一階の表示ランプを灯したまま、エレベーターは下降を続けていた。操作パネルも反応がないままである。
 少なくとも五分は過ぎているはずだった。普通に考えれば、かなりの階数を降りた事になる。
 レオンに確認したところ、やはりこのマンションに地下はないらしい。存在しないはずの場所をこんな狭い密室に捕らえられ、延々と通過しているのだ。
 現在どこにいるのか、やがてどこに到着するのか――。
 最初こそ感心していたレオンも、今度は初めて出会う怪異にどう対応したらいいのか悩んでいるようで、天啓を待つように表示盤を見つめ続けている。エレフを巻き込んでしまった事を何度も謝罪するので、別にこれくらい怖くはない、と答えて黙らせた。
「それに、もしかしたら俺のせいなのかもしれない」
 苦い顔で吐き出すと、レオンが戸惑うように首を傾げる。彼は表示盤から視線を外し、腕を組んで壁にもたれかかった。エレフの方はとっくに床に座り込んでいる。
「何故そう思うんだ?」
「曰くがあるのはマンションじゃなく、あの部屋だけだったんだろ。レオンが住んだ事で部屋から追い払われた霊が行き場所をなくしていた時に、俺みたいな下手に霊感がある奴が現れたから、こんなエレベーターまでついてきたのかもしれない」
 曖昧な推測だが、寝る子を起こしてしまったのは自分ではないか、という気はしていた。
 エレベーターに乗る時に垣間見た、あの一瞬の暗さ。廊下の照明が切れたのではなく、本当の悪霊が、あの時に目の前を通り過ぎていったのだとしたら。
「……だが、今は何も見えないのだろう?」
「ああ」
「なら、良かった」
 くしゃりとレオンは微笑む。未だにオバケを見ればエレフが泣くのだと信じているような顔つきに若干の苛立ちを覚えるが、文句を言うのは我慢した。兄は事態の深刻さを彼なりの基準で確かめているだけなのだ。何せレオンにとっては初めての体験である。経験者として何か言うべきは本来エレフの方なのだが、エレベーター内に何の亡霊も見えない以上、有益な手がかりもない。
「こういう時はどうしたらいいのだろう。何か、こう、お経を唱えるとか、すればいいんだろうか」
「……そもそもお経も何も、知らないけど」
「そうだな。不勉強だった」
 これまではレオンやオリオンのような最終兵器がいるので深刻な事態に陥らずに済んでいた。デパートの人ごみで爪の剥がれた青白い手に連れて行かれそうになった時も、無人の音楽室からオルガンの響きが聞こえてきた時も、臨海学校で海の底に沈む無数の飛行機を見た時も、レオンかオリオンが「どうかしたの?」と駆け寄ってくれば、ぱっと全てが消えていたのである。
 その最終兵器で最善策たるレオンと共に、こうして手詰まりになっているのだ。どうしようもない。
「とりあえず、ここにミーシャがいなくて良かった……」
「ああ……ミーシャがいなくて本当に良かった……」
 ひとまずそこに安堵する。二人とも四兄弟の紅一点を、それはそれは大事にしているのだった。
「逆に兄上がいたら、お経のひとつやふたつ、ちゃっちゃと唱えてくれそうな気もするね」
「確かに」
 実際に一番上の兄が経を知っているのか分からなかったが、想像してみると、いかにも頼りになりそうな絵面だった。双子の霊感が判明してからと言うもの、長男の本棚には必ず何冊かオカルト関係の本が置いてあった。レオンやオリオンがいるので役立つ場面は少ないが、長男は不可解なものを知識として理解し、分析しようという姿勢を持ち続けていた。少しは見習うべきだったのかもしれない。
「これが映画なら、あそこから逃げ出すんだろうけど」
 エレフは苦し紛れに頭上を見やる。白い天井には四角い脱出口があった。今は蓋が閉められている。レオンも顔を上げ、手が届くかどうか推し量るように距離を目で測っていた。
「まあ、やれなくもないだろうが……エレベーターが下降している限り、地上には出られないかもしれない。そもそも外はどういう状態なのだろうな」
 耳を澄ませると、ぶうううん……とモーターらしき振動音が聞こえた。
「……あそこから出るのは、最後の最後がいんじゃないかな。どうも危険な気がする」
