夜を選り分けて










 宵の色は完全な黒ではない。沈みゆく太陽と昇り始める月の狭間で、地平線は橙から青、青から藍、と幻惑的な様相を呈す。それが本来の宵闇の姿。優しく夜を迎え入れる色であり、人々の夢が溶け出した色でもある。
 しかし一枚の絵画のような情景も、森の中とあっては届かない。競うように天を目指して枝を張った木々が、空の芸術を細切れにする為だ。それは見ようによっては砕けた色硝子が闇の中に浮かんでいるように見える。
 青年は、常ならば頭上にあるはずのそれが、自分の周囲に広がっている事に気付いた。
 鬱蒼と生い茂る木々は足下へ遠のいている。代わりに、井戸の底から眺めていた夜空の断片が左右に広々と展開されていた。夜空も地平線も驚くほど広大であり、視線を横に動かせば、神の手から生み出されたばかりとでも言うように銀の月が煌々と輝いているのが見える。その圧倒的な美しさに目を奪われながら、自分が星と同じようにぽっかりと浮かび上がっている事を認識し、青年は――メルヒェン・フォン・フリートホーフはぼんやりと瞬いた。
(……空?)
 違和感に気付き、月から視線を引き剥がす。足下に広がる森と、そして自身を包む夜風と星々の姿。彼は今、ちょうど地平線を見渡せるような位置に浮かんでいるのだった。
 屍姫達の唄を求めて森から森へ移動する事は出来たが、こんな空の真ん中にいるとは、まるで烏か魔女の箒のようだ。そんな他愛のない感想を抱いたものの、拭い切れない違和感に眠っていた本能が警鐘を鳴らす。いくら自分が摂理から外れた身とは言え、羽根もないのに空を飛んでいるとはおかしい。だが深く考えようにも意識は霞がかったようにはっきりしない。
 彼は手掛かりを求め、馴染みのある森の景色へと意識を向けた。すると引き寄せられるように、周囲の風景が横に流れていき、気が付くと心の赴くまま、すいすいと木々の間を掻い潜っている。まるで夢の中のようだった。体は驚くほど軽く、流れるように森を疾駆する事が出来る。
 メルヒェンは無心に森を進み、住処である井戸を探した。そこに行けば全ての理由が分かるのではないかと無意識に判断した為だが、不意に森が途切れ、そこに古い教会の姿を見つけると、途端に指一本動かせなくなる。
 何に体が反応したのか、自分でも分からない。不思議と気が焦った。胸騒ぎの正体が掴めぬまま、ゆっくりと教会に近寄る。先刻まで自分がいた事を物語るように、地面には草を踏み分けた足跡が残っていた。道の横手に井戸がある事に気付いたが、そちらに向かう余裕はない。彼はまっすぐに建物に歩み寄り、開け放たれている扉から中を覗いた。
 教会の床は無残にも敷石が剥がされていた。露出した地面には穴が空き、あたかも何匹もの巨大な蛇が這い出した後のようにも見える。部屋の中央には人だかりが出来ており、黒く蠢く人影が一塊になっていた。よくよく目を凝らせばそれは彼が使役していた屍達であり、棺桶を掲げ持って踊っている。そして棺桶の奥、純白のドレスをまとった娘が佇んでいた。
 娘は持て余したように指揮棒を握り締めている。結ばれた黒髪は屍達が近くを踊るたび軽やかに揺れ動いたが、間近で展開される見世物にも興味がないのか、やがておもむろに瞼を閉じた。それはまるで、全ての景色を拒むかのようで。
 メルヒェンは息を飲む。霧のようにぼやけていた意識が一瞬で振り払われた。
「……エリー、ゼ」
 名を声にした途端、どっと記憶が押し寄せてくる。それは先刻、磔刑となった聖女が紡ぎ出した物語の内容であり、更にはその腕の抱擁を受けた事であり――その遥か昔、少女であった彼女と森を歩いた記憶である。
 薬湯の匂い、揺れる母の青薔薇、通り過ぎる森、屋敷のテラス、一人ぼっちの少女、散らばった本、抜け出した秘密の場所、幼い別離――。
 一瞬、それらが何なのか理解できなかった。思い出したい、けれど思い出したくない。相反する想いが滝のように甦る記憶に歯止めをかけようとする。彼は視線も反らせぬまま苦悶に呻き、せめぎ合う二つの感情の正体を知ろうとした。
『間違わないでメル、エリーゼは私よ!』
 思考を遮って掛けられた声。足元には見慣れた少女人形が必死の形相で駆け寄ってくる。メルヒェンは彼女を見下ろし、困惑のまま名を呼ぼうとした。
 そう、こちらがエリーゼだ。いや、こちらもエリーゼ、なのか?
