敗北祝歌











 妻は若く従順であったが主張する事を知らず、芸術家が絵筆を握る熱心さでもって、結婚生活という題名の絵画を描き続けてきたような女だった。良妻とはこうあるべきだと信ずるあまり、一枚の挿絵になってしまったような。
 ええ、そうね。貴方のおっしゃる通りだわ。
 しとやかな受け答え。控えめな笑み。男を立て、決して口答えしない献身的な口元。両手は指先まで品良く揃えられ、立っていようが座っていようが上品に、しかし心細く重ねられていた。
 それが親の教育のせいだったのか、あるいは単に萎縮していただけだったのか、今となっては定かでない。夜の褥で乱雑に肌を暴き、留守中に鎖を巻いてさえ、妻は満足に反抗しなかった。唾を飛ばして夫をなじるような度胸のある女ではなかったのだ。ただただ子供のように困惑し、不安げな顔で止めて欲しいと小さく訴えるだけで、少し怒鳴れば呆気ないほど静かになる。
 よって、青髭はしばしば彼女の存在を忘れた。亡き人の復讐が終わるまでは手元に置いておかなければならない駒である。逃げ出さないよう鎖で繋ぎ、その忠誠を確かめずにはいられなくとも、それは普段あまりに縁遠い存在だった。種を蒔いたからには水を与えねばならないという義務感から思い出す事はあっても、領地から領地へと馬を走らせ他家の連中と交渉に当たり、面倒な政務が終わって一服する最中さえ、妻の姿を思い出す事は稀である。彼女は害のない羊であり、気紛れに愛でる為の花であった。都合よく思い出し、都合よく忘れる。
「奥方様の誕生日は如何するおつもりですか?」
 だからこそ供回りの若者から尋ねられた時、青髭は刹那の思案に浸るのみだった。忘却の彼方から引っ張り出した伴侶の記念日に、取り立てて深い情熱はない。誕生日を知らぬ事を恥じたりもしない。ただ夫としての立場から、何か祝いを贈らねばなるまいと思ったに過ぎなかった。
 いつだと尋ねると、若者は七日後の日付を告げる。面倒だと言うのが本音だった。
「……客を呼ぶには時間がない。宴の規模は小さくても問題なかろう」
「では、贈り物は何になさいますか?」
 若者は細やかに尋ねる。青髭はこれまでも何度か妻に物を贈った事があった。何連もの玉の首飾り、異国の布地に金糸銀糸で縫い取りをした厚手のマント、卵色の絹にレースの縁取りを施した手袋、宝石の付いた靴。金に糸目をつけなければ簡単に手に入るものばかり。
 青髭は考えを放棄し、何でもいいから適当に見繕っておけ、と頼んだ。では手配しておきましょう、と若者は悲しげに頷いた。ドレスなど如何でしょうか。奥方様の髪には白い布地がお似合いでしょうからと。そして青髭はその案に同意し、彼に手配を任せる旨の指示書をしたためて執事に渡したのだった。
 若者が呼んだ仕立て屋は腕の良さによって城の出入り業者に名を連ねる事に成功した人物で、しばしば城主の衣服も手がけている。豹の毛皮で裏打ちされたマントもその男の作品だった。仕立て屋は妻の体を採寸し、やがて淡雪のような華飾衣を一枚縫い上げた。
 ごく内輪で行った誕生祝いの席。妻は新しい晴れ着を身につけ、頬を薔薇色にさせていた。気に入ったのかと尋ねると、彼女は滑稽なほどに何度も頷いてみせる。
 ええ、勿論。気に入らないはずがありませんわ。吸い付くような滑らかな布よ。色も真珠のようで素敵だわ――貴方がこれを見繕ってくれたのですってね。私を引き立てる布地だと、仕立て屋も賞賛していましたわ。奥様の事をよく分かっておいでだと。ああ、嬉しいわ、本当にありがとうございます。貴方も私を見て下さっていたのね――。