「……そうだな」
 レオンの案に、エレフも同意した。
 そのまま更に五分、十分と時間が過ぎる。何も変化は起こらなかった。二十分を過ぎるとレオンも床に座り込み、二人でぼんやりと表示盤を見つめるだけになる。住人達が土足で乗り降りしているせいで床には微かな土ぼこりが残っていたが、気にするほどでもない。
 やがてレオンが自分の財布の中身を調べ始めた。何をしているのかと尋ねると「塩でも入っていないかと思って」という斜めな答えが返ってくる。葬式帰りの人間でもあるまいし、財布に塩が入っている大学生など聞いた事がない。
「……で、塩。あるのかよ」
「いや。なかった」
 だろうな。エレフは喉の奥で溜め息を噛み殺した。
 お前は何か役立つものは持っていないのかと聞かれたので、あまり期待しないままスポーツバックを開けてみる。課題の出された教科書とノートが一組、体操着が一着。筆記用具と、友人間で貸し借りしている漫画が二冊。飲みかけのスポーツドリンクが一本。
「ほら、塩なんてないぞ」
「スポーツドリンクを蒸留すれば……この前、テレビでやっていた」
「サバイバルかよ」
 携帯が繋がれば勇気付けられたかもしれないが、画面は相変わらず圏外を示している。ネットを開いて「エレベーター 心霊 解決法」と検索できれば話は早いのだが、そちらも反応せず、ロード画面で固まっていた。
「これがレオンの部屋にいた幽霊か何かの仕業だとしても、何をしたいんだろうな。こいつは」
 投げ遣りにエレフは後ろ髪を掻きあげた。
「普通、ある程度は何かを訴えてくるはずなんだ。恨んでいるとか、苦しいとか……自分の無念を知って欲しい、とか。それもせず、延々とこうして閉じ込める意味が分からない」
 せめて姿を見せればいいものを。エレフとて何年も自分の厄介な体質に付き合ってきたのだ。大概は無視してきたが、黒い影達が何をしたいのか読み取る術は心得ている。改めてエレベーター内を見回した。
 素っ気ない白い壁。操作パネルは最初に試した時のまま、全てのボタンが押された状態で弱々しくオレンジ色に光っている。扉はきちんと閉じられて、上部の表示盤も一階を示したまま動かなかった。エレフは操作パネルの前に座り込み、レオンはその斜め向かい、扉と向かい合う位置に座っている。床にはスポーツバックと財布。天井には電灯と脱出口。
 不気味に唸り続けるモーター音を聞いていると、まるで船に乗っているような感覚に陥った。下降していく感覚は次第に麻痺していたが、時折、ふっと底が抜けていくような錯覚を味わう。
「このまま私達をどこかに連れて行くのが目的なんだろうか」
 レオンが膝の腕で両手を組みながら呟いた。
「だが不思議と、それほど怖くはない。奇妙だとは思うが」
「初体験にしては余裕だな」
 エレフが皮肉っぽく笑うと、レオンは首を振るようにして苦笑した。
「命の危険までは感じないからね。変な感じがするな……あれほど待ち侘びていたと言うのに」
「待ち侘びる?」
「エレフを巻き込んだのは不本意だけれどね。二人が味わっている恐怖が何なのか、私はずっと知りたかった。お前達を見えないあちら側につれていくものが何なのか、その正体を知りたいと思っていた。私やオリオンがいれば全て解決するのだと言われても、いつまでも守れる訳ではないからね」
 エレフは顔をしかめる。顎を上げて天井を見上げている兄の横顔は、常と同じように微笑みの気配があった。
「……ミーシャはともかく、俺は平気だ。もう子供じゃない」
「だが、人とは違うものが見えると言うのは寂しいものじゃないだろうか。時々お前は、ひどく無理をしているように見える」
「違う。レオンの思い込みだ」
「そうかな」
「そうだ」
 レオンは嘘だと言わんばかりに横目でこちらを見たが、エレフが睨みつけると、軽く肩を竦めて何も言わなかった。
「……まさかそれが理由じゃないだろうな」
「ん?」
「このマンションに住んだ理由。怪奇現象を見てみたかった、だなんて」
「……そう睨むな。確かに理由のひとつではあるよ。でも、全部じゃない」
「じゃあ何だよ」
「秘密」
