少年偶像.2









 

 イサドラが再び懐妊したと言う朗報がアルカディアに響いたのは、その年の雪解け間際の事である。
 元から丈夫ではない彼女が二度目の子供を宿すとは誰も期待していなかったせいか、順調に育っていく胎内の膨らみに、息子は一人しか持たないと宣言したデミトリウスさえ喜んだ。
「ほら。触って御覧なさい、レオン」
 恐る恐る触れた母の腹は、服の上からでさえ神聖な弾力を感じさせた。イサドラの寝室では身なりの良い奴隷女たちが正妻の世話を焼く手を休め、おっかなびっくり腕を差し出すレオンの様子をにこやかに眺めている。誰もが素直な王子が喜ぶ様を見たいのだ。
「ここに赤子がいるのですか?」
 小さな掌をぺたりと当てて、レオンは緊張の面持ちで尋ねる。まだ胎動が始まる時期ではないが、それでも膨らんだ皮の下に全く別の命が芽生えているのだと思うと鼓動が早まった。
「そうですよ。男の子かしら、女の子かしら。どちらにしろ貴方の兄弟になるのよ」
「……すごい」
 不思議な気持ちだった。まだ顔も知らない小さな命が、母の慈愛の視線の先、自分の掌の下で昏々と眠っているとは。胸の底から初夏の風が吹き付けてくるように、感極まった彼の目にふっと涙が湧いて出る。
 ――新しい、私の兄弟。
 だがそこで浮かんだのは、やはり異母兄の冷ややかな視線と喉の痛みだった。レオンは弾かれたように手を離すと柔らかな感触を恐ろしげに見遣り、気がつくと寝室を飛び出して、肌寒い中庭の片端に蹲っていた。どこをどう走ったのか覚えていないが、頭の中には兄弟と言う言葉がぐるぐると渦巻いている。
「どうなさったのです、殿下。イサドラ様もご心配なさっていましたよ?」
 慌てて探しに来たのだろう。ひょいとカストルが茂みから顔を出した時にも、まだ少年の心は整理されず落ち着かぬままだった。
「どうしようカストル。私に、また兄弟が出来る……!」
 冬の寂しい木陰の下で膝を抱える瞳は、期待と不安できらきらと揺れている。沸き立つ心に自分自身でも戸惑い、なかなか息が出来なかった。
「嬉しいのだ、凄く嬉しい。弟か妹が出来るなんて――今度こそ仲良くしたい。お前とポリュデウケスのような睦まじい兄弟に憧れていたのだ。でも、生まれてくる子が怖くてたまらない」
「……何故です?」
「もしその子が王位を望んだら、また私は恨まれてしまうのだ。どうしよう、どうすればいい?」
 レオンが最も恐れたのはそれだった。王位の継承や雷神の加護など、レオン自身には決める事の出来ない事柄で血の繋がった肉親に牙を向けられるのは辛い。母の腹から生まれ落ちる次の子が、果たして自分を兄と認めてくれるだろうか――不安で泣きそうになった。
「殿下、落ち着いてください」
 何不自由なく育つが故に、たった一点、兄に死を望まれているのだと言う曇りが幼い彼の瞳を翳らせている。カストルは膝を折り、すっかり癖になってしまった首元を押さえているレオンの手をそっと引き剥がしてやった。
「殿下は、私とポリュデウケス兄上が喧嘩をしているのを見た事はお有りですか?」
「……?いや、ない」
 何を言い出すのかと、レオンは首をふるふると振る。カストルは故意に軽い調子で続けた。
「殿下の前では澄ましていますが、これでも兄弟喧嘩は多いんですよ。それこそ殴り合いになった事も多いですし」
「な、殴り合いか……痛そうだな」
「兄上はあれで気が短いんです。痛いですよ。別々に育てられた時期も長かったので、彼と馴染むのは時間が要りました。無事、今では折り合いがつきましたが」
 そっとカストルは苦笑した。
「それと同じです。スコルピオス殿下との事は不幸な事だと思いますが、だからこそ、次の兄弟を一生懸命愛してさしあげて下さい。殿下がきちんと今のお気持ちを伝えれば、何があろうとも最後にはきっと応えてくれますよ」
「そう、だろうか……」
 不安が拭えないレオンは小さく首を傾げたが、それ以上反論することもない。睦まじい兄弟の象徴であるカストルから告げられた助言について、本当だろうかと吟味していたのだろう。何事か思案する様子で眉を寄せていたが、元から素直な気質が美点の王子である。一度ごしごしと頬を擦って気合を入れ、すくっと立ち上がった。
「……母上の所に戻ろう、カストル。取り乱してすまなかった。手間をかけさせてしまったな」
「いいえ、気にしませんよ。それよりイサドラ様のお腹にいる頃から声をかけてやれば、ご兄弟も殿下を早く好きになってくれるとは思いませんか?」
 一瞬きょとんと目を丸くしたレオンは次の瞬間、惚れ惚れするような晴れやかさで微笑んだ。
「それは――とても良い案だと思う」