『あんな奴ら、放っておけばいいじゃない!メルが屍揮者じゃなくなったのは惜しいけど、そんなものは瑣末な事だわ。私はずっと貴方の側にいるもの。ねえ、だからお願いよ、そんな顔をしないで頂戴!』
 人形の台詞は半ば泣き声に聞こえた。壊れかけているのか、がくがくと間接ごとに違う動きをする。彼女は這うようにして近付いてきたが、縋ろうとした両腕はするりとメルヒェンを通り抜け、触れる事も出来ないまま地面に倒れ込んだ。
『ああ、なんて事なの!《衝動》から弾き出されてしまったのね、触る事も出来ないなんて!』
 人形が悔しげに喚く。メルヒェンは反射的に手を差し伸べようとしたが、やはり何も掴めないまま反対側へと通り抜けた。ざらりと不安が色濃くなる。
「エリーゼ……もしかして僕達は……」
『どうしてなの、悔しい、悔しいわ!ずっとメルの側にいたのは私なのに!あの子は何もしなかった、私達を助けてくれやしなかった!ずっと待っていただけだった……それなのに、こうしてメルを放り出すなんて!ひどいわ、私はあの子との約束を守ったのに……メルの側にずっといたのに!ずっと守っていたのに!』
 激昂に駆られて我を失っているのか、あるいは何かが決定的に損なわれ始めているのか。困惑するメルヒェンに構わず、人形は倒れ込んだまま地団駄を踏んでいる。既に満足に立てなくなっているのか泥に頬を擦りつけ、ドレスが汚れるのも気にせず手足をばたつかせている様子は鬼気迫るものがあった。よく見ると肩から首筋にまで細かな亀裂が走り、喚くごとに薄い破片となって剥がれ落ちている。彼女を生み出すきっかけとなった聖女の執着が本人に還元された為、その弊害が現れ始めているのだった。
 その姿と重なり、メルヒェンの記憶もまた二重写しとなって甦ってくる。心はずっと一緒だと、泣きそうな顔の少女から人形を手渡された日。再会の約束など、それこそ長い歴史の中で数多くの恋人や友人、あるいは家族が繰り返してきた陳腐な願いだったろうに、それを守る事すら出来ないまま――呆気なく宵闇へと至って。
『駄目よ!どうして思い出そうとするの、どうして受け入れようとするの!私達は外側にいればいいだけなのに、外側で笑っていればいいだけなのに……どうしてこんな風に惨めな思いをしなきゃいけないの……?』
 黙するメルヒェンが過去を回想しているのだと察したのか、人形の声が再び大きくなった。しかし終いには弱々しくなり、やがて嘆きへと変わる。
『嫌よ……嫌、メル……終わらせないで……』
 メルヒェンは言葉を失った。剥き出しになったエリーゼの叫びが鼓膜を叩く。彼はその時になって初めて、これまで廻ってきた七つの童話が差し迫り、己に圧し掛かってきたように感じられた。暴食、嫉妬、怠惰、傲慢、色欲、そして憤怒――生きとし生ける痛みと後悔。
 何も知らなかった。何も知ろうとしなかった。母親が魔女として疎まれている事も、世間の悪意も、それがどんな形で降りかかるかも。もし自分が無頼漢達を我が家に案内せずにいたら、もし普段から警戒して相手の素性を疑うようにしていたら、母とあのような別れ方をしなくて済んだのかもしれない。少女との無邪気な約束を破らずに済んだかもしれない。あるいは屍揮者としての立場に甘んじる事なく、記憶を取り戻す努力をしていたのなら、もっと早く迎えに来る事も出来ただろうし、こうして唐突な覚醒に人形を悲しませる事なく、穏やかに全てを取り戻す事も出来ていたかもしれなかったのに。
