猫の日












 ざりざりと、頬を撫でる感触で目が覚めた。
 目を閉じたまま無意識に隣にいるはずの妻を探して腕を伸ばすが、空を掴むばかりで手応えがない。再びざりざりとした感触。寝ぼけながら手で顔をかばい、邪魔するものを押し退ける。小さな塊が身動ぎながら場所を変え、今度は額に近付くと、ふんふんと息を吹きかけた。
「……エリーザベト?」
 ようやく何かおかしいと気付き、メルヒェンは瞼を開ける。焦点を合わせようと苦労している間に「にゃあ」と甘い鳴き声がした。
 ……猫?
 一気に目が覚めて起き上がる。メルヒェンはまず今いる場所を確認した。猫の集まる町の路地でもなければ港の魚市場でもない、見慣れた自分の城である。広い寝台の片側、本来なら妻が寝ているはずの場所は空になっていた。脱け殻のようにネグリジェが置いてあり、あれ、もう着替えたのかな、まさか下着だけじゃないよな、と余計な心配をしたところで、再度「にゃあ」と鳴き声がした。
「………ええと」
 恐る恐る視線を下げると、メルヒェンに寄り添ってちょこんと真っ白い猫が座っている。小柄な猫だった。行儀良く前足を揃えてこちらを見上げており、視線が合うとぴんと尻尾を立て、何かを期待するように膝に頭を擦り付けてくる。
 ……まさか。
 メルヒェンは勢いよく壁にかかった暦を確認した。予想に違わず、まさしく本日は2月22日。
「しまった、猫の日か!」
 何の因果か突如人間が猫に変わる、もしくは一部分猫化する謎のサプライズ・デーである。以前王子が猫化した姿を見た事があるだけにメルヒェンの理解は早かった。今年はエリーザベトが餌食になってしまったのだ、どうしよう大変だと、冷や汗を流しながら慎重に猫を抱き上げる。
「だ、大丈夫かい。不便はないかな?」
 にゃー
 エリーザベトは可愛らしく鳴く。何て事だ、言葉まで喋れなくなっているのかとメルヒェンは愕然とした。王子が猫化した時は事態を面白がる事も出来たが、自分の妻が急にふわふわした小さい毛玉になってしまうと落ち着いてなどいられない。メルヒェンは寝ぼけた頭を目まぐるしく回転させた。
 とりあえず裸なのは問題だから代わりの布を――いやいや、猫ならば何も着なくても問題ないんだ。落ち着け。大概の猫は裸だ。何かつけているとしたら首輪だ。しかしいくらなんでもエリーザベトに首輪をはめるのは抵抗があるから却下だ。ああ、でも本当なら今日は皆で芝居を見に行く予定だったのに何て事だろう、エリーザベトも張り切ってエリーゼとお揃いのよそ行きのドレスを新調して楽しみにしていたのに……それにしても猫は劇場に入れさせてもらえるんだろうか。まさか追い出されはしないだろうが、もしもの際はバスケットでも準備して、こっそり彼女を入れていこう。あんなに楽しみにしていたんだから何とかして……。いや、それよりもまず心配すべきは本当にこの猫化が今日一日で終わるのかと言う点だ。人形が喋り死者が甦るこのご時世、どんなに事でも起こりうる。こんなふざけたサプライズによってエリーザベトが小鳥ではなく、猫として一生を送るような事になったら――!
 と盛大に取り乱しているところで、ばんと寝室の扉が開いた。
「メル、いい加減に起きたまえ。下でエリーゼ嬢がご立腹だぞ。早く着替えて馬車の準備をしなければ、せっかくの外出が台無しになる可能性がある。今日のチケットを取る為に私がどれだけ助力をしたと思っているんだ?」
 居候のイドルフリードである。彼も何だかんだで城の生活に馴染んでいるのだった。今日もモテを意識したフォーマルな格好である。彼はメルヒェンの様子を見てひっそりと眉を寄せると、扉に手をかけたまま顎をしゃくった。
「何だね、その猫は?」
「それが……エリーザベトなんだ」
 鎮痛な面持ちで打ち明けると、イドルフリードの片眉が綺麗に上がった。
「は?」
「ほら、今日は猫の日だろう。前に王子が猫に変わったのを見た事があるんだが、今回は彼女に当たったようで、口もきけないみたいなんだ……」
「……ふむ」
