聞き取っていた。瞼を閉じ、意識を闇に覆われた彼にとって、絶え間なく入り込んでくる声だけが地獄に垂らされた光の糸となる。
 やがて覚醒は訪れ、青年は冷たい砂の上に横たわっている自分を発見した。
 土と埃の匂い。遠い風の音。それは彼を喜ばせも悲しませもしないが、少なくとも眠りの外へと導いてくれる。
 彼は目を開けた。睫毛の先に夜露が溜まっており、瞬くとぽたりと頬に落ちてくる。体の下には柔らかな砂が蓄積され、動くと砂糖菓子が崩れるような小さな音を立てた。広くはないらしい。充分に足を伸ばせる空間はなく、ブーツを履いた彼の靴先はすぐに硬い物にぶつかった。
 身を屈め、立ち上がる。すぐ目の前には規則正しく積み上げられた石の壁があった。片手を当て、壁の歪曲に沿って横に滑らせると、ぐるりと一周して同じ場所に辿り着く。石壁には所々苔が生え、彼の爪先を優しく包んだ。
 ――どこなのだろう。
 思案するが、何も覚えていない。しかし不思議と恐怖も焦りも湧いてこなかった。彼は壁から手を離して一歩後ろに下がると、今度はゆっくりと頭上を見上げる。睫毛の隙間から淡い満月が見えていた。
『ああ、良かった!メルツ、やっと起きたのね!』
 ぼんやりしているうち、頬をぱちぱちと叩くものがあると気付く。いつの間に抱いていたのだろう。天から降ってきたのか地から湧いてきたのか、それとも最初から自分で抱いていたのだろうか。彼の腕に身を預け、乗り出すように一体の少女人形が座っていた。
『目を覚ましたと思っても、すぐにまた寝てしまうんだもの!女の子を待たせちゃ駄目だって知らないの?私が何度がっかりしたと思って?』
 人形の声を、彼は最初、知覚できない。ただただ音の流れとして聞き、しばらくしてから意味を持っているのだと気付いた。
「………あ……」
『随分ぼうっとしているのね。調子が悪いのかしら。そんなの嫌よ。ねえ、お願い。何か言って、メルツ?』
 人形は喜びと不安の入り混じる声で、さかんに捲くし立てている。その声音は胸の奥まで潜り込み、何か奇妙な感慨を呼び起こした。しかし彼はその感情の正体が何なのか思いだす事ができない。人形を見下ろし、その透き通った翡翠の瞳を眺めているうち、ふっと肺がひとりでに空気を吸い込んだ。
「……エリーゼ姫。私はメルツではないよ」
 勝手に口が動き、そう返事をする。
「それは古い名前だ。新しい船出には、いささか相応しくない」
『まあ!』
 ふてぶてしい彼の言葉を聞き、エリーゼと呼ばれた人形は楽しげに飛び上がった。
『生意気!でも、その通りね。寝起きの割に冴えてるじゃないの』
「暇だったものでね。頭と言うものは使わないと徐々に萎びていく。ずっと考えていたのだが、こんな名前はどうだろう。メルはメルでも、メルヒェン」
『メルヒェン?』
「そう……メルヒェン・フォン・フリートホーフ」
 口は流暢に動き、彼が思ってもいないことを勝手に代弁し続けている。声にはどこか挑戦的な響きが混じっていた。こちらの意志とは別の所で声が零れ出てくるたび、襟の下で喉仏が上下する感覚だけがある。
 しかし、不愉快ではない。便利だとすら思えたし、新しい名とやらも悪くない響きだった。彼は他人事のようにこのやりとりを聞いている。
『ふふ、悪くないじゃない。愛称もこれまでと同じままで済むのね。じゃあ呼んでみるから返事をしてちょうだい――メルヒェン?』
「何だい、エリーゼ」
『あははっ』
 人形は幸福そうに肩を震わせ、彼の首にしがみつくと、何度も頬に唇を押し付けてきた。
『素敵、素敵よ、メル!やる気に溢れているじゃない!心配する必要はなかったみたいね、人騒がせな子!』
 どうして彼女はこんなにも狂喜乱舞しているのだろう。情熱的なキスの嵐に首をすくめ、彼は人形の華奢な胴体を持ち上げた。ビロードのドレスが腕の中から零れ落ち、大輪の花のように眼前を広がる。
「……エリーゼ。それで……ここはどこだろう?」
 ようやく自分自身で声を出した感覚があった。先程よりも声が掠れている。人形は顔を離すと、得意げに首を反らせた。
『さっき自分で言ったじゃないの。フリートホーフ、つまり墓地よ。墓地の井戸の底』
「……墓地の、井戸の、底」