 自分が誰に守られているかも知らず。誰を傷付けているかも知らず。ただ、のうのうと存在して――。
 震える掌を広げた。感覚は残っているものの、透き通った淡い影のようになっている己の存在を認める。『メルツ』の記憶と『メルヒェン』の自我が繋がった事により、いかに自分が罪深い身であるのか理解できた。
「無理をしなくていいんだ、エリーゼ。僕達は……あるべき存在ではなかったんだね?」
『っ、いいえ、違うわ、違う、私達は間違っていないの、間違っているのは世界だわ、メルが罰せられるのはおかしいの!』
 人形は激しく首を振った。メルヒェンはそれを見下ろしながら、順繰りに甦る記憶を吸収しようと努めた。それは同時に『メルツ』であった頃の価値観を取り戻す事にも繋がり、屍揮者として復讐を奏でていた己の所業が急に忌まわしく、そして哀れむべきものに感じられてくる。
 しかし彼らが過去を手繰り寄せている間にも、教会の中では次なる変化が起こっていた。瞳を伏せていた娘が目を開き、傍らに立つ男に促されるまま、指揮棒を掲げ持ったのである。
 満を持してそれが振り下ろされると、中央に置かれた棺が音を立てて内側から弾け飛んだ。そして中から黒い棒のようなものが立ち上がり、身の毛もよだつ悲鳴を上げ始める。焼かれた老婆の死体が起き上がったのだ。悲鳴は長く尾を引きながら次第に波打ち、高くなったり低くなりを繰り返しながら、やがて一定の旋律を描き出す。
 唄が始まるのだ。そう気付いたメルヒェンは顔を上げ、かつて聖女であった娘の姿を信じがたい気持ちで凝視した。磔となった縄の痕が手首に残ったままだというのに、きらめく鎖を巻きつけて曲を奏でる彼女には先程のような清らかな意志の表情は見当たらない。教会の中に君臨する彼女達にはメルヒェンの姿が見えないらしく、また壊れかけた人形の姿も眼中にないようだ。ただ淡々と役目をこなしているように見える。
 ――止めさせなければ。
 メルヒェンは反射的に立ち上がり、教会の中を目指した。しかし音楽と共に吹き荒れる呪詛の言葉に全身が怯む。肉体を失い、寄る辺ない存在となったメルヒェンには耐える術がない。彼は透き通る腕で顔を庇い、これから始まる演目に身を備えた。
 屍人の唄は、女優達の悲惨な死に際を再現する為のものである。過去を幻視し、過去を呼び込む為の魔法。以前は井戸の中から全てを垣間見ていたが、屍揮者の役目が聖女に移り変わった現在、教会全体が新たな投影場所となりつつあった。
 老婆の棺を中心に、波紋を描くように変化が始まる。無機質な石壁が薄っすら緑に色づいたかと思うと、柱と言う柱が森の木々に変わった。陳列していた信徒席のベンチは切り株や岩となり、ぼこぼこと歪んだ大地を形成する。祭壇は小さな家に、十字架は大きな菩提樹となり、天井は細密画のように絡み合う暗い枝葉に覆われた。彫刻の天使達は小鳥へと姿を変え、ひょいと柱から身を乗り出すと、石膏の破片を振るい落しながら飛び回る。
 そしてメルヒェンは指揮を振るう聖女の横で、かつて己の肉体だった男が眩しげに目を細めているのを見た。男は金の髪をしているが、確かに水鏡に映した以前の自分と瓜二つ。
 その二人が寄り添っているのだ。メルヒェンは己が分離し、見放されたような錯覚を覚えたが、男が囁く声音からその正体を察する。すっと腹の底が熱くなり、憤怒とも困惑とも呼べない感情が渦巻いた。