 しかし彼も童話の住人。何か言いたげに唇を震わせたのは一瞬で、すぐさま口元に指を当てると、あっさり頷いた。
「成る程、心当たりがない訳ではない。私も海にいた頃は、まさに怪異としか呼べないものを見たものだ。神は常に気紛れな奇跡を起こす。例えそれが些か滑稽なものでもね」
「どうしようイド。すぐに戻してやれないだろうか?」
 知恵を貸してくれと頼むと、待て待て、とイドルフリードは掌をこちらに向けた。メルヒェンが抱く猫に目を向け、ゆっくりと諭すように語り出す。
「まあ、まずは落ち着きたまえ。君がそんな調子では奥方が不安がるだろう。それに畜生とは言え、猫の美しきは女性のそれと類似している、と言う説は知っているかね。しなやかな肢体の曲線、アーモンド形の瞳、本能をくすぐる気紛れな性格……なかなか悪いものじゃないと思うが」
「イド、ふざけないでくれ。貴方の自説を暢気に聞いているほど僕は暇じゃないんだ。それよりも早く――!」
「だが姿はどうあれ、彼女は君の奥方だろう?」
 まるでチェスの一手をさすように、イドルフリードは鮮やかに台詞を遮った。
「そう焦る必要はないと思うがね。君が変わらずに、夫として優しくも揺るぎない手を差し伸べる勇気さえあれば、猫化など何の障害になると言うんだい。思えば、記憶をなくして別人のようになった君を再び見い出したのは彼女ではないか。もしや猫になったらお払い箱だとでも?」
「まさか!」
「ならば、否定せずにありのままの彼女を受け入れる事だ。獣の王子が人間の姿に戻るように、お伽噺では大概愛によって魔法が解ける。君も猫の奥方に対して、まずは愛を示す事だ。そうすれば遠からずして変身も解けるだろう」
 なかなか最もな事を言われ、メルヒェンは唾を飲み込んだ。猫も乞うように、にゃん、と可憐な声を上げる。一際まばゆい青い星のような瞳が愛情深く自分を見上げている事に気付いき、切なさで胸が詰まる思いがした。
「……安心して、エリーザベト」
 そうだ、寝起きで取り乱してしまったが、まずは妻の不安を晴らしてやらなくては。
「イドの言う通りだ。喋れなくなったのは困るけれど、君が君だと言う事に違いはない。何とかして今日も劇場に連れていってあげるし、他の皆にも事情を説明して嫌な思いをしないようにするから、心配しないでくれ。どんな姿になっても君は僕の伴侶だ。愛して――」
「二人とも何をしてるの?」
 るよ、と台詞を結びかけたところで、イドルフリードの背後からひょっこり現れたのは。
「……え、は、え?エリーザベト?」
 妻だった。勿論、見慣れた人の形をしている。
「まあ、可愛い猫!迷い込んだのかしら。二人ともずるいわ、教えてくれればいいのに」
 新調したドレスの裾を優雅にさばき、エリーザベトはこちらに駆け寄った。イドルフリードを追い越す際に二人が「メルを呼んでくると言ったのになかなか来ないから、どうしたのかと思ったわ」だの「すまないね、思いがけず面白い見世物があったものだから」だの、言葉を交わしているのが聞こえる。そしてエリーザベトは瞬く間に猫を奪い取り、可愛い可愛いと滑らかな毛並みを撫で始めた。
 メルヒェンはしばし呆然としたが、ふと我に還り、弾かれたように怒鳴る。恥ずかしさのあまり顔に熱が集まった。
「〜〜っイド!」
「おっと、騙した訳じゃない。奥方が猫になったと言い出したのは君だ。さては寝ぼけているのだと思って、少しばかり頭の回転を促してやろうとお喋りしたまでだが」
「詭弁はいい!行き場のなくなった僕の二度目のプロポーズをどうしてくれるんだ!」
『ちょっと、あんた達!揃いも揃って遅いわよ!どれだけメルを起こすのに手間取ってるの――って、はぁ?なんで猫?』
 最後にエリーゼが怒鳴り込み、部屋は更なる混乱を見せたのである。







END.
(2012.02.22)

せっかくの猫の日ですがいちゃいちゃに至れない!



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