少年偶像.1











 何かが私を試している。
 繰り返される高熱の揺らぎ。止まない吐き気が意識を苛む。上等な絹の寝台で横たわり、朦朧と少年は黄金の目を見開いていた。
 ぐらぐらと視界が定まらない違和感にはもう慣れた。窓の外では雨が降っているのか、アルカディアの山々は重い緑に染まって稜線さえ雨雲と同化して見える。その厚い雲の向こう、何かが鋭く瞬く気配があった。
 ――ブロンディス。
 少年の小さな呟きに応えるよう、稲光が室内を白く染めあげる。それが嬉しいのか恐ろしいのか自分でも分からぬまま、柔らかい髪をシーツに巻き込んでレオンは気だるげに首を傾けた。黄金色の一房が耳元を掠め、何かを囁くようにさらりと流れる。
 沸騰した血が神経を焼ききるのではないかと思うほど、この三日間、八つになる第一王子の体調は崩れたままだ。母が甲斐甲斐しく看病してくれる気配を傍らで感じながらも、既に汗を出し尽くして乾いた唇は動かす事もままならない。
「は、はうえ……雷が……」
「ええ、本当ね。きっと貴方が試練に打ち勝つよう、ブロンディスが励まして下さっているのですよ」
 汗ばむ額を撫で、薄っすらと瞳を潤ませながらイサドラは我が子を慈しむ。金の髪に縁取られた不安げな母の顔は申し訳ないほど優しかった。
「大丈夫……すぐに熱も収まるわ。お父様もこうして王になられたのだから」
「はい……」
 レオンは小さく頷く。苦痛にうなされるのも初めてではない。雷神の力を受け継いだ者は幼少期に床に臥す事が多く、強すぎるブロンディスの能力を人間の身に受け入れる為、成長痛とも呼べる高熱と吐き気に襲われるのだった。
 強大すぎる力を受け入れる事が出来ず、全身が吹き飛んだ王の伝説もアルカディアの子ならば誰もが寝物語で聞いている。いずれ自分もそうなるのではないかと心細く、レオンは母の声に縋りながら神の恩寵が四肢に馴染むのを健気に待っていた。
 実際、生まれた当日にブロンディスの洗礼を受けた彼の潜在能力は幼いながらに凄まじい。こうして雷の到来を予測する事もあれば呼び寄せる事も、更には意識せずに地へ放つ事もあった。何かの折に触れて暴走する事のないよう周りが気を配ってはいたが、それでも彼を苛む成長痛だけは誰も肩代わり出来ない。何度か生死の境を漂う事もあった。
 ――いつも私は試されている。
 そうレオンが胸で呟く中、閉じた瞼の裏に浮かんだのは、何故か異母兄の姿だった。
 淡々とこちらを死に至らしめる赤い瞳。途端に息が苦しくなり、ひゅう、と喉が詰まっていく。
(弟を不当だと思ったのだ――)
 嘲る過去の声。もう何年も前の事になると言うのに、宴の席で兄に首を絞められた記憶だけは深く体に刻まれている。
「どうしたのです、レオン。苦しいの?」
 母が心配そうに背を擦った。何でもありません、と答えた声は自分でも驚くほど掠れていて顔を歪ませる。不安に駆られると首筋を庇うように押さえる癖がついてしまったが、このトラウマを克服する機会は一生巡ってこないように思えた。
 第一王子として成長したレオンが帝王学を学び始め、スコルピオスが王位継承権を剥奪されて一兵卒から伸し上がっていく過程を歩むようになると、道を違えた異母兄弟の確執は更に深まっていた。彼の立場を奪ったのは自分だと知った今、昔のように無邪気に名を呼べはしない。
 顔を合わせる事さえ減った。スコルピオスは王宮から離れた駐屯地に腰を据え、めきめきと頭角を現していると聞く。若年と言えどもレオンが生まれるまで第一級の教育を受けていた彼の活躍は目覚しく、特に知略や駆け引きなどの分野で優れていた。次第にデミトリウスの信頼も得、重要な任務を任されるまでになっている。
 世継ぎの首を絞めると言う過去は若さ故の短慮だったのだと、王宮内の派閥闘争を恐れたポリュデウケスとカストル兄弟によって内々に伏せられていた。その後、わざわざ王の不興を買う真似をする彼ではない。あくまで忠実な庶子として振舞い始めたスコルピオスが、表立って異母弟に乱暴を働く事は二度となかった。