「……《衝動》…」
『メル!井戸に戻って!』
 呆然と呟くメルヒェンの前に立ち塞がり、人形が喚く。はっとして視線を落とすと、よろめきながら両手を広げる姿があった。
「しかし、このままでは彼女が……!」
『今の貴方には無理よ!私が……私が何とかするわ、だから一緒に井戸に戻りましょう!』
「エリーゼ、それは出来な、」
『違うの、聞いて!あの子を助けたいのなら、まずは貴方が形を持たなければならないわ!このままでは取り込まれてしまう!出直せばまだ間に合うわ!』
 人形の声は先程とは違った力強さを帯びていた。メルヒェンは頬を打たれたように顔を強張らせると、短い逡巡の末に頷く。どうした経緯でエリーザベトが屍揮者になったのか分からなかったが、それが《衝動》の差し金であるなら下手な事は出来ない。彼の狡猾さならばメルヒェンが一番よく知っている――長らく共に在った人格なのだから。
 しかし出直そうにも、彼らの姿を名残惜しく見つめてしまうのは止められなかった。あの清廉な彼女が《衝動》の駒となっているのだ。記憶を失くした自分にも、躊躇わず愛していたと言ってくれたのに。そして甘言とは言え、常に自分の味方に立っていたはずだった《衝動》に裏切られた事も意外なほどに胸に堪えた。
『メル、早く!』
「……っ」
 人形に促され、彼は歯を食いしばると踵を返す。まずは体勢を整えなければならない。自分の愚鈍さが恨めしかった。森の幻影に侵食された教会に背を向け、外に出る。
 抱き上げる事が出来ない為、人形の歩調に合わせて進んだ。幸い、井戸は道の横手にある。ぎくしゃくと全身を揺する哀れな姿を長く見ずに済んだ。井戸の淵に辿り着くと、人形は半ば転がるようにして暗い水の中へと落ちていく。
 続いてメルヒェンも石造りの淵に片足をかけ、中を覗き込んだ。空間が歪んでいる為、住処である墓場の井戸とも繋がっているはずだ。復讐劇を見守る際、何度もこうして森の地下を行き来してきた。
 しかし手馴れたはずの動作も今日ばかりは抵抗がある。何故だろうかと眉を寄せると、『メルツ』だった頃の記憶が己の死に際を思い出し、ひたひたと恐怖を甦らせているのだと気付いた。それを振り払い、一息で中に身を躍らせる。
 漆黒――。
 続いて、水音。こぽこぽと浮き上がる気泡。錯覚なのだろうか。肉体を失ったはずなのに、沈む感覚だけが不思議と残っており、肌の表面を泡が転がっていくのが分かった。
 不意に『メルツ』の記憶が騒ぎ出す。やがて息は途切れ、肺にまで水が流れ込んでくるはずだと。底から死者達の黒い手が何本も伸びてきて、悲鳴を上げる事すら叶わず、じわじわと引きずり込まれるのだと。
 しかし恐怖に打ち負かされる前に、漆黒の水が唐突に開けた。墓地の枯れ井戸に通じたのだ。見慣れた石壁がぐるりと円を描き、薔薇の蔓が何本か垂れ下がっている。メルヒェンは身震いしながら立ち上がり、自分が月光の差す古巣に辿り着いた事を知った。
『メル、こっち!』
 人形が呼ぶ。見ると彼女はぺたんと座り込み、砂が詰まった井戸の底を両手で掻き出していた。
「ここに何が?」
『ちょっと待ってて。今掘り出すから』
 物に触れられないメルヒェンは黙って見ているしかない。エリーゼは小さな手で黙々と地面を掘り返していたが、不意にぴたりと動きを止めた。窪んだ砂地に指を差し入れ、一気に引き上げる。
「……それは」
『そう、メルの骨よ』
