エレフはマンションの前に立ったまま、そっと瞬きをする。
 一瞬だけ自分の睫毛が日差しを遮ったが、黒い影と言えばそれくらいで、辺りを見回しても特におかしなものは見当たらなかった。日が傾き、夏服のシャツを撫でていく風は涼しいものへと変わっている。ビルの隙間に埋もれていく太陽はあちらこちらに影を作り出していたが、それは至って普通の自然現象だった。赤味を帯びた雲を背に、街の景色が沈んでいく。駐車場の猫がころりと反対側を向き、せっせと毛繕いをしているが見える。下校途中の小学生が笑いながら街路を走りすぎていった。
 どこにでもある、のどかな夏の夕暮れだ。
 悪霊の住処になっている建物は遠目からでも気配が違う。通学電車の窓から景色を眺めていると、時折、ふっと空が翳ったように、一部分が暗く沈んでいるのを見かける事があった。それに比べれば、このマンションは綺麗すぎるほどだ。
(もうレオンが追い払ったのかもな)
 そう推測する。
 ミーシャも兄の一人暮らしを心配して遊びに来たがったが、なにせ霊媒体質で、イタコのような状態になる事が度々あった。下手に連れまわして妙な霊を取り憑かせる訳にはいかないとオリオンと共に置いてきたが、それも取り越し苦労だったかもしれない。
 すぐに影響を受けてしまう妹とは反対に、エレフは霊が見えるだけで実害を受ける事は滅多になかった。小さい頃はあれこれ変なものが見えると泣いたものだが、気付かないふりをすればいいのだと身の振り方を覚えてからは平気になった。こうして一人、高校からの帰り道に兄のマンションに届けものをするくらい慣れたものだ。
 とは言え、レオンが実家に忘れていった届け物が携帯の充電器とあれば、どうにもげんなりしてしまう。現代の必需品を忘れていく兄の暢気さには呆れ返るしかない。これも体質のせいなのか、レオンの使う電気機器は何故か軒並み長持ちするのだが、こんな身近な道具を忘れていくとは。部屋には固定電話がないと聞いた。いざという時に連絡が取れなくなったらどうするつもりなのだろう。
(寂しくなったらいつでも電話としろと言っていたくせに)
 教科書や運動着を詰め込んだスポーツバックから、目的の紙袋を取り出す。エレフはそれを手に、マンションのエントランスへと踏み込んだ。

 目指す部屋は最上階で、エレベーターに乗りこんでもなかなか到着しなかった。
 ようやく十七階に到着し、知らされていた番号を探す。まだ電気を点灯させるには早いのか廊下は薄暗く、他の住人達の気配も希薄で、まるで映画の中の風景のようだった。横目で部屋番号を確認しながら奥に進んでいくと、突き当たりの角部屋に行き当たる。
 チャイムを鳴らすと、授業を終えて帰宅していたらしいレオンが顔を出した。
 シンプルな紺シャツとデニム。ちっとも落ち着かない、毛先の跳ねた茶色い猫毛。数日ぶりに見る兄はどことなく痩せたように見えた。
(いや、別に変わらないか)
 すぐに考えを打ち消す。初めての一人暮らしで、しかも曰くつきの部屋。そうした先入観が思い込みを引き起こしただけで、改めて見直せば、突然の訪問に驚いているレオンの輪郭は記憶の中と変わりはなかった。
 彼はエレフを見ると目を丸くし、すぐに眉を下げる。
「……まだ来るなと言ったのに」
「これ、渡しに来ただけだから。すぐに帰る」
 充電器が入った袋を差し出すと、レオンは怪訝そうに袋を受け取った。中身を確認するよりも、弟が妙なものを見やしないかと気を揉んでいるらしい。だが同時にエレフがわざわざ訪ねてきた事に感激しているらしく、無碍に追い払う事も出来ずにいるようだった。
 そんな彼を見ていると、どうしてまたこんな依頼を引き受けたのだろうと不思議に思う。家族で一番の寂しがり屋は、間違いなくこの兄なのに。
「何か変な事はあったか?」
 尋ねると、レオンはやや上を見つめて考え込んだ。
「いや、特には……。引越し初日に、鋏がなくなった事くらいかな」
「鋏?」
「荷物に入れてきたと思ったんだが、どこを探しても見付からなくて。荷物を片付けていたところだったのに、梱包の紐を切れなくて困ったよ。仕方がないので包丁を使ったけれど、せめてカッターを持ってくれば良かったと後悔した」
「……別にそれ、心霊現象でもなんでもないと思うけど」
「そうか? おかしいな、絶対持ってきたと思ったんだが」
 その程度かとエレフは拍子抜けする。これまで兄の凄まじい除霊っぷりを見てきたが――まるでモーゼのように歩く先々で黒い影を追い払うのだ――それでも一抹の不安はあった。闇の世界の事など人間には計れない。もし万が一の事があったらと、それなりに気にかけてはいたのだが。
「ああ、そう言えば一度だけ、夜中に上の階から足音を聞いたな。ここが最上階で、屋上も人が入れないようになっているんだが」
「鋏より先にそっちを思い出せよ」
「だが、それも一晩きりだった。あとは静かなものだよ」
 穏やかに言い切るレオンに、ふうん、とエレフは頷く。ひとまず元気にやっているらしい。肩越しに室内を覗いても特に怪しい気配は感じられなかった。顔には出ぬまま、そっと胸を撫で下ろす。
「レオンが来て、もう消えたのかもな。手ごわいようならオリオンを連れてこようと思ったんだけど」
 その必要もなさそうだ。レオンは立ち話を続けたい様子だったが、まだ用心しているらしく部屋へ上げようとはしなかった。オバケを恐れて散々泣いている幼少時のエレフの事を覚えているからかもしれない。もう帰ると告げると、駅まで送ると言い出した。
「いいって、別に」
「ちょうど買い物に行こうかと思っていたんだ。いい加減、鋏を買わないとね。いつまでも包丁で代用する訳にもいかないし」
 レオンは財布を持ってくると、部屋に鍵を掛けて廊下に出てきた。隣に並ぶと、まだ兄の方が背が高いと嫌でも意識させられる。
「家事はちゃんとやってんのか?」
「まあ、そこそこかな。まだ散らかすような荷物もないから。部屋が広すぎるんだよ」
 二人は連れ立ってエレベーターホールへと向かった。夕暮れ時だが帰宅ラッシュには早いのか、先程からずっとここに留まっていたらしい。開閉ボタンを押すと、待ち時間もなく扉が開く。
 その時、微かに廊下が暗くなったような気がした。
(……ん?)