 それでも彼の敵意が薄れていないとレオンは知っている。熱にうなされて嵐の気配を感じていると、轟く雷に導かれて何故か彼の事を連想していた。
 多分あれが自分にとって、雷神の力を得た事による最初の代償だった。最初の、災い。
 ――私がここで死ねば兄上が玉座に就くのだ。
 その感情をどう呼べばいいのか分からぬまま、また一つ、稲妻が鳴る。




 * * * * * * * *





 一時はもう駄目ではないかと危ぶまれたレオンの熱が下がったのは、更に二日後の事だった。
 その間アルカディアを襲った激しい雷雨は畑の作物を幾らか傷つけはしたが、王子が命を取り留めた事に比べれば何でもないと領民は喜び、看病に明け暮れていたイサドラも休息を得る。執政の為に辺境へ足を伸ばしていた父王も朝一番に届いた手紙でレオンの無事を知り、密かに胸を撫で下ろした。
「カストルにも心配をかけたな」
「いえいえ、ああしてブロンディスの加護を受け入れていくのも殿下のお役目です。本当に、ご無事で何よりでした」
 久々に愛馬で遠乗りに出る王子の後に続くのが嬉しいのか、従者も精悍な顔を綻ばせていた。
 カストルは気立ての良い第一王子に仕える事を何よりも誇りとし、アルカディアの双璧と歌われながら最近では戦場よりも王宮にいる事を好むほどである。ポリュデウケスとの兄弟仲が良い様子も羨ましく、レオンからして見ても気心の知れた大事な臣下だった。
「遠くに出るのも久々だ。どの道を行こう?」
「今の季節ならばヒナゲシが咲いているでしょう。川沿いの道など如何です?」
「うむ、それはいいな」
 大厩舎から白に近い亜麻色の雌馬に跨り、ちらちらと梢の合間から城が覗く浅い森の中を駆けて行くと、ようやくレオンにも生きた心地が湧いてきた。道端には真紅のヒナゲシの他にも、清楚なヒヤシンスが水浴びをする乙女のような佇まいで可憐に咲いている。カストルを始めとして皆が自分の無事を喜んでくれる事も嬉しく、幼い王子は器用に馬を走らせながら天を仰いだ。
 晴れ上がった紺碧に、雨雲の姿はもうない。あれが本当に神の視線なのかは知らないが、産毛を逆立てる特別な気配はレオンの思考をいつも遠くへと運んでいった。黄金の瞳がすうっと空を映す。
 ――私が選ばれた。
 ふと、聖誕日の事を思い出す。初めて自分が命を殺めた記憶。
 彼が五つになった祝いの祭事は、それまでと違って王子自らが神殿で犠牲を捧げる事になった。神話の時代において供物を奉納する儀式は神の守護を得る為にも欠かせない行事。神器の雷槍を使うには幼すぎる為、代わりの短剣を以て子羊の喉を切ろと言う。
「この子は泣いています……痛くは……可哀想ではありませんか?」
 手足を縛られた羊は静かに嘶いていた。まだ一年も生を知らない幼い獣は自由を奪われて祭壇の上に置かれている。その瞳が人間のように潤んで見え、レオンは短刀を握ったまま躊躇っていた。金銀細工で飾り立てられた装束が妙に重かった事を覚えている。
「違うぞレオン。よく見なさい、あれは歓喜の涙だ」
 父王は怯える息子を励ますよう、その華奢な肩に手を置いて雄々しく説いた。
「神の申し子であるお前の刃は、ブロンディスの刃と同じ。お前の手によって清められ、子羊の魂は神の元に帰る事を約束されるのだ。悔やむ事はない」
 神の眷属がもたらす死は、神と同等の正当性を持つと人々の間で信じられていた。いぶかしむ余裕もなく、レオンは父の言葉に促されるまま短刀を握り、震える子羊の喉元にあてがう。冷や汗が滲んだ掌の先に大きな黒い瞳が虚空を眺めていた。確かにその黒真珠は、現世を見ていると思えないほど澄んだ目をしている。
 レオンは歯を食いしばり、刃を横に滑らせた。毛皮と肉を裂く鈍い感触と共に、むせ返る鉄錆の匂いが鮮血と共に滴る。ぱっと飛び散った数滴が優しくレオンの頬を叩いた。
 ――なぜ、私なのだろう。
 命を殺めた温さに呆然としたまま、静かに亡骸を見下ろした。
 ――なぜ、神は私を選んだ?