 人形の手に乗っていたのは白い頭蓋骨だった。長らく埋まっていたせいで、眼窩の穴に溜まった砂が零れ落ちている。未発達の大きさが子供時代に亡くなったメルツ・フォン・ルードヴィングの短すぎる人生を物語っていた。
『死体は土から掘り返しただけじゃ生き返らない。けれど私達が復讐へ誘う事で屍を揺り動かしたように、確固とした目的を持った時にこそ魔法が宿るの。今のあの子が屍揮者として動けるのも、似たような理屈だわ。私だってそう』
 人形は頭蓋骨を脇に置き、それから次々と他の部位を掘り当てた。
『指揮棒があれば動かす事も出来たでしょうけど、それも今は無理。だからメルも自力で宿るしかないわ』
 彼女は一心不乱に砂を掘る。メルヒェンは並べられていく白い物体が俄かには自分の物だと実感できなかったが、受け入れるしかないのだと理解していた。やがて遺骨の大半が地表に浮かび上がると、人形は赤子をあやすようにして頭蓋骨を抱え込み、メルヒェンを手招いた。
『準備が出来たわ。ここに座って』
 促され、砂地に跪く。人形はメルヒェンの正面に歩み寄ると、触れられないとしても両手を添えるようにと指示した。人形の手を包み込むような形で頭蓋骨に掌を差し出す。
 井戸の中が、ゆらりと揺らめき始めた。溜まっていた空気が渦を巻き、徐々に速度を増していく。それは薔薇の蔓を揺らし、閉じていた花弁すら毟り取っていった。墓地からの怨念を吸い上げたかのように空気には紫の靄が混じり、低い呪詛のような、あるいは過去の記憶をかき混ぜたような、様々な声が反響しながら響き渡る。頭蓋骨は次第に白く発光し始め、とくん、と鼓動にも近い身震いを起こした。受肉のまじないが始まったのである。
 メルヒェンは期待と不安の混じる面差しでじっと頭蓋骨を見つめていた。一刻も早くエリーザベトを止めに行かなければ。復讐劇は屍人の記憶を再演し、過去を理解してから始めるのだから、それなりの時間がかかるはず。しかし自分が屍揮者をしていた時と全く同じような手順が繰り返されるとは限らない。 そう忙しく算段を巡らせていたメルヒェンだったが、ふと頭蓋骨を抱えている小さな手が、井戸の中で巻き起こる風に煽られて、更にひび割れている事に気付いた。
 はっとして顔を上げる。予想に違わず、目の前には眉を寄せた人形の顔があった。元より細かな亀裂は出来ていたが、紫の靄が触手のように割れ目へと入り込み、音を立てて表面を剥がし始めていたのである。滑らかな陶器の肌がひび割れて、ぱらぱらと地面に落ちていた。
「エリーゼ、まさか……!」
『駄目、離れないで!普通に成功する訳ないじゃない、井戸には贄が必要だわ!メルの記憶が戻ったし、今度はあの子が屍揮者になったんだもの、どうせ私は壊れるしかない!だったら最後の見せ場くらい作らせて頂戴!』
 甘い同情や困惑など跳ね飛ばすような、強固な声だった。その叫びで崩壊が早まり、遂に額から右頬にかけて大きな割れ目が広がったかと思うと、綺麗な碧玉の瞳が砕け散る。しかし人形はまるで前髪を払うかのような仕草で頭を一振りし、邪魔な破片を跳ね除けた。残った左目には驚くほどの力が蓄えられ、メルヒェンの心を突き刺し、一息に納得させようとしている。
 止めろと言いかけた声が固まった。決意を固めた人形の前で、その言葉はあまりにも安っぽく感じられる。メルヒェンは口を開きかね、何度か唇を動かしたが、吐き出された言葉は惨めな謝罪にしかならなかった。
