浅く、手探りの












 革命によって廃虚となった教会をテレーゼが次なる住処と決めた時、村の男達が古い堂内を改装しようと申し出た。
 男の一人は、新しい薬師を出迎えられて嬉しい、なにしろ二年前に産婆が亡くなってから誰も薬草の見分けがつかなくなってしまったのだと言って、喜び勇んで古びた参列席と祈祷台を外に運び出した。また別の男は職人らしい確かな手付きで雨樋を直し、錆び付いた扉を新しい物に変えた。
 石造りの教会。その中、暖炉が備えつけられた一室は他と違って四方を薄緑の壁紙に包まれている。神父の居住だったのだろう。革命の痕跡か、血とも泥ともつかない染みや破かれた跡がついていた。それを見とがめた職人が、新しく壁紙を張り替えやしょう、と提案してくれた。
「うちの店ですぐ用意できるのがですね、これとこれ、それからこの柄。賢女様のお好きなものを持ってきやすよ」
 四角く切った布柄のサンプルを机に並べられる。華美を好まない性格から、テレーゼはすぐさま無地の物を指差そうとした。
 しかし直前に思い直し、手を止める。彼女は傍らに立つ息子に尋ねた。
「メル」
「……はい!」
 呼びかけると、ぱっと赤い両目が上げられる。健やかな意志が宿る証に、二つの瞳は軽やかに焦点を結び、笑みの形へと細められた。まるで母親の顔を今初めて確認した、とでも言うように。
「貴方が選びなさい」
「え?」
「貴方も物事の善し悪しが分かる年になりましたし──これも良い記念となるでしょう。私に代わって、好きな柄を選んでごらんなさい」
 すると息子は染め粉をまぶしたように頬を赤らめ、本当ですか、と声を高ぶらせた。一人前に扱われて嬉しかったのが一つ。そしてまた、これが母親からの祝福だと理解したのが一つ。
 彼はさっそく机に並べられたサンプルを熱心に眺め始めた。枕ほどの大きさに切り取られた壁紙は、一通りのパターンを描いて編み込まれている。そこにあるのは単純な図形であったり、素朴な草花の意表であったり、はたまた天使の絵柄であったりと様々だ。嬉しさから漏れ出る笑みを無理に噛み殺し、真面目な顔を作って思案を重ねている息子の姿を、テレーゼは深い安らぎと共に眺める。きらきらと輝く赤い瞳を村の男達は珍しがったが、幼いながらに利発さを伺わせる少年の面立ちを気味悪がる人間は今のところおらず、むしろ善意を持って見守ってくれていた。
 この雄弁な瞳に光が灯らなかった過去があったなど、今となっては誰が信じよう。当のテレーゼであってさえ、それは遥か昔の事に感じられた。息子はようやく神から生まれついて与えられる恩恵を享受する事ができたのだ。
「ええと……これが良いと思います」
 やがて選ばれた一枚は、意外な事に植物をモチーフにした幾何学模様のもの。ややしつこすぎるパターンでテレーゼの好みからは逸脱していたが、彼女はむしろ多大な興味を持って息子に尋ねた。
「どうしてこれを?」
「懐かしかったんです。昔住んでいた家も、こういう壁紙だったでしょ?」
 はきはきと彼は答える。言われてみれば色合いこそ違え、その模様は数年前に暮らした屋敷の内装に似ていた。
「最初は、細い糸の凹凸があるんです。それがだんだん盛り上がって、四つの線が一つに合わさった後、くるんと丸まって、また四つに分かれるんです。それがあちこちに規則正しく散らばっていて、賑やかで、探すのが楽しみだったんです」
 視力を得ても尚、息子の中には過去の侘しい暗闇すら無邪気に残っているようだった。おそらく彼にとっては、盲目であった事も決して不幸ではなかったに違いない。手探りで床を這い、壁に捕まり、補助なしでは満足に歩けなかった時代でさえ、風の匂いを嗅ぎ、土の感触を伝い、陽の暖かさを感じていた。それを不憫に思ったのは母親のエゴだったのかもしれない──今になってテレーゼはそう考える。
「……そう。それでいいのね」
「はい!」
 けれど世界は美しいものだと信じきっている息子に、与えられる限りの物をあげたかった。間違いだらけの生い立ちでも、この命だけは、この子の命だけは間違いであってはならない。やがて子供から少年に、少年から青年に成長する過程の中で、森の緑や陽の明るさはどれだけ彼を育てるだろう。
 新しく与えられた光も、闇を生きた幼い知恵も、やがて息子の糧となれば、それでいい。
「分かりました。ではこれに決めましょう」
 テレーゼは一つ頷いて、職人に指示を出した。あっという間に張られた壁紙はやはりしつこすぎる趣きがあり、息子は予想以上の仕上がりに目を回しかけていたが、こうして感触の世界と視覚の世界の違いを学ぶ必要がある。しばらくすると壁紙の模様にも慣れ、不自由なく部屋で過ごせるようになった。
 相変わらず物を触って確かめる癖は抜けない。しかし時にそれは、面白い発見を連れてきてくれる。
「ムッティ、昔、こういう犬がいなかった?」
 ある日、庭に迷い込んだ犬を撫でてやりながら、息子が不意にそう言い出した事があった。
「モーリッツの事?」
「ううん。モーリッツなら僕も覚えているもの。もっと、ずっと昔。とってもふさふさしていて……」
 小さな首がそこで、こくんと傾く。
「……あれ。でも犬じゃなくて猫だったのかな。全然吠えないし、引っ張っても暴れなかったし……あれ?」
 古すぎる記憶に混乱しているらしい。息子の助けとなるよう大型犬を飼った事はあったが、それ以前となると心当たりがない。テレーゼは眉を寄せて考え込んだが、ふと懐かしい顔を思い出し、思わず吹き出した。
「ああ……いたかもしれないわね。青い毛の、いかつい犬が」
「青?」
「ええ。そうよ、そうね、貴方が赤ちゃんの頃に、いたかもしれないわ」
 そう言えばあの城にも、趣味の悪い壁紙があった。地下の子供部屋、即席のタぺストリー、丈の短い絨毯、不器用な子守。伯爵に世話になったのは随分と昔の事だが、意外にも息子はぼんやりと覚えているようだった。
 ──ああ、この子はやはり賢い。最も安全だった場所の記憶を、今も持っている。
 テレーゼは唇を吊り上げて不思議そうにしている息子の隣にしゃがみ込み、懐かしい人を思い起こさせる迷い犬の毛並を、そっと撫でた。








END.
(2011.08.02)

日記ログ。気になる部屋の内装について、自家設定のテレーゼ&青髭&メルツで。


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