 子犬のような忠誠心と単純さ。贈り物に夫の真心がこもっていると疑いもしない。青髭は妻を見下ろし、内心で苦笑した。お前が愛だと信じる物は確かに私の懐から出されたものだが、心があるとは限らないのに、と。
 けれど青髭の抱いた軽蔑と憐憫は最終的に自分へと跳ね返ってくる事になる。やがて時が経ち、妻が不貞を働いた相手は彼女の華飾衣を手配した、あの供回りの若者だったのだから。
 人は一つの祈りに身を燃やしながら、また別の欲望によって灰を掴まされる。
 裏切られたのはいつからだろう。若者はいつから妻に似合う色を見出していたのだろう。そして例え知らずとも、子犬のように尻尾を振りながら、あの時から妻は愛人の選んだドレスで身を飾り、無邪気に喜んでいたと言うのか。あの白い胸囲をまさぐり、幾重にも広がる裾をめくり上げて、自分の知らない城の底、果たしてどんな暗い褥が二人の間で燃え上がったのだろう。
 欺かれた事実は青髭の矜持を傷つける。閉じ込めた部屋、斬り捨てた部下の腹、暗闇に打ち震える白い裸体。しかし身を飾る宝石を失くし、自らの髪を編んで冠とした妻の目は、何故か不思議と穏やかだった。
 ねえ、貴方。何か本を読んで下さいな。ロマンスがいいわ。馬鹿な私にも分かるように教えて下さいね――。
 これまでの臆病さが嘘のように、妻は躊躇いなく想いを口にする。恍惚と狂っていく彼女に恐怖を覚えながらも、その手を離す事は既にできなくなっていた。征服欲は男に与えられた業の一つだと言う。青髭はその欲でもって妻を所有し、結果的に命までも奪い取った。
 凶行の末。鶏をさばくように鎖で吊るし、揺らめいた血濡れの衣。その裾に別離の口付けを落としてやる。
 ――退屈な白よりも、お前には苛烈な緋がよく似合う。それが私の捧げる真の見立てだ。そうしてここで永遠に思い知るがいい。誰が本当にお前の主人だったのか、と。
 部屋を封じれば世界には変わらぬ日常がある。青髭は再び妻の事を忘れた。骨となるばかりの死体の事など忘れた。彼は昔から女と言う生き物を理解できない。賢女と呼ばれた女も呆気なく滅びゆく道を選んだ。彼女の加護を受けながらも火を煽った恩知らずの豚達などは、既に人間ではない。得てして愚かな全ての女達。
 しかし形ばかりに妻の遺品を整理し、火の中に放り込もうとしていた際、青髭の手を止めた品がひとつだけある。
 木彫りの文箱の中。懐かしい彼女の誕生日の際、青髭が指示を出す為にしたためた短い書類――妻に何か新しい晴れ着を用意しろと――そう書いた直筆のメモ。どこから手に入れたのか彼女はそれを後生大事にしまい込んでいたのだ。湿気を吸い取る油紙に包み、花を詰めた香り袋を上に乗せて。
 青髭はその事実にしばし愕然とし、やがて声を出して笑い始めた。
 ならば全てを知りながら、妻は喜んでみせたのか。金を渡して他人に用意された華飾衣を、ただ手配した夫の行いが嬉しいと、真実を文箱にしまい込んで鮮やかに騙されてみせたのか。それほどまでに、愛を信じようとしていたとでも?
 彼の笑いは次第に衰え、肺を侵されたような不安定な吐息へと変わった。ぜえぜえと咳き込み、口元を歪めながら文箱を机に戻す。捩れた欲望から一枚一枚狂気の覆いを取り払い、裸になった胸に残ったのは、荒涼とした敗北感だった。
 ――ああ、裏切り者たる愛よ。今後お前ほどの強敵を、私は知る事がないだろう。
 真の勝者は作為的な祝いの中にさえ愛を見出した、かの妻に他ならない。








END.
(2011.04.28)

捧げものでした。捧げものにしては辛気臭い内容ですが、愛だけは一杯です。


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