「……すまない、僕は何一つ考えていなかったんだ。その代償を君が払う事になるなんて――」
『メル。野薔薇姫のお話の教訓を覚えてる?』
 今度は右肩を砕け散らせながら、人形が唐突に尋ねる。メルヒェンは意図が飲み込めず、溢れかけていた言葉を飲み込んだ。
「……教、訓?」
『ええ、そうよ。教訓。思い出して』
「……ご婦人方の矜持を傷付けると、恐ろしい事になる」 
『そう、私だってプライドがあるわ。人形でも女だもの。綺麗に別れさせて頂戴。それにメルのツケをあの子にだけ払わせるなんて、ずるいじゃないの!』
 人形は皮肉に笑った。しかしそれは誰かを嘲るようなものではなく、これから起こる破滅を迎え入れる為のもの。砕けていく彼女とは反対に、二人の間にある頭蓋骨はいよいよ光り輝くようになっていた。別れの時が近づいているのだ。
「……君が、僕を今まで生かしてくれたんだね」
『いいえ、違うわ。貴方が私を生かしていたのよ。貴方の在り方が変わるのなら、私だって変わらなければならないわ。それが今回たまたまこの方法だっただけ。それだけよ』
 何かを言わなければならないと思うのに、つかえたように言葉が出てこなくなる。泣けるものなら泣いてしまいたかった。だが実体のないメルヒェンに零せる涙はなく、ただ喉が震える感覚だけが広がっていく。
『メル。最後に一つ……お願いをしてもいい?』
 人形が囁いた。
『私だけを、エリーゼと呼んで。あの子には立派な本当の名前があるわ……これから他の愛称を付けてもらう時間だってある。でも、私にはないの。エリーゼ以外の呼び名がないの。だから、それだけは私に頂戴』
 妙に抑揚のない声が彼女の刻限を表しているようだった。予想外の願いに胸を突かれ、メルヒェンは顔を歪める。
 その名は、確かに子供時代に大切にしていた名だった。初めての友人を呼ぶ為に使われた名前。宝石のような記憶。しかし同じ名にまつわる思い出を、現在の自分は持っている。
「分かった……ありがとう、エリーゼ。君は、とても素敵な女性だ」
『うふふ』
 当然よ、と小生意気な返事が聞こえた気がした。あるいは耳慣れたその口調を記憶が再生しただけだったのかもしれない。既に亀裂は彼女の顔を覆い、決定的な部分を損ねていたのだから。
 ぱきん、と。
 軽すぎる音を残し、顔が、手が、そして全身が粉々に砕け散る。金の髪が、碧い瞳が、白い肌が、小さな爪が空気に溶けた。
 同時にメルヒェンの意識が引っ張られる。頭蓋骨が光り輝き、視界一杯に広がった。耳鳴りが大きくなる。そして――。





 しゃらりと掌が砂を掴んでいた。薄暗い視界は砂地と石壁に占められている。投げ出された手足が鉛のように重い。轟々と渦巻いていた風は止み、井戸の底は常のような静寂に支配されていた。
 ゆっくりと起き上がる。髪の隙間からも砂が零れ落ち、肩の上を優しく叩いた。視線を下ろすと胸元まで届く髪は銀色をしていたが、伸びた手足は子供のものではなく、時を経た青年のものに変わっている。
 井戸の底には何も残っていなかった。ただ砂を掘り返した跡だけが、ほのかな月光に浮かび上がっている。
 地を見下ろす彼の頬に、涙が一筋、伝い落ちていった。







END.
(2011.11.09)

エリーゼに見せ場をあげたい。



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