 彼は繰り返す。それは先程勝手に口が喋った事なのだと説明しようとしたが、話の腰を折るほどの問題でもないと考え直した。彼は一つ頷き、再び周囲を見回す。
 精々一メートル半の広さしかない井戸の底には、自分達の他、おおよそ動く物も名付けるべき物も存在していなかった。とうに水は涸れ果てたらしく、底には積もった砂が露出している。足元でかさかさと音を立てるのは地上から舞い散った枯れ葉だろう。ひんやりとした宵の冷気を注ぎ込まれ、井戸の中は薄らぐ事のない闇で満ちていた。空気は暗く澱んでいる。
 海底のように、と頭の中で誰かが囁いた。そう、井戸はまるで海底のように静かなんだ、光から隔絶された世界なんだよ、と。
「……っ」
 途端に、彼は自分が強い睡魔に襲われている事に気付いた。頭がぐらつき、今にも崩れ落ちそうになる。それはほとんど暴力的な唐突さで圧し掛かってきた眠気だった。思わず目頭を指で押さえつけると、彼の変化を見咎めて、人形が訝しげに顔を覗き込でくる。
『どうしたの、メル?』
「眠いんだ……とても」
 今度は自分の意志で答えると、人形は目を見開き、慌てて彼の襟首を掴んだ。
『そんな、駄目よ!目を開けていて、ずっと一緒じゃないと嫌よ、メル、メル、メル……!』
 必死の形相で揺さぶってくる。がくがくと視界が揺れた。しかしそれが気にならないほど眠気は強烈なものに変わり、目の周囲が小さく痙攣し始める。骨と言う骨が形を忘れ、自ら崩れ始める寸前のようだった。
 抗えない――。
 しかしその時、泥のように沈み込む意識を呼び止めるものがあった。頭上から何か奇妙な《音》が聞こえてくる。それは甲高く、長く尾を引き、光の差さない井戸の底まで届いたものだった。はっと眠気が弾き飛び、背筋が緊張する。
「今のは……?」
 尋ねると、人形は安堵の表情を浮かべて彼の頬を撫でた。
『ああ、良かった。そのまま起きていてちょうだいね。あの音が気になるのかしら、好きなの?』
「少なくとも目は覚めるね。悪くない」
 再び口が勝手に返事をする。確かにそうかもしれない、と胸中で同意した。人形は赤ん坊の機嫌を取るように口調をとろけさせ、彼が眠らないよう、しきりに頬を撫でている。
『そうね。じゃあ一緒に聞きにいきましょうよ。ね、きっと楽しいわ。二人で上まで登ってみるの。だから寝るのは止してちょうだい。ね?』
「……分かった」
 彼は何とか返事をすると、ぐらつく額を押さえた。先程の《音》はまだ続いており、わんわんと壁に反響して、得体の知れない獣の鳴き声のように膨らんでいる。
 ――登らなければ。
 頭上では丸い形に切り取られた空が浮かんでいた。最初、あれを月だと勘違いしたのだ。積み上げられた石と石に足を掛けるような隙間はなかったが、よく見れば、壁に沿って青々と茂った植物が幾房か垂れてきている。それは天上から遣わされた縄梯子のように、ちょうど彼の目線の先にまで伸びていた。吸い寄せられるように手が緑の蔦へと絡む。
 植物は薔薇の蔓だった。不思議と棘は生えていない。それを掴み、足を引きずり上げると、少しの力を加えただけで体は弾むように上へ上へと浮き上がっていき、やがて彼は井戸の外に出て、瑞々しい夜の空気を嗅ぐ事ができた。いい空気だ、と口が勝手に感想を紡ぐ。
 人形が言っていた通り、そこは広い共同墓地になっていた。黒々とした森が四方を取り囲んでいる。森が途切れた部分から低い下草が生え、その合間を縫うように十字架が建てられていた。井戸はその中心に位置しており、背後を振り仰げば、古い教会が星空を遮るようにして立ち塞がっている。
 先程の《声》はまだ続いていた。最初に聞こえたものは甲高いものだったが、いつしか弱まり、徐々に低いものへと変わっている。彼は眠気に抗い、よろめきながら井戸から離れると、聴覚を頼りに《声》の場所を探った。
『ねえ、あっちじゃないかしら?』
 人形は腕から飛び降り、自らの足で歩き始める。彼女と共に下草を踏み分けて墓地の東に向かうと、異様な匂いが漂ってきた。
「……あぁ……」
 知らず、溜め息が漏れる。自分の声なのか、あるいはこれまでと同じように勝手に口が吐き出したものか判然としない。どちらにせよ、それは多かれ少なかれ感嘆の含みを持っている。