 エレフは目を瞬かせる。電灯が切れたのだろうか。だがすぐに扉が閉まり、背後の景色はあっという間に白い壁に遮られた。
 ふわりと浮かび上がるような感覚の後、下降が始まった。
「オリオンは毎日来ているかい?」
 黒字で『一階』と書かれた操作パネルを押し終え、ドア上部の表示盤を見上げながらレオンが尋ねた。兄は自分が留守の間、家に悪いものを寄せ付けないように定期的に通って欲しいとオリオンに頼んでいたのだ。その気遣いはレオンらしいとも言えたが、再び、どうしてそこまでしてこの仕事を引き受けたのだろうかと違和感を覚える。
「だったら――」
 エレフは尋ねようとして、寸前で思い止まった。
 もしかしたらレオンは、いつまでもエレフとミーシャのお守りをしているようでは駄目だと思ったのかもしれない。いわゆる兄弟離れなのか、あるいは、単に疲れてしまったのか。
 オリオンは同じ学校に通う友人なので行動範囲も重なり、特に無理をせずとも行く先々を清めてもらえるが、レオンはそうもいかない。大学生ともなれば、もっと自由にあちこち出歩いてもいいはずだった。
「……来てるよ。知ってるだろ、あいつは元から家に来すぎなんだよ。わざわざ頼まなくてもいいのに」
「そうだけどね、確認だよ。私が安心したいんだ」
 エレフの心情を知ってか知らずか、レオンは何でもないように横顔だけで微笑んだ。わだかまりを感じながら兄の視線を追い、頭上を見上げる。
 扉の上部には現在が何階かを示す表示盤がついていた。オレンジ色のランプがひとつ、またひとつ横に移動していく。やはり誰も乗る人はいないのか、途中で停まる事もない。
「……十七階って結構長いよな」
「ああ。他の人と乗り合わせると、ただ挨拶するだけじゃ気まずく感じる程度の待ち時間はあるね。世間話をした方がいいのか、いつも考えてしまう」
 5、4、3、2……と表示は徐々に移りゆき、ついに「1」のランプが灯った。
 だが扉は開かない。
 それどころか、エレベーターが停止する気配もなかった。まだ下降している。
 あの独特の、浮き上がるような感覚に備えようと体が無意識に身構えていただけに、いつまでたってもそれがやってこないのは落ち着かない。二人は主人の合図を待つ犬のように扉を見つめていたが、明らかに停止する気配がない事を知り、戸惑いを浮かべる。
「……ランプの故障かな」
 レオンが不思議そうに呟く。
(……まさか、エレベーターに乗る瞬間、暗く感じたのって)
 エレフはさっと青ざめた。
 そうだ、十七階に着いた時、まだ廊下の電気はついていなかった。部屋の前でレオンと立ち話をしていた時も薄暗いままだった。ついてもいない照明が、切れるはずもない。
 不吉な予感に捕らわれて飛びつくように開閉ボタンを押す。かちりと沈み込む手ごたえがあるにも関わらず、エレベーターは止まる気配もないまま更に下降を続けていた。表示は一階を示したままだ。
 そもそも、このマンションに地下などあるのだろうか。少なくとも表示には「B1」など書かれていない。
「……貸して」
 異常を察したレオンが低い声を出し、エレフの肩越しに腕を伸ばした。そのまま他のボタンを押すが、反応はない。カチカチと虚しい音が響く。
 二人はあれこれ試してみた。管理会社へ通じる非常用の内線すら繋がらない。扉を叩くがびくともしない。携帯電話を取り出してディスプレイを見ると、これまた見事に「圏外」の表示が――。
 二人は顔を見合わせる。
「…………」
「…………」
「あまりそれらしくないが、もしやこれが、噂の心霊現象というやつだろうか」
「……どちらかというと、都市伝説っぽいかも」
「……凄いな、初めて遭遇したよ」
 レオンは心なしか感動しているようだった。
「似たような話をネットで読んだぞ。異世界に続くエレベーター」
「はしゃぐところじゃないだろ」
「ああ、そうだな、すまない。今まではエレフとミーシャが怖がっているのを、訳も分からず終わらせる事しか出来なかったんだが……成る程、こういう事だったのかと少しは理解できた気がする」
 レオンは声に興奮を滲ませていた。驚きのポイントがずれている気がする。このコメントを聞いて、悪霊やら何やらも脅かしがいがないと悪さを止めてもらえないだろうかと、エレフは虚しく考えた。






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