 これが正当な死だと言う。自分が殺めた全ての魂が救済に繋がると言うのなら、それほどの力を得る意味は何なのだ。既に優秀な兄もいると言うのに、それを蹴ってまでこの自分を選んだ神の真意は、一体どこにあるのだ。
 五歳の誕生日の記憶はここで途切れる。それから毎年彼は同じ事を繰り返し、やがて父やカストルに連れられて狩りに参加する事もあったが、無抵抗のまま喉を掻き切られた羊の涙が最も鮮烈な死の匂いで刻まれていた。
 今では獣を狩るのに何の躊躇いもない。いずれ初陣を果たし、人の首を剣で薙ぎ払う事にも徐々に慣れていくのだろう。それが世継ぎの役割と言う事だろうか――。
 ぼんやり馬を川沿いに走らせていると、やがて梢を抜けて庭園に出た。花の満ちた離宮に幾人かの騎兵がいるのを認め、レオンは一度ぎくりと馬を止める。
 あの宮はデミトリウスの側室シャウラの物。つまりは。
「……兄上がお帰りになったのか」
 手綱に付けられた真紅の紐飾りも彼の一隊だと示している。驚いた王子の声音から複雑な感情を感じ取ったのか、カストルも苦笑して答えた。
「そのようですね。どうもシャウラ様の病が芳しくないようですから、見舞いにいらっしゃったのでしょう。しばらく滞在するかもしれぬと聞きました」
「そうか……」
 挨拶に伺おうと、そう言い出せない自分がもどかしかった。無意識に喉元を押さえる。王都に戻ってきた兄を見つけると、レオンは足元が揺らぐような不安を覚えた。いくら神託に選ばれたとは言え現時点で最も王に相応しいのは兄だと言う確信と、自分が生まれた事で彼の立場を奪ったのだと言う罪悪感、そしてどんなに慕っても決して彼に愛される事はないのだと侘しい諦観がひたひたと足首を浸す。
 躊躇っている間に、離宮から赤い肩布が足早に回廊を横切るのが見えた。
 兄だ。険しい横顔はこちらの気配に気付いたのか一瞬だけ傾いたが、振り返る事はない。横目で絡んだ視線はすぐに解けた。
「………」
 レオンは騎乗したまま動けない。兄上と、口元まで出かかった呼びかけも凍る。
 視線が混じった数秒が何倍にも思えた。罵声を浴びせる訳ではない。嘲る訳ではない。ただ兄は幼い第一王子を一瞥し、その価値を振り払うのだ。去っていく無言の背中が最も雄弁に兄弟の情を拒んでいる。
「……なぜ、ブロンディスは兄上を選ばなかったのだろうな」
 兄の姿が消えた後、思わず呟く。
「国境線での活躍は私も聞いている。どうして父上も彼から継承権を剥奪したりしたのだろう。床に臥せってばかりの私などより、よほど兄上の方が優秀ではないか?」
「それは違います。殿下が体調を崩されるのも王子としてのお役目だと、先程も言ったではありませんか」
 忠義なカストルが息巻いた。その誠実さが嬉しく、レオンは慌てて首を振る。
「ああ、違う。そう言う意味ではないのだ。兄上も王位にふさわしいと思う。お強い人だから、きっとブロンディスの力もすんなり受け入れただろう。だが……その機会を神が与えなかったのは何故だろうかと思ったのだ」
「殿下の方が相応しいと、そう判断したのでしょう。どうか自信をお持ちください。私達も貴方を信じております」
「……そうだな。神託ばかりしか持っていない私に、皆、本当によく尽くしてくれる。できるだけ良い王子になろう」
 彼は淡く笑んで、この話はもうやめようと馬首を廻らせた。未だカストルは物言いたげにしていたが、既に馬を逸らせて森へと駆ける王子を止める言葉を持たない。気詰まりな沈黙を風で散らばせながら、一組の主従は離宮を去った。


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