 そこには一人の人間と、一体の死体が転がっていた。半ば腐りかけ、蛆が湧いた女の死体に、生きた若い男が向かい合わせの体勢で縛り付けられていたのである。
「成る程。この扱いは罪人だな。殺人犯とその被害者の体を縛り付けて放っておく刑罰だよ。全く、古風な事だ」
 口が勝手に解説してくれる。
 鎖によってぐるぐる巻きにされた両者の間には、ゆっくりと崩れ落ちていく脂肪のむっとするような匂いと、無数の羽虫、蛆虫、そして肉を齧ろうと群がった鼠達が一つの黒い塊となって地面に転がっていた。蠢く小動物の動きに混じり、すすり泣く殺人犯の体が幾度も跳ね上がる。痛みに男が体を屈めると、まるで殺した女に優しく抱き締められているように見えた。そのたびに《声》は大きくなり、時に喚き散らし、時に母親の名を呼んで、生きながら腐臭に犯され、小さな動物達に肉を齧られる身の上を嘆いている。
 ――何だろう、これは。
 彼は罪人を凝視した。不恰好で、醜く、あまり良い物だとは思えない。しかし不思議と目を惹き付ける強烈な何かがあった。
 彼の気配で数匹の鼠が逃げ出したせいか、罪人もこちらに気付いたようである。既に食われて空っぽになった眼窩を向け、後生だから助けてくれ、もう何も悪さはしない、鼠どもが俺の腹を食いちぎろうと狙ってやがるんだ、と涙ながらに訴えた。しかし話している間にも開かれた男の口の中に鼠が入り込み、《声》は絶叫へと変わっていく。血でぐしゃぐしゃになった顔面はあっという間に見えなくなった。
 ――悲痛に喚く、それ。
『ねえ、これが好きなの、メル?』
 人形が愉快そうに笑い、草の上を優雅にターンする。結い上げた金髪は弔いの火のように神々しく舞い上がっていた。
『ずーっと見てるじゃない。この声が好きなのかしら。これがあれば眠気も吹き飛ぶほど、夢中になってくれるの?』
 ――好き? 好き、なのだろうか?
 彼は自問した。胸の奥から酷くどろどろとした熱い奔流が湧き上がってくる。確かに目は冴え、思考は澄み、哀れな罪人の末路を見届けようとしていた。罪人の皮膚の下に一体どんなものがあるのか、どんな血が流れ、どんな懺悔を吐き出すのか、聞き逃すまいと耳をそばだてている。だが、本当に自分はこれを見たいのだろうか?
『そうよ――メルは正しいわ。この男、酷いやり方で彼女を殺したに違いないもの。いやらしい不潔な豚には、こうして食い殺されるのがお似合いなのよね!』
 戸惑う彼に構わず、人形はくるくると回って喜んでいる。
『素敵、なんて素敵なの! そうよ、罪には罰、それが正しい摂理なのだわ! 何に憚るものですか、これは当然の結末よ!』
「……そうだね、エリーゼ」
 口が勝手に同意を示す。いつしか周囲には彼らの他に、多くの人影が立ち並んでいた。
 黒い服を着て踊り狂う男女。墓から這い出して、何事か歌い出す腐乱死体。かたかたとリズムを刻む骨。
 やがてそれは森を震わせ、大気を焦がし、やかましいほどの賛同の歌へと変わった。教会の鐘が背中を押すように響き渡る。それらは白紙の彼の中に、黒々とした感情を刻んでいった。
『ここは墓地。恨み話には事欠かさないわ。ねえ、これなら永遠に続けられる。悪者は自滅するって言う良い見本になったじゃない。私達もこうして復讐していきましょうよ、メル?』
 人形は甘く囁く。死にゆく男の断末魔が夜を引き裂き、彼の鼓膜を甘く揺さぶった。それは教会の鐘と同じように彼らのこれからを予見し、血と泥と蛆で汚れた喜劇の、厳かな開幕を告げているようだった。









END.
(2011.01.25)

こんな始まり方はどうでしょう、な話。
不確定要素のイドルフリードさんの扱いに困り、とりあえずどうにでも解釈できる曖昧な介入をさせてみました。《勝手に動く口》はイドさんでもいいですし、光と闇に乖離したメルヒェンの独白、と言う事でもいいです。
それにしてもこの話を書く為に昔の刑罰を調べていたら、案の定ちょっと気持ち悪くなりました……えげつない。


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