 囁くようにレオンは答える。あまりに軽々と流されるのが腹立たしく、エレフはわざと声を荒げた。
「秘密って何だよ。あんなに突然引越しなんてして。おかげでオリオンは前よりも家に入り浸りだぞ。今日だってミーシャの事を頼んできたけど、あいつら……最近ちょっと、いい雰囲気なんだ」
「ああ、そんな気はしていた」
「レオンの責任だ」
「ふふ」
 久々に聞く弟の我が侭をくすぐたったく感じたのか、レオンは声を出して笑った。
「責任? 人と人との仲に、誰かのせいなんてないんだよ。エレフだって分かっているはずなのに、私を苛める時ばかりそんな風に言う。ここに住んだ理由がそんなに気になるか?」
「……そうだな。こうして言いがかりをつけるくらいには」
「残念。言わないよ。友達の家の事情もあるしね」
 そうしてレオンは話を終わらせた。追求は可能だったが、温和に見えて頑固なところのある兄だ、はぐらかされるだけだろう。少なくとも不動産屋の友人が絡んでいる話なのだと分かり、エレフは渋々引き下がった。
「そう言えば、二人が幼稚園の……かもめ組の頃だったかな」
 エレフの気を他に引く為なのか、レオンが話題を変えた。あるいは今の話が呼び水となって、彼に懐かしい記憶を思い出させたのかもしれない。
「いつものようにミーシャの様子がおかしかったから助けに行こうとしたら、こっちに来ないで、と二人に叫ばれた事があった。覚えているか?」
「いや……」
 エレフは横に首を振る。そもそも幼稚園でかもめ組だった事ですら忘れていた。もう一つの組はなんだったろう。めだか組か?
「裏の神社でだよ。東側が山に接している場所だ。何か可愛い、あやかしか動物霊か、そういうものがいたんだろうね。お前達は夢中になって『それ』と遊んでいた。そして、兄様が近付いたらこの子が消えちゃうから、絶対こっちには来ないで、と」
「…………」
「一人で家に帰りながら、さすがに理不尽だと思ったな。腹を立ててもいた。二人とも好きにすればいいと」
「……ごめん」
「だがその後で、二人は私にお土産を持ってきたんだよ。これで皆で遊んだから、兄様にもお裾分け、って。茶色い木の実でどんぐりに似ていたが、いくら図鑑で調べても載っていなかった。少なくとも日本の木の実ではなかった。お前達は何と、どこで遊んできたんだろう――下手をしたら帰り道を見失って、戻れないはめになっていたんじゃないかと思うと、私はひどく怖かった」
 エレフは黙り込む。自分の記憶に残らない思い出を、繊細な花でも摘んでいくように、ぽつぽつと語っていく兄を見ているのは落ち着かなかった。非日常の中にいるせいか、何故だか遺言を聞いている気分になる。
「この世で一番怖いのは、後悔と罪悪感だよ。あの時に感じた後ろめたさ、自分が子供っぽく腹を立てて二人を置いてきたせいで、とんでもない事が起こったんじゃないかと目の前が暗くなる感覚は、あの後もそうそう訪れなかった。思わず兄上に泣きついたら、珍しく私を慰める言葉が優しくて、ああ、やはりそれだけの事をしてしまったのだなと……」
 語尾が掠れ、レオンは軽く咳払いする。
「あの時に比べれば、今はそう怖くはない。お前と一緒にいるからかな」
 その台詞にエレフが反射的に表情を取り繕った、その瞬間、唐突に、照明が消えた。
 天井の電灯が最初だった。ばん、と音を立てて暗くなる。ぼんやりと光っていた操作パネルも、誰かが蝋燭に息を吹きかけたように一番上から順々に消えていった。扉上部の表示盤だけはしつこく「1」を表示し続けていたが、まるで首尾を確認して満足したように、ゆっくりと最後に消えうせた。
 エレフもレオンも突然の事に声も出なかった。降って湧いたような暗闇に、視力は順応できないまま置き去りにされる。電源が全て切られたのかと思ったが、エレベーターの稼動音は変わらず密やかに唸り続けていた。
 ぶううううん……。
 まだ、下降している。
「……やはり少し怖くなってきたな」
 調子に乗りすぎたようだと苦笑するレオンの声が、闇の中で聞こえた。






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