 それからと言うもの、レオンは事あるごとに胎児の様子を見にイサドラの寝室へ通い詰めた。
 日に日に大きくなる母の腹に耳を当てると、心なしか別の鼓動が聞き取れるように思える。あどけない、別の体温が宿っているように感じる。
 色々な事を話した。新しい馬が厩舎に入っただとか、家庭教師が風邪をひいて苦手な授業が中止になって安心したとか、ようやく宝物庫から伝家の雷槍を見せてもらったとか些細な事柄に過ぎなかったが、期待に満ちてこの上なく楽しい。
「弟と妹のどちらでしょうね。母上はどう思いますか?」
「ふふ、レオンはどちらが良いの?」
「もちろんどちらでも嬉しいです。でも、男か女か分かると私の心構えが変わりますから。弟なら一緒に狩りに行けますし、妹なら毎日花を贈ってやります」
 日の長くなる夏の盛りを過ぎ、次第に山々を覆う空が高くなって斜陽の美しい秋が廻ってくる。イサドラの臨月に差し掛かったものの、ここ最近難しい情勢になっているのか父も兄も忙しく、王宮で姿を見かけない。代わりにデルフィナと言う娘と婚儀を挙げたポリュデウケスが王都に戻ってきており、夫婦揃って王妃の様子を見舞ってくれては幸福を振り分けてくれる。
「貴方がたの子供も早く見たいものだわ」
 イサドラはそう言って、女性同士の他愛無い話に花を咲かせていた。カストルも久々に兄と酒を酌み交わしたりと愉快そうで、再びレオンの羨望と憧れを買っている。
 ――いつか、私も兄上と笑って酒を飲んだりできるだろうか。
 胎児の膨らみを撫でていると、そんな淡い期待が湧いてきた。この子と会ってきちんと仲良くなれたなら、もしかしたら柵を捨ててスコルピオスとも和解する日が来るのかもしれないと、懲りずに考える。
 今回の出産により、王位継承権のある息子を一人しか残さないと宣言したデミトリウスの考えも変わるかもしれない。愛妻家の彼の事、もし弟が生まれた場合はイサドラへの愛情も相まって、末子にも祝福を与えたがるはずだ。そうすれば活躍の目覚しい長子スコルピオスの立場も改めて、きちんと王子として位を復帰させるかもしれない。
 そう思うとレオンは美しい宝石を掌で眺めているような、幸福な心地になるのだった。多くの喜ばしい事がここから繋がっている。

 そして遂に産気づいた母親が、産婆と共に部屋に閉じこもった日。
 夏の最後の悪あがきのように激しい夕立がアルカディアの地へ叩きつけている。雨雲に引かれたのかレオンは久々に成長痛で昼間から寝込むはめになったが、いつ待望の瞬間は訪れるのかと気が気ではない。
 ――無事に生まれてきて欲しい。
 か細い祈りの声は届くだろうか。ぼんやりと見上げた窓の外、いつの間にか雨は止んでいる。
 太陽の輪郭が漆黒の闇に食われていく幻想的な光景を夢と勘違いしたまま、レオンは眠りに落ちた。




* * * * * *

 


 その日、ギリシャ全土は闇に覆われたと叙事詩は語る。
 エジプトで天文学を学んだ哲学者がその日食を予測したと言う記述も一部あるが、昼を夜に変えた空の変事を人々は不吉と感じ取った。そう長い時間ではなかったが、常に天上に君臨する太陽が細い指輪状の輪郭だけを残して消えていく瞬間は永遠のように思えたと言う。
 彼らの国々では各自の守護神を祭る神殿の他、全ての母なる造物主、運命を統べる女神を最高神として称える社を必ず王都に持っていた。その全ての神殿にその日、神託が下る。
 太陽 闇 蝕まれし日
 生まれし堕つる者
 破滅を紡ぐ

 騒然となった。巫女が伝えた言葉を解釈するのは神官や王族達に任せられていたが、この不吉な言葉を巡って秘密裏に議論が行われ、しばらく上層部を戸惑わせる事となる。
 これは世界の破滅を紡ぐ――破壊者の出現を予言したのかと。
 それまでも無数の王国史の中、国を滅すと予言された王子が山に捨てられたり追放されたりと言う悲劇も時折あったが、それも各国内での事。全ての国に予言が下されるほど大規模なものは史上初。うろたえるのも無理はなかった。
 三日後、結論は下された。日食に生まれた子供は全て殺せと。
 幸いにも該当する子供は多くなかった。しかし風神眷属の王国アナトリアでも王妃が出産を終えており、無事に誕生した王子を泣く泣く手放したのだと言う悲嘆も伝えられたが、それはまた別の場所に繋がる物語である――。








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